第三十一話 無価値な世界
シャーロットが目を覚ますと、そこは廃墟のようであった。ひんやりとした空気が頬を撫でる。
「ここは……どこかしら」
手足は縛られ古びたソファーに寝かされている。カビや土、錆びた鉄の臭いが充満している。もう何年も使用されていない物件特有の臭いだ。
「私はシュウさんと喫茶店で……。あ、変な男達に襲われたんだ」
ライターの炎が店内を明るく照らし、赤い特攻服を着たスキンヘッドの男が木刀を振り下ろしたところで記憶が途絶えている。極度の緊張で意識を失ったのだろう。
シャーロットは横たわりながら辺りを見渡す。コンクリート打ちっぱなしの寒々しい部屋だ。部屋を区切る壁は無い。天井には裸電球がぶら下がっており、沢山のコードが垂れている。配管はむき出しだ。
どこにも窓は無い。トイレが部屋の隅に二つあるが、使えるかは分からない。壁が無いので、便器は丸見えである。そこから対角線上の隅には螺旋階段が見える。どうやらここは地下らしかった。シャーロットは自身の現状を把握する。
「ああ……。私、また誘拐されたのですね」
頭は冴えている。不思議と恐怖は無い。これから何をされるのか、ここで命を落とすのか、特に関心は無い。
「無価値な世界から無価値な女がいなくなるだけ……ですか」
シャーロットは九歳の頃に一度死に、そして十三歳で二度目の死を経験した。そう、十一年前に全てがおかしくなった。あれからは自分の人生なのに、他人の人生を俯瞰しているような虚無感が心を支配している。
――カリスなんてどうでもいい。シャーロットって誰ですか?
シャーロットはこれから起こることを想像して、思わず笑みを浮かべる。
「まあ……脱がされたとしても、ドン引きされますよね、この傷跡は。犯人さん、ご愁傷さまです」
軽く深呼吸すると目を閉じた。幸せになる人生なんて、とうの昔に諦めている。さっさと終わればいいと思っていた。遅すぎたくらいだ。
「無価値な人生だと思っていたけど……。ふふ。今はちょっと死にたくない……かも」
シャーロットはシュウの顔を思い出す。ほんの数日間だが、彼女は楽しかったのである。
(会わなければよかったな……。私みたいな女が夢見すぎましたね。天罰覿面です)
目を開けて周囲を見渡すが、犯人らしい人影は無い。シャーロットは再び目を閉じた。すると――。
「――っ!」
突然、シャーロットを動悸と過呼吸が襲う。手足の震えが止まらない。汗が噴き出す。
「はあ! はあ! ……もう薬が……」
過呼吸が治まらず、シャーロットは意識を失った。
◆
――今から十一年前、シャーロットは八歳の頃に誘拐された。犯人は隣町に住む無職の男である。当時、四十五歳だった男はシャーロットを車に押し込むと、そのまま自宅へ連れて行った。
自宅には父親が一人いたが、二人の関係は悪く、男は離れで生活していた。定職に就かない息子を厳格な父親は許せなかったのである。しかし、資産家だったため、男は不自由なく暮らしていた。
後に父親はこう証言している。部屋に少女がいることを、五年間知らなかった――と。誘拐されたシャーロットは男の自室に監禁されていた。
最初の一ヶ月は手足を縛られ、動くことができなかった。唯一許された居場所はダブルサイズのソファーベッドの上だった。許可無く降りると暴力を振るわれる。泣いたり叫んだりすると更に殴られた。
潔癖症だった男はシャーロットが床に降りることを嫌った。勝手にトイレに行くことは許されず、入浴は半年に一回だけ許可された。顔が血で汚れた時は洗面器で洗わされた。
「ここでずっと一緒に暮らすんだ」
男は毎日刃物を突きつけながら、このように脅した。当時八歳だったシャーロットは恐怖で逆らうことができなかったのである。男の逆鱗に触れると、顔を殴られる、刃物で小さく切られる、タバコを押しつけられる――。
シャーロットは暴力を振るわれても声を出さないテクニックを身に付け、更に次第に痛みを感じないようになったのだ。そして、いつ如何なる時も笑顔でいることを心掛けた。男が理想とする「人形」を演じ続けるために。
毎日殴られているうちに、シャーロットに変化が現れた。男の周りに「マナ」が視えるようになったのだ。男を怒らせないように、自分が殺されないように、連日緊張して、極限状態が続いた故の覚醒である。この時、シャーロットは「異人」となった。
それから数日後、男のマナに色が付いていることが分かる。色の濁り具合で男の精神状態まで分かるようになり、怒らせることが減った。それに伴い暴力も減っていった。それでも男は酒に酔うとライターやスタンガン、刃物で暴力を振るう。シャーロットの生傷は絶えなかった。
監禁されて一年が経過した頃、シャーロットに変化が訪れる。相手のマナに合わせて、自分のマナを変化させる能力に目覚めたのだ。今日の男は「このマナの色」だから、自分は「このマナの色」にしよう、男は「このマナの色」の時は機嫌が良いから、自分は「このマナの色」をキープしよう……。
シャーロットは<擬態>を覚え、自分の身を守ったのだ。
それからは男の精神状態は安定し、映画やアニメの話をするようになった。特に男はアニメソングが大好きで、ひたすらシャーロットと会話することを望んだ。シャーロットはマイチューブでアニメソングを聴くことは許されていた。
男と仲良くなっても、彼が潔癖症なのは変わらず、トイレの数を減らすために食事は一日一回のみであった。シャーロットは次第に体力が落ち、ソファーベッドで寝たきりとなる。もうろうとした意識の中で、次第にシャーロットはこう思うようになる。
(本当に無価値な世界……早く終われば良いのに。誰か無価値な私を……殺してください)
この時、シャーロットの心は一度死んでいる。
男はシャーロットの栄養失調に気が付き、焦ってサプリメントを飲ませたが、体調は回復しなかった。シャーロットはもう生きて帰れるとは思っていない。
シャーロットが監禁され五年が経過した頃、事態は急展開を迎える。男が精神を病み、自室で自殺したのだ。息子と連絡が取れないことを不審に思った父親が自室に様子を見に来た時、誘拐事件が発覚したのである。シャーロットは十三歳になっていた。