第三百八十話 狂ったまま醒めたくない
異人街の外れに位置する営業時間外のクラブ――その地下で断続的に鈍い音が響いていた。背の高い男が足元にうずくまる男を蹴りあげている。先日、シュウが率いる南中のグループに敗北した男達だ。顔が腫れあがり意識がない。
カウンターには西中の秋野が座っている。
「カイスさん。それ以上やったら死んじゃうよ」
カイスは唾を吐くと、横たわる男の頭を踏みつけながら答えた。
「中坊にやられるなんてゴミ過ぎんだろ。虎爪の看板に泥を塗りやがって……これだから日本人は使えねぇんだよ」
虎爪のカイスは戦争で国を追われた難民だ。纏うマナは禍々しさを帯び、視る者を恐怖で竦ませる。
秋野がカイスの腕に抱き付いた。
「ねえ、約束覚えていますよね。DMD密売を軌道に乗せたらカイスさんの彼女にしてくれるって」
「ああ」
カイスは道端の石ころを見るような目で秋野を一瞥した。この男はその時がくれば容赦なく自分を切り捨てる――そんなことは百も承知だった。
しかし秋野は強い男の愛人になるメリットを理解している。どうせ卒業した後に裏社会へ足を踏み入れるなら今から動いた方が得だという打算もあった。秋野は自分の人生に何の期待もしていなかった。
「ふふ……うれしいなぁ」
未成年の少女とは思えない空っぽで歪んだ笑顔だった。カイスはこれまで秋野に興味を示さなかったが、その顔を見ると冷笑的に言った。
「お前……祖国にいたガキどもと同じ目をしているな。そう、死人の目だ。イイ感じに狂っていやがるぜ」
「狂った女は嫌いですか」
「ふん。今週の分だ、とっとけ」
カイスから渡された封筒の中には報酬が入っていた。秋野は金額を確認することなくポケットへ突っ込むとカイスに体重を預けた。
しかしカイスは冷酷な男であった。異人の中学生の孤独と劣等感を利用してDMDを捌かせる。失敗しても代えはいくらでもきく。その程度にしか思っていなかった。
◆
昼休みの廊下でのことだった。リンは同級生から手紙を受け取った。相手はメイク上手な女子生徒で地味なリンとは正反対の印象である。彼女は頬を染めてモジモジしているが、これはいわゆる百合の性癖というわけではない。
「リンちゃん。それをお兄さんに渡してくれない?」
こういうことだ。シュウはモテる。爽やかな体育会系で運動神経は抜群。派手な金髪も人目を引く。不良のトップに立ちながら弱い者苛めはしない。教師からの評判は悪いが女子生徒からは人気があった。気の弱いリンはメッセンジャーとして都合よく使われた。
「お兄ちゃんは硬派だから……多分読まないと思うよ」
「それでもいいの。わ、私の気持ちを知っておいてほしいだけだから! じゃあよろしくー!」
真っ赤な顔で走り去っていった。強引に渡された手紙に目をやって小さく溜息をつく。このラブレターで八十五通目だ。リンは詳細に数を記憶していた。
「はぁ……どこに捨てようかな」
これまでリンは託されたラブレターを一通もシュウに渡していなかった。それだけでなく兄は硬派だと宣言しアプローチしそうな女子を片っ端から退けてきたのであった。そうしないとあっという間に彼女ができて、自分をないがしろにするだろうと懸念していた。
(あ、そうだ。お兄ちゃんの顔見にいこう)
リンはシュウのクラスへ行くと教室の中を覗いた。シュウが披露するギャグで性別問わず沢山のクラスメイトが笑っている。女子生徒の何人かは明らかにシュウを意識しているが、本人は気が付いていなかった。鈍感な兄で良かったとリンはホッとした。
「……お兄ちゃん」
小声でささやくと忘我の境地に入った。リンの異常な執着は今に始まったことではなかった。小学校から、幼稚園から、物心が付く前から、いや。前世から――と錯覚してしまいそうなほど昔から、リンにはシュウしか見えていなかった。見ていなかった。他を見る意味がなかった。壊れていると、狂っていると自覚していた。それでよかった――どうせなら狂ったまま醒めたくない。このままでいい――私は兄を愛しているの。永遠に愛していたいの。ずっとずっとずっとずっとずっと――リンは心の中で恋情を告白した。
シュウがリンの視線に気が付いた。一瞬だけ目が合うがすぐに逸らされてしまう。小学校の頃は仲が良かった。しかし中学に入った頃から距離を取られた。本能で妹の異常な愛を拒絶しているのかもしれない――が、こちらが引かないと最終的には向こうが折れる。態度とは裏腹に中身は優しい兄のままだった。
「あ、シュウ先輩だ! 格好いいよな」
背後で男子の会話が聞こえた。
「氷川統一間近だって。あとは西中の秋野に勝つだけらしいよ」「マジかよ! こりゃ氷川の……いや、埼玉の伝説になるぜ!」「西中がヤバイ助っ人呼んだって噂だけど先輩なら勝つよな!」
リンは男子達の背中を見送った。その瞳にフッと影が差す。
「西中の……秋野さん」
その呟きは昼休みの喧騒に掻き消された。




