笑い声(ワーイヘー)
(なんて声だ)
タカンガリは身震いした。
それは恐怖の類からではなく、巨大な物事に対する本能からの震えだった。
そして今回は、目の前の小柄な男が発するただの声だった。
音とは最も原始的な感覚のひとつだ。
獅子や虎は巨大な音を発し、他の生物を震え上がらせる。
そしてそれはすべての動物に備わっていて、それに対する警戒や恐怖は、生きている限り存在する。
さらに言えば、自然と共に生活するニエシの人々には、それがないと生きていけない。
だからとっさに体が震えてしまったのは無理からぬ本能からの事象だったのだ。
そして仲間たちの中で、最も、真っ先に震えだしたのは、タカンガリだった。
その震えから真っ先に抜け出したのも。
彼は下唇にとっさに舌を滑り込ませ、甲高く口笛を鳴らした。
ピイイイイイィィィィーーーーーー
ニエシの人々にとって、笛の音は本能の次に親しみ深い音だった。
音で動揺した者が正気を取り戻すきっかけもまた音だ。
「全員馬を落ち着かせろ!!」
タカンガリは声を張り上げた。
男の叫び声は強烈だった。まるで獅子のように。
そしてそれに対して最も敏感なのは、人間よりもより五感や恐怖に優れている馬だ。
だからほかの二人の仲間の馬が恐怖に暴れそうになっているのを、タカンガリは警告した。
馬は危険な乗り物だ。馬も人も動揺している状態で、乗りこなせるようなものじゃない。
しかし、さすがはタカンガリの狩りについてこられるような仲間たちだった。馬をなだめるのにそう時間はかからなかった。馬のほうも熟達している。
まだ無事な仲間たちがこれ以上損なわれないことを確認してから、タカンガリは男に意識を向けた。
(――――なんて形相だ)
音に並んで重要な感覚は視覚だ。
それはとても人間がするような顔ではなかった。今まで見てきた人間がこのような顔をするのを見たことがない。
殺意と憎悪に満ちた、まるで理性的ではない顔。
いや、理性と思考のすべてを殺意と憎悪に向けて出来上がったような顔だった。
首に矢がかすり、傷ができて血が出た。
それで、このような顔をするものか?
確かに死の片鱗を感じる出来事だったろうが、それでも。
恐怖や怯えを感じるどころか、それどころかその原因にこれほどの顔を見せるとは。
まるで獅子や虎にでも育てられたかのような。
「ぐぁっ!」
短い悲鳴の音。
タカンガリはそこへ視線を向けた。
男の後ろで、自らの息子――トインガリが、苦悶の表情を浮かべていた。
弓を男に向け、放った後の体勢のまま。
その膝が、少しずつ曲がり、地面へとつきそうになっていた。
まるで、動けない蝋人形が何か上から押さえつけられ、少しずつ潰れて形を変えて行っているかのように。
「トインガリ!!」
タカンガリは血相を変えて息子の名を呼んだ。
何が起きているかわからない。
そもそも、この男の使っているであろう、このわけのわからない奇術はなんだ。
空を飛び、見えない壁を作り、人間を蝋人形のように動けなくして上から押さえつけるような。
わけのわからない、この奇術は。
タカンガリは再び下唇に舌を滑り込ませた。
そして短い口笛を甲高く鳴らす。
ピィ―ッ、ピィイ―――ッ
短い、人間に対するものではない口笛。
そうすると、倒れていた馬たちが答えるように鳴き声を上げた。
大きく体を動かして、瞬時に芝の上に立ちあがる。
周りで警戒していた男の仲間たちが馬の方に顔を向けるが、もう遅かった。
馬はすぐに加速して、その場所から離脱をする。
頑丈なこの種は、すこし倒れた程度ではびくともしないだろう。その上人間を乗せていない馬はすぐに最高速度に達してぐんぐんと小さくなっていった。
これで馬は心配ない。
あとは、馬のしたじきになっていた仲間と、息子であるトインガリだけだ。
そしてその前に立ちはだかっている、獣のごとき形相と声をしている、青みがかった髪をした男。
彼を何とかしなければ。
いや、できるのか……?
あれだけ一言さけんだきり、もう何も発さない。ただこちらをにらみつけているだけだ。
タカンガリは馬のたてがみを引き、すこしずつ馬を後退させた。
向こうが今度は何をけしかけてくるのかわからない。
それに倣って、仲間二人も馬を後退させる。
なぜだか、男の仲間の誰もが、男に近づこうともしない。
首からなおも血を垂れ流している自らの主人に駆けつけるどころか、何人かはおびえたような目で、男を見つめている。
つまり向こう側にとっても何か尋常ではないことが起こっているという事だ。
タカンガリは少しずつ後退しながら指をくわえた。
この集団のことを、報告しなければ。
首領は青みがかった髪の男で、何人もの仲間を引き連れ、空を飛び、不思議な奇術を以てして馬や地面を吹き飛ばし、飛びくる矢を止める壁さえ作り出す、このただならない人間たちのことを。
指笛を吹こうと、タカンガリは肺に大きく息を吸った。
ふっ、と勢いよく吐き出す。
違和感。
吐き出したはずの息が、そのまま息として、口から出てしまった。
何百回、何千回と鳴らしたはずの口笛が、なぜか、今ここになって、出てこなかった。おかしい。
慌ててやりなおそうと、口を開く。
「――――!?」
ずるり、と音がした。
口から外れた指が、自分の意思と反し、そのまま下ろされていく。
再び口にくわえようと手を上げようとするも、うまく行かない。
そうこうしているうちに、どさりと音がした。
溶けかかった雪がまだまばらに積もっている、緑の芝の上。
赤い血を末端から垂れ流す、自分の手が転がっていた。
ふと自分の腕に目をやると、自分の肘と手首の間が綺麗な断面になっていた。
そこからみるみるうちに、赤い血液が漏れ出して、ボタボタと自分の脚の上に落ちていく。
それが妙に暖かかった。
「ッ――――――!!?」
叫びにならない叫び声が全身から汗として噴き出した。
残った腕が勝手に断面の近くを握り締めている。
軽快な笑い声が場を包んだ。
同時に、仲間たちの大きな悲鳴も。
青みがかった髪の男は、奥歯をかみしめて痛みに耐えるタカンガリを、ひどく高らかに響き渡る笑い声を以て、悦に浸っていた。
その男が笑うと同時に叫んだ何かの言葉を、タカンガリは理解するよりも前に、まず耳にとらえることができなかった。




