第二百九十八話 天の龍が泣いた日
雑居ビルが建ち並ぶスラムの歓楽街。激しい雨が降っている。煌々と光るネオンが雨粒を照らし、怪しく染めていた。上を見るとどこまでも続く高架通路が見える。富裕層や普通人は上の中高層ビル群、異人や難民は高架下のスラム街に住んでいる。度々水没する下層には社会から弾き出された者が生活していた。埼玉の異人街、川成はそのように分かりやすい構図だった。
ゲリラ豪雨の中、中年の男が傘を差さずに歩いていた。ぼさぼさの赤髪からは水が滴り、裾が長い中国服は沢山の水を吸って重たく見える。周囲に人はいない。ここはスラムでも端の方だった。
「……リーシャか」
男の前に赤い龍袍を纏った少女が立っている。歳は十を少し越えた頃か。長い黒髪が雨に濡れている。リーシャと呼ばれた少女も傘を差していなかった。
「シンおじちゃん……フェイロン兄さんが龍尾から去りました」
リーシャが抑揚のない声で呟いた。シンは無言でリーシャを見詰める。
「これから龍尾は苦境に立たされるでしょう」
リーシャの瞳には光がなかった。その漆黒の闇はシンを映していない。
「頭領の父が死んで……強大な力を持つ五天龍を御す手段はありません。今は組織内の団結を高めなくてはいけない時期です。それなのにフェイロン兄さんはどうして……」
リーシャはゆっくりと近付いてくる。シンは重い口を開いた。
「フェイロンに袂を分かつように言ったのは俺だ」
「おじちゃん……どうして?」
「お前達の父、龍王インロンは圧倒的なカリスマだった。俺を含めた五天龍を納得させるほどのな。しかしあいつは死んだ。このままでは跡目争いで多くの血が流れる。そうなる前にフェイロンは出ていったのだ」
リーシャは足を止めた。次第に禍々しいマナを帯びていく。
「太古の昔……龍脈を守る金蛇の一族が中国へ渡った。それがお前たち龍尾の始祖だ。一族は膨大なマナを得た。お前は火龍の炎を……そしてフェイロンは龍そのものを身体に宿した」
シンは半身を切った。リーシャの瞳を見据えたまま話を続ける。
「あやつは人とは交われぬ。他者のマナを受け入れぬ。あやつの中にあるのは……底の知れない憎悪だけだ。世界への――」
その言葉を聞いてリーシャが目を見開いた。
「お兄ちゃんを返してぇ!」
リーシャを中心に巨大な炎が膨張し、夜が真昼のように明るくなった。篠突く雨が空から消える。雨が逃げた――まるで火龍が吹く炎が上空のデッキを、乱雑に建ったスラムを呑み込んでいくように見えた。
「やれやれ」
シンは手を空に掲げるとこう言った。
「お前たちのことはインロンから任されている。当然、躾もな! ……昇れ! 火災旋風!」
シンが叫ぶと膨張していたリーシャの火炎がねじ切れるように細くなった。それは一本の竜巻となって空高く上がっていく。炎が幾重にも重なった雲の中へ消えると、再び雨が降り注ぎ、燃えていたビルが鎮火される。
「いいか、リーシャ。一流の炎使いの条件は上手い炎の消し方を知っていることだ。バカみてぇに燃やすことだけじゃない。覚えとけ」
リーシャは力なくうなだれると体勢を崩した。シンは駆け寄り優しく抱きとめる。腕の中の少女は意識を失っていた。――雨は止むことを知らない。三日三晩降り続いた。天の龍が泣いているかのように。
◆
――せんせ! 赤龍のせんせ!
自分を呼ぶ声が聞こえる。シンはゆっくりと目を開けた。目の前に色気のある女性が立っている。辺りを見渡すとそこは馴染みのスナックだった。どうやらカウンターで酒を飲んだまま寝ていたらしい。
「赤龍の先生、また昼間から飲んで! シャンリンちゃんに怒られますよ!」
スナックのママだ。名をユーランという。中華街のお袋といったところか。還暦に近いはずだが年齢を感じさせない。シンとの付き合いは長かった。
「懐かしい夢を見ていた。インロンが死んだ時のことだ。もう八年になるか」
シンは呟くように言った。ユーランは表情を曇らせると微笑みながら頷いた。
「川成の事件が起こった後のことだ。まだ幼かったリーシャが父親に代わって龍尾の頭領となった。そしてフェイロンは龍尾を去り、インロンの異名を継承して龍王となったのだ。龍尾と龍王。二つの組織は今も抗争を続けている……あの時の俺の判断は果たして正しかったのか」
「……先生」
「皮肉なもんでねえ、あの時と同じ壁が俺の前に立ち塞がっているんだ」
「それでは先生、お気持ちは変わらないんですね」
シンは紹興酒をあおった。
「ああ、二代目赤龍は――ガンとシャンリンの二人だ」
【参照】
リーシャ→第五十八話 龍の器
フェイロン→第七十九話 龍王
金蛇の一族→第八十五話 蛇の民と瑪那人




