幕間 探す者たち
「レプス、何かあったのか」
扉を開きながら、若い男は、部屋の中心に座る人物へと問いかけた。
豪奢な部屋だった。この世のすべての富と財を芸を凝らして作り上げられたようなその場所は、彼らにとってはただの日常だったが、ほかのほとんどの人々にとっては、一生を捧げても手に入らないような場所だった。
「ああ、兄上。いくらか、おもしろい進展があったよ」
椅子に腰かける黝の短い髪の男、レプスと呼ばれた者は言った。
「どうやら父上が反応したようだ。書が使われた形跡があるらしい」
「書が? あの子が使えたというのか?」
若い男は男の対面の椅子に腰を下ろした。
「まあ、ゆっくり聞いてくれ、ルサーニュ兄上」
レプスは家族の名を呼ぶと、テーブルの対面にあらかじめ並べられていた――というか、自分で並べた――陶器のカップに、ポットから果実汁を注いだ。
なみなみに注がれた黄色のそれを、ルサーニュと呼ばれた男が値定めするように凝視する。
「あがってくれ。きみの好みで、リンゴのものを用意しておいた」
「なんだ、覚えていたのか。しかし、あまり子ども扱いされては困るな。飲み物くらい自分で注げる」
ルサーニュはそういって、ようやくカップに手をかけて、それを口にした。
暖かく保たれたそれを飲むと、体の内にほのかな幸福感が広がり、無意識に彼の頬を緩ませる。
ルサーシュが飲み込んだのを確かめると、レプスは再び口を開いた。
「わざわざ、おん自らやって来た皇族におもてなしをするのは礼儀の一環だろう。まあ、そうカッカしないで、ゆっくり話を聞いてくれ」
「そういうなら、君も皇族だ」
「側室に何を言ってるんだ、跡取りの兄上様」
最後に皮肉っぽく言い、レプスは切り替えるようにテーブルの上で指を組んだ。
「皇帝閣下のお孫さんが逃げ出したのは何か月前になるんだっけ?」
それまでの皮肉の応酬をすべて忘れたかのように、問われたルサーニュは静かに答えた。
「そうだな、もう十ヶ月近くになる。あの時は参ったな。盛大に祝うはずだった誕生会はすべて空白になり、近衛騎士団総出で帝都じゅうを探し回った。国中の貴族たちに一斉に連絡を取って探させたが、しかし東に行ったか西に行ったかすらわからない始末だった。人生で一番のお祭り騒ぎと言えばあの時だったな。何度わたしも捜索に駆り出されたか」
そこまで言って気づいたように、ルサーニュはむっ、と眉をやや深めた。
「というか、『皇帝閣下のお孫さん』などと他人行儀な言い方をするんじゃない。家族だぞ。母上に教育されたことを忘れたか」
レプスは皮肉っぽく笑った。
「その大原則を破って、盛大な家出を実行したのは、その当の『家族』のはずなんだけど」
ピリ、と部屋中の空気が、一斉に質量を持った。
ルサーニュは押し黙った。
そして、はぁ、とため息をつく。
「違う、こんな話を聞きに来たんじゃない。この話は十か月前にいくらでもした。で、進展があったんだな。どんな進展だ、聞かせてくれ」
部屋の空気が、何食わぬ顔で、いつも通り漂い始める。
レプスは口を開いた。
「ああ。つい先日、知識の書が使われたらしい」
「それはさっき聞いた。父上がそれを感知した、と言うのも。しかし、それは本当か? 彼女に知識の書が使えたのか?」
「使えないはずなんだけどね。頭が柔らかいうちに使おうとするとよくないっていうから、十五になるまでは、使えないようにしてあるはずなんだけど」
「それはわたしが一番よくわかっている。彼女はまだ十四のはずだ。使えるはずがない」
「うん、でも、使われたことを、父上が感知した。これは間違いない。兄上もよくわかってるでしょ?」
ルサーニュは、遠い過去の思い出をたどるように、目を左上に動かした。
彼が何かを考えるときにするくせだった。
それを知っているレプスは、その考える時間を邪魔しないように、自分の方のカップに果実汁を注いで、ひとくちすすった。
「ああ。今も母上は、知識の書を覗いておられる。それが感じられる」
「そういう事だよ」
「距離に制限があるものと思っていたが」
「運動不足ってよくないよね。特に皇族は、ほとんど外に出ないんだから」
レプスは冗談めかして言った。
「今はそんな話をしているんじゃない。とにかく、父上はなんと言っておられた?」
「無理やり何かが入ってきたような感覚だ、と本人は言っていたよ。最初は何かと思ったらしいけど、そのあとに、彼女だ、と確信したらしい」
ルサーシュは、再び考えるいつもの仕草をした。
それを見て、再びレプスは果実汁を飲んだ。
「距離や方角はわかったのか?」
顔を上げたルサーニュが、神妙な顔つきで聞いた。
いつも何か考えてるような表情なのに、さらに神妙になると怖いな。
レプスは思いながら、カップから口を離した。
そしていつもの顔をよそおいながら口を開く。
「正確な位置はダメだったけど、大まかな場所や方角は特定できたよ」
「それはどこなんだ?」
「それが困ったことにね……。まあ、そもそも僕としては、彼女が生きていたことに驚きなんだけども……。弱冠十四の女の子が、まさか、あんなところまで逃げおおせているとはね……」
レプスは、参ったというように、目を伏せて、椅子に深く腰掛けた。
そして、ひとつため息をつく。
「どこなんだ? もったいぶらずに言ってくれ」
しびれを切らしたように、ルサーニュは催促する。
レプスは待ってくれ、と一言言い、たっぷり果実汁をすすって机に置くまでの時間を空けてから、口を開いた。
「方角は西の方だ。西の方、はるか三〇〇〇ディーだ、と父上は――――」
ガタッ、とルサーニュは席を立った。
「西に三〇〇〇ディーだと!?」
その顔には、吃驚と少しの怒りが込められた表情があった。
その表情を一瞥して、レプスは勘弁してくれ、と内心で悪態をついた。
兄のこの顔は、この世で最も恐ろしいものの一つだ。
「テーリン山まで行ったのか。帝国の最西端じゃないか。あそこを超えられれば、もう帝国の手は伸ばせられないぞ」
はあ、だからこの役目は嫌だったんだよ……。
レプスは再び、心底で悪態をついた。
「兄上、まずは落ち着いてくれ。ひっくり返した僕の椅子をまずは直して、ゆっくりと腰を落ち着かせてくれ」
「……ああ、すまない」
はっ、と我にかえったように、ルサーニュは倒れた椅子を立て、腰を落ち着けた。
「で、兄上……父上が、近衛騎士団を直々に、そちらへと向かわせるそうだ」
「ああ、よかった。しかし、間に合うのか? もう今にも、テーリン山を越えてしまうかもしれない」
「そこは問題ないらしい。ここ数日間、彼女はテーリン山付近から動いていないようだ。今から彼女が動こうにも、テーリン山を越えるのには、それだけで一週間以上もかかるだろう。この絵騎士団なら、そこまで一週間あれば着く」
「そうか、それで?」
まだレプスが何か言おうとしているのを察して、ルサーニュは訊いた。
「それで、父上が、近衛騎士団を率いる者を探しているらしい。騎士団長は帝都から動けないからね……」
ガタリ、と再びルサーニュは席を立った。
ただし今度は少し優しく、椅子をひっくり返さない程度で。
「ありがとう、レプス」
カップに手をかけて、ぐいっ、とすべてを飲み干す。
「行ってくる」
くるり、と踵を返して、扉の方へと歩いて行った。
「ああ、あと」
扉に手をかけた兄の背中に声をかける。
首だけ振り返った兄へ、弟は嫌そうにそれを言った。
「三週間で戻って来い、と父上が仰せだった」
「ああ、ありがとう」
バタリ、と扉が閉まった。
一人しかいない、静まり返った部屋の中で、弟はカップの果実汁を一気に飲み干した。
そしてポットに手をかける。
その時、ポットの表面に、ぼんやりと青い光模様が浮かび上がった。
そこからカップに注がれる新しいものは、少し時間が経っていたが、まだ変わらず暖かかった。
コトリ、とポットを机に置くと、青い光の模様はゆっくりと消えていく。
ため息を、ひとつ。レプスは黝のまつげの瞼を、二度しばたたかせた。
「ゆっくりしていけって言ったんだけどな……」
そう一言ぼやいて、レプスは果実汁をまたすすった。