雪原(ユフノハール)
雪の降る道に、規則正しく、乾いた音が聞こえる。
パカパカと、蹄鉄が街道を叩く音に、心が少し高鳴ってくる。
後ろを振り向けば、私が乗っている馬が通ってきた道が、ずっと向こうから続く蹄鉄によって残されていた。
「ブルルルッ……」
馬が小さく顔を振った。
その口から、白い息が漏れ出る。
「ロニェール、大丈夫だ。もう少し。宿までは、あと三ディーもないぞ」
パンパン、と愛馬の真っ白な首元を叩く。
「ブルルッ」
講義の声があがった。
「無理をさせているのはわかっている、許せとは言わない。だが……」
ロニェールが首を傾けて、片目で私のほうを見た。
そこには、懐疑の意思がこもっている。
「……わかったよ、ロニェール……」
手綱と鬣をつかんで、右足をはずし、愛馬から降りた。
その体高は、人の頭の頂点とほとんど変わらない。
首を左へむけてみる愛馬の目には、「ようやく降りてくれたか」、という呆れの意思が籠っていた。
それに対してのせめてもの贖罪に、彼女の鞍の後ろに積もった薄い雪を、さっとはらってやった。
すると、彼女は遠慮なしに、自分の尻尾もさっと差し出してくる。
この旅の中で荒れた薄灰色の尻尾に、降りかかる雪が編み込まれるように入ってしまっていた。
「わたしだって、もう一週間はこの髪の手入れをできていないんだ。そこはおあいこであろ?」
さらり、と長い黝の髪を、深々と被った外套付きのずきんから取り出し、彼女にみせてやる。
すると、彼女は二歩(馬だから、四歩?)、近づいてきた。
馬の体は人と比べ物にならないほどに大きい。
思わず気圧されて、四歩下がる。
「でも、どうしようもないんだ。せめて宿に着くことができれば、休めはするぞ」
威嚇に負けず、口を動かす。
「それに、こんな雪の中では休みもできない。草も食べものにならないだろう。いくらきみでも、凍死するぞ。それに、あとたったの三ディーだ。きみの脚なら、すぐだろう」
言葉を終わらせず、さらに音をつむいだ。
「それに、この調子だったら、いつ山脈を超えられるかわかったものじゃないぞ。ほら、あれを見ろ」
左手で、進行方向と同じ、しかしかなり上のほうを、指さした。
そこには、堂々とそびえる、巨大な山岳がたたずんていた。
大陸の指折りの山岳のひとつ、テーリン山は、冬季の今では、その山岳は頂点からその帯に至るまで、ほとんど真っ白だった。
しかし、愛馬の表情は、まるでため息をつく人のようだった。
「なんだその顔は。わたしだって、つかれてるんだぞ」
しかし、愛馬の顔は、「お前はずっと私にのっていただろう」と言わんばかりであった。
こうなれば、この八五〇ヒーの肉の塊は動かない。
ため息をつく。
こうなれば、もう人では動かせない。
愛馬の手綱を右手に、白い地面をあるきはじめる。
すると少し遅れて、愛馬は歩いてついてきた。
ざっ、ざっ、と、白い雪の上を踏みしめる。
ボロボロの長靴から、その冷たさが直に伝わってくる。
これは、彼女が抗議するのもうなずける。
三ディーといえば、たいした距離ではない。歩けば、半ホーフもかからない。
しかし、馬が走ってくれれば、そのさらに十分の一や二十分の一ですむ。
寒さにぶるりと体が震える。
冬季も深刻さを増してきた。
もともと高地で気温は低い地域に加えて、平地産まれのこの体には、薄い空気はかなりこたえる。
ぴん、と愛馬の手綱が張った。
「どうした、まさか歩くことすらあきらめようとしているのか?」
振り返って、愛馬の様子を見る。
どうも様子が違うようだった。
耳をくるくるとせわしなくまわし、まるく黒いその目を、ぴたりと動かさずにいた。
冷えた肌が、すこしピリピリとあつくなった。
「ロニェール、なにかあったのか?」
手綱を握りながら、愛馬にあゆみよってようすをうかがう。
「どこか悪いのか?」
いつものように、首元を撫でてやると、彼女はブルル、と首を小さく振って見せた。
その目が、わたしのほうを向く。
「ロニェール、何が」
その時、ロニェールは立ち上がった。
その白い巨体が、わたしの顔に影をおとす。
ヒヒーーーーーーン!!
「ロニェール!?」
二本脚でいっしゅんたちあがったあと、音を立てて前足を地面つけ、雪をまきちらす。
人と違って、馬が立ち上がるのは並大抵のことではない。
思わず体が発火したように熱くなるのを感じた。
「どうしたんだロニェ――――ああっ!」
その瞬間、衝撃が体を襲った。
ロニェールがそのからだで体当たりをしてきた。
後ろに吹き飛び、雪の上に体が落ちる。雪の下の街道の石が、体の節々を痛めつけた。
うめき声をあげながら、目を開けると、ロニェールの顔が間近に迫っていた。
生まれて初めてのことだった。生まれてずっと付き添っていた愛馬が、こんなことをするなんて。
一体何がこの子の逆鱗にふれてしまったのだろう?
今までなんどもこんな旅をしてきたが、今まで講義を目線を向けこそすれど、わたしを傷つけることなど一度もなかったではないか。
しかし、その考えは、愛馬の一言で消えた。
「ブルルッ!」
ロニェールが、「あっちを見ろ」という意を、その声と目で送った。
彼女が首を振ったほうに目をやると、そこには、矢が刺さっていた。彼女の脚のすぐそばに、
そしてその屋の刺さっている場所には、私の足跡があった。
一瞬にして、血の気の引く感覚と、体中が発火する感覚が同時に襲い来る。
そしてその視線の更に先には、この天気のためうまくは見えないが、複数の、縦長のうごめく影が見えた。
影が縦長で弓を射ってくる生き物など、ひとつしか知らない。
ロニェールは、人間にはないその敏感な五感で、その接近を察知して、守ってくれたのだ。
「うわっ!」
腕の服のすそをロニェールが噛み、引っ張ってくる。
片手を地面について、急いで体を起こす。
体についた雪を素早く落とし、手を伸ばして手綱と愛馬の鬣をつかんで、跳んで一気に乗馬した。
「たぁっ!」
愛馬の腹を軽く両足で小突き、声で発破をかける。
爆発するような発進でのけぞりかけたが、鞍の前部の安全用の紐をつかんで、体制を戻す。
方向転換して右へとロニェールが走りだす。草原の上へと乗りだし、雪を蹴りちらしながら進む。
腰を上げ、両膝で愛馬の背をはさみ、膝で馬体の上下を流し、馬の全力疾走に対応する。
冷たい風がびゅうびゅうと、激しく体を吹き抜ける音がする。
「相手はどこにいるんだ!?」
腹から声を出して聞くと、眼下の愛馬の耳がきょろきょろ動いてその場所を示す。
愛馬の耳は、左右両方に向いていた。
右と左。囲まれている。
今、盗賊に狙われている。
そう自覚すると、心臓が高鳴り、肌がぴりぴりと熱くなる。
その時愛馬の緊張の線が、ぴんと張ったような感覚がした。
鋭く風を切る音が聞こえる。
体がぐんっと左に引っ張られ、上半身が一瞬遅れてついて行った。愛馬が急に左に跳んだためだ。
後方に目を向けると、一瞬だけ地面に刺さる矢じりが見えた。
こういう旅において、盗賊に狙われることは珍しいことではない。そのはずだが、困ったことに狙われるのは今回がはじめてだった。
「っ! くっ!」
愛馬が繰り返し回避行動をし、馬上で体が踊る。
人間の五感は何がどこから来ているのか、感知すらできない。
愛馬が急停止をする。
体が大きく前につんのめった。
前を見ると、降り注ぐ雪に隠された薄い人影があった。
左右だけではない。三方向から囲まれている。
ロニェールが甲高い声を上げた。
ぐらりと愛馬が揺れる。
彼女の左の後ろ脚に、一本の弓が刺さっていた。
「ロニェール!!」
痛みに愛馬があえぐ。
一体なんだ、この盗賊たちは?
一頭の馬と、一人の人間を襲うにしては手が込みすぎている。
それに、普通の人ではうすぼんやりしか相手が見えない状態で、回避をしなければ確実に当たる矢を射るなんて。
「ブルルッ!」
激しくロニェールは首を振った。
「ロニェール! 無理をするな! あっ……!」
愛馬がひときわ激しく叫んだ。
今度は、彼女の右の腹に、矢が刺さった。
ついに愛馬が地面に激しく倒れ伏す。
同時に私は雪の上にほうり出された。
「くっ……!」
すぐさま立ち上がり、愛馬に近づく。
腹に矢が刺さって無事なのか? 急所は避けられていれば……!
鋭く風を切る音がする。
顔を上げる。
飛んでくる細長いものが、白い空を背景に見えた。
矢だ。また、私たちを狙っている。
ロニェール……!
とっさに彼女に覆いかぶさった。
そして、わたしの肩に激痛が走った。
喉の奥から声とも言えない声が絞り出される。
痛みで頭がくらくらし、視界がぐらぐらと揺れた。
甲高い笛のような音がした。
それに続いて、誰かの怒号が聞こえる。
それに続いて、また笛の音がした。そして、もう一度。
痛みで体が動かない。何が起きているのか確かめられない。
腹の下で、ロニェールの呼吸の上下を感じられる。
私が覆いかぶさったすぐ左に、その矢は刺さっていた。
それが刺さっている場所から、黒色の鈍い血がゆっくりと滲み出し、垂れていた。
「がっ……」
身をよじると、右肩に刺さるものが激しい痛みを起こす。
ざっ、ざっ、と足音が聞こえた。
それがいくつも。
すこしずつ、近づいてきている。
永遠にも思えるような時間の後、足音は、わたしとロニェールのすぐそばで止まった。
もはやぼんやりしてきた目を開くと、そこにある、長靴をはいたいくつもの人間の脚があった。どれもが男のように見える。頭を動かして顔を見る力は、もうすでになかった。
誰かが、怒号を発した。さっきの怒号と同じ声だった。
その怒号に、目の前の脚が半歩後ずさる。
咎められているようだった。
男の何を言っているかわからない怒号は、なおも、しばらく続いた。
しかし、それが終わらないうちに、私の頭は、少しずつぼんやりしていった。
右肩だけが発火するように熱くて、あとの感覚は、まるで溶けていくように薄くなって消えて行っていた。
腹の下のとニェールの暖かい体温だけが、まだほんのりと感じられる。
私はこのまま死ぬのだろうか?
宮廷にいたころ、肩に矢を受けたという弓術指南役がいたが、その方は元気に私の前にいた。
それに、あの方の馬も、戦場で矢を受けたが、今も元気に生きている。
じゃあ、わたしとロニェールはどうなるんだろうか。
どうなっても、まだ死にたくない。山脈を超えられていないのだ。
宮廷を抜け出して十ヶ月が経って、ようやくここまで来たというのに。
神は、わたしを許してくれなかったらしい。