第九十一話 刺客
病院のロビーは広かった。埃やカビ、湿った土の香りが立ちこめている。空気はひんやりとしており、錆びた鉄の匂いが鼻腔をくすぐる。カタコンベという表現はあながち外れていなかった。
「二階に上がるか。外の状況を上から見たい。ニーナ。お前はここで待機していろ」
「絶対嫌です」
ニーナは即答した。オスカルは溜息をついて、ふと二階を見上げる。
「……上に誰かいる」
一階のロビーは吹き抜けになっており、二階、三階の通路が見えていた。まだ完全に日が暮れていない。目を懲らせば、上を歩いている人物を視認できる。
「オスカルさん。私の後ろへ」
――大階段を降りてくる二つの人影。
一人は褐色肌の大柄の男である。スキンヘッドにターバンを巻いている。民族衣装を彷彿とさせる服装だ。
もう一人は小柄な少女。大きいキャップを被っており、人相は分かりづらいが幼い顔立ちをしている。大きめのウエストポーチが腰に巻かれていた。
スキンヘッドの男が口を開いた。
「エミリ。彼等……デスか? 標的のスパイダーは」
エミリと呼ばれた女がガムを噛みながら答える。
「……多分ね。あれ? DMDのお金はどこ?」
どうやら敵勢力のようだ。ニーナは先程までの怯えた様子は消え失せ、殺気を漲らしている。その視線は大階段の踊り場まで降りてきた二人を捉えていた。
ニーナはオスカルの護衛を務めて長い。華奢な体格からはイメージしづらい強力な<テレキネシス>を使う。文字通り、人を殺せる念力を絞り出す。
エミリが大柄の男に話し掛けた。
「……チャクリ。殺していいの? エミリ手加減できないの」
「殺すつもりでやれて言われたネ。でも彼等はお金持ってない。困ったナ。……あなたたち! お金渡してくれたラ何もしないヨ! 今すぐ渡す! オーケー?」
エミリがチャクリの後ろで不満そうな声を出した。
「エミリそれつまらない……。スパイダーは麻薬売ってる悪党なんだから遠慮なく殺したいの……」
エミリの発言に階下のオスカルが反応する。侮蔑の意味を込めて言った。
「はは。悪党? お前等がやっていることは強盗だろう? 俺達と大差ねぇよ」
チャクリはオスカルをまじまじと見る。目を懲らしてマナを視ていた。
「――あなた信仰系か。闇の精霊に憑かれてるネ。よくない。あなたの魂、ワタシが解放してあげるヨ」
チャクリの雰囲気が明らかに変わった。明確な敵意をオスカルへ向けている。ニーナがオスカルを守るように立った。
「人間はもっと謙虚になるべきダ――マナを受け入れる器に過ぎないのだかラ」
チャクリはそう呟くと目を閉じた。そして静かに合掌をする。
「精霊よ。ワタシに加護を……」
――チャクリがそう唱えると、院内に漂っていたマナがチャクリに吸収されていく。凄まじい濃度のマナである。チャクリの身体が一回り大きくなったように見える。
チャクリの変貌に、思わずニーナが目を見開いた。
「……オスカルさん。これはまずいです。逃げてください」
チャクリをふざけたアジア人だと見くびっていたオスカルは警戒度を上げた。
「こいつは珍しい。外マナ型か」
異人はマナを利用し異能を発動させる。
マナは万物に宿るエネルギーだが、異人は基本的に自分のマナに依存する「内マナ型」が多い。
逆に自然物や人工物等の自分以外のマナに依存するタイプを「外マナ型」、どちらもバランス良く使うタイプを「中マナ型」と呼ぶ。
実際には三タイプの境界線は曖昧で、グラデーションになっていることが多いが、目の前の男は大きく外マナ型に偏っていた。
「はぁ!」
チャクリは勢いよく拳を突き出した。巨大なマナの衝撃波がニーナとオスカルに向かって放たれる。
「オスカルさん! 失礼します!」
ニーナはテレキネシスでオスカルを押し出し、自分も間一髪、衝撃波を回避する。二人の間を凄まじい速度で衝撃波が吹き抜けた。遙か後方の壁に穴が空き、粉塵が舞う。
テレキネシスで飛ばされたオスカルが軽快に着地をすると、踊り場から跳躍したチャクリが追撃をかける。
「ちぃ!」
オスカルがマナで強化した掌で、チャクリの拳をいなす。軌道を逸れた拳打が病院の床をビスケットのように砕いた。その衝撃でオスカルは後方に吹き飛ばされる。
「オスカルさん!」
ニーナがチャクリに向かってマナを練ろうとすると、背後から空気を切り裂く音が聞こえた。
「はっ?」
次の瞬間、ニーナの頬がスパッと裂ける。真っ赤な血がポタタ……と垂れてニーナの白いシャツに染みを作った。
背後からの不意打ちである。ニーナは踊り場にいる女を睨んだ。
「あんたの相手はエミリがする。エミリたちは荒川アウトサイダーズ。よろしくね? スパイダーの女」
ニーナの頬を裂いたのは長さ六センチほどの針であった。虫の標本に使う、いわゆる虫ピンである。エミリの周囲に無数の虫ピンが浮いている。
「エミリは遠距離から嬲るのが好き。あんたも虫みたいに標本にしてあげるの」
エミリはそう言うとウエストポーチの中から虫ピンが入ったケースを複数取りだし、中身をぶちまけた。それらは地に落ちず、光を放ち浮き上がる。
「一箱に千本入ってるの。今、五千本。ただのピンだけどマナを込めると散弾銃と威力は変わらないの」
ニーナは後方でチャクリに押されているオスカルを見る。階上の小娘を無視してフォローに入りたい衝動に駆られた。
エミリが指揮者のように手を振ると、五千本の虫ピンが上空を旋回する。それらは暗い院内を飛行する鋭い光となる。
「なに? 別にあの男が恋人ってわけじゃないんでしょ。放っておけばいいの。背中向けたら蜂の巣にしてあげるの」
エミリが人差し指を振り下ろすと、五千本の虫ピンが一直線にニーナの方へ飛んでいく。一本一本は六センチの針だが、対象を貫く一筋の光となった。
「曲がれ!」
ニーナが右手を振り上げると、光の針は方角を変えて吹き抜けの空間を上昇していく。
「へぇ? 操作権盗られたの」
エミリは感心したように声を漏らした。
「テレキネシスは諸刃の剣です。自分以上の能力者の前では……!」
ニーナの腕の動きをなぞるように、光の針が生き物のように飛行する。
「このまま返して差し上げます!」
右手を振り下ろすと、今度はエミリへ向かって光の針が降り注ぐ。
「誰が誰以上なの? スパイダーの女」
エミリが舞を舞うように回転すると、光の針はクルッと向きを変えて旋回し、隅に放置されていた観葉植物を吹き飛ばす。
――暗い院内を閃光が暴れ回る。それはまるで光のイリュージョンのようであった。しかし、幻想的な美しさの裏で行われているのは熾烈な操作権の奪い合いである。
チャクリはその激しい攻防を一瞥すると、粉塵の中で片膝をついているオスカルに言った。
「あんな乱暴に……光の精霊が泣いていマス。我々はもっと精霊に対して謙虚になるべきダ」
「……」
「異人は……精霊の声を聴き……身を委ね……信じるだけでイイ。そうすれば加護を得られル」
チャクリが合掌をすると空間に漂うマナが集まってくる。それらを吸収し、更に強化されていく。
「高位の精霊は神となり術者を守るのダ」
「……神ねぇ」
オスカルはそう呟くと、立ち上がり、膝についた埃を払った。
「闇の男ヨ。あなたは運がイイ。ワタシ本来の属性は水と樹ネ。ここは死霊が彷徨っている……ワタシの力も半減するヨ」
チャクリが拳を突き上げると頭上に巨大なマナの集合体が現れた。そのマナは紫色に輝いている。それは半減した様子が全く見られない規模の能力であった。
「コレ当たったらあなた死ぬヨ。せめて最期は祈ってくだサイ。――神に」
オスカルは不敵に笑うとこう答える。
「俺が愛するのは死と闇の世界。そして祈りを捧げるのは――」
チャクリに向かって右手を突き出し、こう続けた。
「――ドラッグだけさ」