第百七十話 メーデー
目の前に大型漁船が迫っている。ボーッと汽笛が鳴り、上空には海鳥が飛び交っていた。
ロウとスメラギは船乗りの制服を着て甲板から大型船を見上げていた。船と船が密着する。
ロウはトラブルを告げる旗を掲げると、手を上下させて救助を求めるジェスチャーを送る。その横でスメラギが拡声器を手に取り、中国語と英語で叫んだ。
『メーデーメーデーメーデー! こちらエンジントラブル! エンジントラブル! 救助求む! 救助求むー! どうぞー!』
船上にはアジア系の漁師の姿が見えた。手を振って応えてくれている。漁師に扮した海賊ではないようだ。ロウは内心ほっとしていた。出会い頭の銃撃を覚悟していたのである。
(……ガキの情報通りなら……上手くいくはずだ。これは賭けだぜ)
漁船から縄梯子が投げ込まれた。取り敢えず事情を説明しに上がってこい、ということらしい。ロウとスメラギは視線を交換すると軽く頷いた。
――船に上がると、甲板には磯と魚の血の香りが漂っていた。ブルーのバンジョウやテンバコが積まれており、中には魚が入っている。漁師達が作業している姿が見えた。
ブリッジの方へ進むと船長らしい人物が立っていた。人懐っこい顔をしたひげ面の男で、背後には複数人の乗組員が控えている。ロウとスメラギは何人かに遠巻きにされていた。
スメラギはヘラヘラと笑いながらひげ面の太った男に話し掛けた。
「いやー、ありがとうございます! エンジントラブルで漂流していまして……」
ひげ面の男は笑顔で答える。
「それは大変でしたなぁ、どちらまで行かれるのですか?」
「冬岩まで行きたいんですが……乗せていってくれませんかねぇ?」
スメラギの言葉を聞いて、ひげ面の男はにっこりと笑った。
「ふむ、海保に救助を求めなかったということは訳ありですか?」
若干警戒心を抱いたようだ。ロウはちらりとスメラギの横顔を見るが、まだ余裕の笑みを浮かべていた。
「ええ、難民達の密航です。あ、でも……失礼ですが、こちらの船もそうでは?」
「何故そう思われるのですか?」
「漁師達の身のこなしが軍隊のように訓練されています。揺れる船上だとそれは顕著に出ますよ。どこかで専門的な訓練を受けているのではないですか。表社会の方々ではないかと」
「ほう、慧眼ですなぁ。仰るとおり、この漁は海保を欺くカモフラージュですな」
これはロウの賭けであった。ニコルの異能により、この漁船で難民らしい黒人の姿を目撃していたし、無線を使っていない様子からも真っ当な船ではないことが分かっていた。これで海賊でないなら密輸か密航である。
「船の方にあと四人いますが……乗せてもらえませんかねぇ? 報酬はお支払いしますんで」
断ったら通報するかもしれない――と思わせる。スメラギは内心で微笑んでいた。ひげ面の男は側近の背の高い色黒の男と会話をしている。ベトナム語なので内容は分からない。複数人で顔をつき合わせて話し合っている。
男は髭を撫でながらこう言った。
「そちらの事情は分かりました。そのうえで……一つだけ聞いてもよろしいかな」
男はロウ達の船を指差す。
「私の記憶が正しければ、あの船――百頭を名乗る組織のものだったかと……」
男が言い終わる前に、スメラギの顔から笑みが消える。
「あなた方……彼等を殺しましたか?」
「ちぃっ……!」
ロウとスメラギは隠していた銃を男達へ向けた。刹那、周りにいた漁師達が銃を手に取り構えた。ひげ面の男は顔に余裕の笑みを貼り付けたままだ。
まさに一触即発。次の行動が自分達の運命を決める。呼吸を忘れるほどの緊張感の中、海鳥の泣き声だけが、壊れた音楽プレーヤーのように繰り返し空にこだましていた。
ひげ面の男が沈黙を破った。
「申し遅れましたね、私は百頭、アジア担当のポンといいます」
――最悪の結果だ。ロウは舌打ちをした。
ポンは髭を撫でると人の良さそうな笑みを浮かべる。しかし、その鋭い眼光はロウとスメラギを捉えていた。
【参照】
百頭のポンについて→第百三十七話 嵐の前




