第八十九話 死の世界
その日、氷川東銀座と氷川SCはセキュリティが甘かった。ニシカワフーズの事件でギフターや警察が川成へ出払っていたからである。
DMD密売組織スパイダーのオスカルとニーナは氷川SC南部に位置する旧市街へ向けて車を走らせていた。助手席に乗っているオスカルが車窓を眺めながら口を開いた。
「……ん? 何か今日は協会員や警察が少ないな。最近、治安が悪化してパトロールを強化しているはずだが……」
オスカルの言葉に運転席のニーナが反応する。
「好都合ではありませんか? これから龍尾と取引ですから。元々、人気のない旧市街ですが、敵は少ないに越したことはありませんよ。オスカルさん」
「まあな……。しかし、これは襲撃を受けやすい状況でもある。警戒を怠るなよ。ニーナ」
「YES,SIR」
車はゆっくりと廃墟街へ入っていく。住宅ではなく閉業した飲食店が目立つ。大戦後、賑わっていたバラック街のなれの果てである。外れかかっている看板、ガラスが割れた扉、木々に覆われた店舗、不法投棄された家電……。数多の廃墟が立ち並び、不気味な雰囲気を醸し出している。日が陰ってきているのでその様相に拍車を掛けていた。
車を走らせると一際大きい建物が目に入る。地下一階、地上七階建ての廃病院だ。そこの地下駐車場がソジュンとの待ち合わせ場所である。
「よし。行ってくれ」
車が地下駐車場のスロープを降りていく。車路は整備されなくなって久しい。車がガタガタと揺れ、リアシートに置いたアタッシュケースが跳ねている。当然のことながら、地下は真っ暗だ。ヘッドライトだけが頼りである。車が静かに徐行していく。
指定の場所に駐車するとライトを消した。辺りは暗闇に包まれる。とても不気味で、そして不吉な待ち合わせ場所である。そこでニーナが重い口を開いた。
「……オスカルさん。どうしてこのような場所を選んだのですか?」
「というと?」
ニーナは前を向いたまま答える。
「私はいつも無表情なので誤解されやすいのですが……。無感情なロボットというわけではないのです」
「うん?」
オスカルには彼女の言葉の真意が読み取れない。ニーナは前を向いたまま話を続ける。
「あなたのことは尊敬しています。今日も何かあったら私が盾になりましょう。……ですが……その」
「なんだ?」
ニーナはゆっくり息を吐くとこう言った。
「廃病院の地下は……幽霊が出そうで怖いのですよ。……はっ! 今、何か音が……! もういやぁ……」
明らかにニーナは怯えていた。いつものクールな様子ではなく、顔色が悪い。東欧生まれで元々色白だが、更に白くなっている。オスカルは目を閉じると話し始めた。
「……この場所は古代ローマのカタコンベのようだ。分かるか? ……死に近い場所さ」
ニーナはオスカルの方を見る。カタコンベは地下墓地のことだが、自分を怖がらせる意図の発言ではないことが、オスカルの表情で分かった。
「俺の親父が麻薬カルテルの殺し屋だったことは知っているだろう。何人殺したか分からねぇけど、常に死霊を纏った男だったよ」
「……」
「俺には優しい父親だったが、ろくな生き方をしてねぇから早く死んだ。俺が八歳の頃、目の前で狙撃されたんだ。死に顔? ……笑っていたよ。どうしてだろうな?」
オスカルはゆっくりと目を開ける。暗闇に目が慣れてきた。ニーナの顔がよく見える。
「母はドラッグの売人だったし、俺は十二歳でドラッグの売人になった。ドラッグの世界しか知らねぇ。常に死と隣り合わせの……この世界だけが俺の居場所さ」
珍しくオスカルが饒舌だ。ニーナは静かに耳を傾けている。
「俺には親友がいた。ある日そいつがミスをしてアジトまで警察が踏み込んできた。だが、俺はそいつを庇った。何故身代わりになったかって? 復帰した時に信頼できる仲間が必要だったからだ」
「……」
「出所して、そいつと組んでビジネスが軌道に乗り始めた。やはりドラッグは稼げる。俺達は無敵になったつもりでいた。しかし、ある取引の現場で――親友が目の前で撃ち殺された」
オスカルの目はフロントガラスを通り越して虚空を見詰めている。
「ドラッグ切れで錯乱した客が発砲したんだ。一瞬だった。直前まで笑っていた。その客は駆けつけてきた警察に撃たれて死んだ」
ニーナは何も言えなかった。いや、今は聞くことに専念しようと思ったのだ。オスカルの過去を――。
「何かと俺を気遣ってくれたシスターがいた。まだガキだった俺を裏社会から日の当たる場所に連れ出そうとしてくれた。俺はガキなりにその女を信用していたが……」
「……」
「――よく晴れた朝だった。教会に来ない女が気になって部屋に行った。中に入ると女が注射器を腕に刺したまま死んでいた。心臓麻痺だよ。くっく……。必死に俺を諭していたシスターはヤク中だったのさ」
「……オスカルさん」
「俺に近付く奴は皆死んじまう。俺は死に愛されているんだ。ニーナ」
「私は死にませんよ。これからもあなたを守りましょう」
ニーナはオスカルの横顔を見て言った。オスカルの視線は暗闇を捉えている。
「俺はドラッグの世界しか知らねぇ。俺にとってドラッグは……家族や仲間を殺した悪魔であり、俺を生かしてくれる神でもあるんだ」
遠くで車のエンジン音が聞こえた。
「ここは廃病院の地下――死の匂いが立ちこめる場所。……落ち着くんだ。おそらく二千年前のカタコンベと何も変わっちゃいない。死というものは」
ヘッドライトの灯りが場内に滑り込んできた。オスカルの左斜め前方に一台の車が止まった。
「――さて、取引開始だ」
オスカルが車のルームランプを点けると、前方の車から二人の男が降りてきた。
龍尾のソジュンとシンユーである。ソジュンはオスカルの顔を見ると笑顔で手を振った。
【参照】
オスカル→第二十三話 スパイダー
ニーナ→第八十話 オスカルとニーナ
ソジュンとシンユー→第八十二話 ナンバーズ