第三百六話 月と酒仙と乙女
そろそろ日付が変わる時間。店の遅番を終えてシャンリンは道場へやって来た。すると縁側で中庭を眺めながら酒を飲むシンの姿が見えた。シャンリンはシンへ恩人以上の感情を抱いている。思わず赤面した。
「お、お疲れ様です。おじ様」
三つ編みのおさげをいじりながら平静さを保つ。遠慮しながら隣に腰を下ろした。
「おう、シャンリンか。遅番ご苦労」
手酌で紹興酒。高そうな盃であおる。シャンリンは慌てて酌をする。シンは微笑みながら美味そうに飲んだ。
「昼間の稽古。あのガンが褒めるとはなぁ。また腕を上げたか?」
「い、いえ! 私なんてまだまだです。木刀を燃やしてしまいましたし……」
シャンリンは真っ赤になった。顔が火照るのは夏だからだけではなさそうだ。
「十年前に北西省の農村で拾ってきた子供がねえ。よい炎使いになったな。弟子からも慕われていると聞いている」
「そ、そんな……」
酌をしながら言葉に詰まる。まだ何も返せていない。シャンリンはそう思っていた。空には月、庭で夏の虫が鳴いている。籠鳥町の夏は風流だ。心地よい時が流れる。
「あの……おじ様」
「なんだ」
「二代目赤龍の継承ですが……辞退してもよろしいでしょうか」
「またその話か」
シンは苦笑する。
「兄様はお強いですし、沢山の私兵を抱えています。赤龍の看板の重さを誰よりも理解されています。赤龍の名は兄様がお一人で継ぐべきです。私には荷が勝ちすぎるようです」
二人で月を見上げる。明るい夜だった。
「ガンは優秀だが危険な思想を持っている。藤堂会を殲滅して籠鳥町を統一、組織を強固なものにして龍王との抗争まで視野に入れている。極道としてはそれが真っ当なんだろう」
「……はい」
「あいつが特別過激なわけではない。黄龍のシオンや黒龍のハオランは似たような思想を持っている……だが、争いは争いを呼ぶ。火にガソリンを注ぐようなものだ。怨嗟の炎は燃え続ける、真に燃料がなくなるまでな。インロンが死んだ時に悟ったことだ」
シンは酒を噛みしめるように飲む。
「龍尾内に龍王との抗争に反対する派閥がある。赤龍の俺と初代青龍だ。娘のメイファは好戦的だが親父には逆らわん。白龍は中立派といったところか。今度の幹部会、票は割れるだろうな。頭領のリーシャの発言次第で龍王と和平を結ぶことになるかもしれん。あの娘は争いを好まない」
シャンリンはシンの横顔を見た。心労がかさんでいるのかもしれない。珍しく疲れた表情をしていた。
「二代目赤龍は二人だ。一人は武力で龍尾を支える。もう一人はそれをサポートしながらも時にブレーキをかける。赤龍は明確に役割を分けて均衡を保つ」
「そのようなお考えがあったんですね」
「ああ。フェイロンとリーシャは袂を分けて抗争となった。あの時、俺の判断が正しかったのか今でも分からん。だから赤龍は二人に継がせる……これは決定事項だ。なぁに、俺は前線を退くがまだまだ現役だ。お前等の手綱を握ってうまくやるさ。ガンは俺の右腕、お前は左腕だ。頼んだぜ」
シャンリンは困ったような笑顔を浮かべたが、ゆっくりと頷いた。
「分かりました」
確かにシンは酒好きで女遊びが派手だ。しかし従業員に手を出したことはない。その行動には一本の芯が通っている。シンの言動には必ず意味があった。シャンリンは気になっていたことを問うた。
「あの、おじ様。昼間の話ですが……DMDで何かあったのですか?」
シンの表情から笑みが消える。十数秒の沈黙が流れた。
「藤堂会のシマでDMDが売られているらしい。売人は中国人の女なんだそうだ」
「え? それって」
「そうだ、DMDを仕入れられる組織は限られてくる。赤龍が疑われても仕方ねぇな。ガンのところの下位組織ならあり得ると思ったが、知らんそうだ。まあ当然だな、俺のドラッグ嫌いは周知の事実だ。赤龍でそれをやったら小指一本じゃ済まねぇよ」
DMDは龍尾や龍王、アルティメット・ディアーナなど、大手の異人組織の収入源だ。しかし赤龍では一貫してドラッグを扱わない。これはシンの信念だ。
「そ、そんな……! 私たちの中に裏切り者がいるってことですか? あり得ませんよ!」
シャンリンは赤龍が疑われる状況にショックを受けた。シンは酒をあおると豪快に笑った。
「ははは! 分かっている。俺達の知らない新興勢力がいるのかもしれねぇな。念のため、気を付けろよ。シャンリン」
「はい」
雅な夜だった。しかしシャンリンは妙な胸騒ぎを覚えていた。
【参照】
黒龍のハオラン①→第三十六話 DMDの売人
アルティメット・ティアーナ→第五十一話 アルティメット・ディアーナ
黒龍のハオラン②→第五十二話 ファイブソウルズ
リーシャ→第五十八話 龍の器
黒龍のハオラン③→第百二十話 龍尾とアルティメット・ディアーナ
初代青龍→第百三十四話 初代青龍
五天龍→第二百四十七話 五天龍と不吉な女に気を付けろ




