第百五十三話 シャーロットが死んだあの日から
ある朝、いつも通りリンはシュウの部屋のドアをノックした。朝に弱い兄を起こす、健気な妹のルーティンである。
「失礼します」
相変わらず鍵が掛かっていない。リンはシュウの返事を待たずに部屋に入った。すると、中でシュウが着替えており、成長期ながら鍛えられた上半身が露わになっている。
「おう、おはよう」
シュウは照れる様子を見せず平然としているが、リンは顔を真っ赤にしてしどろもどろになった。
「すいません……起きていたんですね、兄さん。あの……ご飯が……できて……います」
リンの視線はゆっくりと下がっていき、顔を伏せてしまった。妹の態度にシュウは怪訝な表情をする。
「何だよ?」
「あ、あのですね。ふ、服を着てください。目のやり場に……困るんです」
リンは手で顔を覆いながら呟いた。
「何言ってんだよ、昔は一緒に風呂入っただろ。つい最近だぜ、俺にとっては」
シュウは便利屋の制服である青柳色の甚平を羽織った。リンは赤い顔でシュウを見ている。
「てゆーか、お前がいつもやっている恋愛ゲーム、普通に男の裸出てくるだろ。見慣れているんじゃねーの?」
「……そうですけど、二次元と三次元では違うといいますか……」
リンはチラチラとシュウを見ながら、ぼそぼそと言っている。彼女の趣味は恋愛ゲームの攻略だ。兄の前でも堂々とプレイするため、シュウは微妙な感覚でそれを黙認している。
「お前さ……攻略キャラに俺の名前付ける癖。あれ、やめろよな」
「……はい、申し訳ありません」
まだよそよそしい妹の態度に、シュウは溜息をついた。
◆
朝食を終え、営業時間前の貴重なスキマ時間。シュウとリンは店舗でパソコンを見ながらスケジュールを確認していた。今日は滝本ココナが来店する予定である。
リンがおもむろに口を開いた。
「それにしても偶然でしたね。西綾瀬公園で滝本さんに会うなんて。兄さんは恋愛ゲームの主人公ですか?」
「ばかやろう、ゲームならもっと楽しいだろ。希望に満ちあふれた学園生活でハーレム状態とかさ。ハッピー要素ゼロだろ、俺のストーリーは」
シュウはここ最近、自分が置かれた環境を回想していた。ソフィア誘拐事件に始まり、ストーカー事件、カリス狙撃事件、テロリストの自爆、そして異人ホームレスの襲撃。ニュースでも悲惨な情報が多い。とにかく殺伐としていた記憶しかない。
リンは無言でキーボードを叩いている。そしてガラス張りの出入り口から外を眺めた。商店街を歩く観光客の姿が見える。開店までもう少しだ。
店舗に流す音楽を選びながらリンは遠慮がちに言った。
「……最近、兄さんはカリスの……シャーロットさんの歌を聴かなくなりましたね」
書類をめくっていたシュウの動きが止まる。
――避けていた話題であった。兄妹で意識しながらその話題には触れてこなかった。そう、シャーロットが死んだあの日から。
「……そうだったか? 意識していなかったな」
シュウの表情に変化はない。書類に視線を落としている。リンは短く息を吐くと、意を決して言葉を紡いだ。
「既にご存じかと思いますが、私は……兄さんが他の女性と付き合うなんて絶対に嫌です」
リンはずっと抑えていた感情を吐露した。シュウに目立った反応は無い。まあ分かっているけど、と思っているのだろう。リンは告白を続ける。
「でも、シャーロットさんとの二回目のデート……その前日でした。シャーロットさんは私の部屋に来て……兄さんと恋人同士になってもいいかと、私に許可を求めてきました」
「……え?」
リンの言葉にシュウは反応を示した。その視線には何故言わなかった、という感情が込められているように見えた。
「言えない……言えるわけない……私があの人に許可を出したなんて……」
そう、絞り出すように呟いた。もともとリンは表情を顔に出す性格ではない。しかし、今日は違った。苦しそうに顔を歪めている。リンは目を伏せて言葉を続けた。
「だって……兄さんがシャーロットさんを好きだったから! ――認めるしかないじゃないですか……ひどい、あんまりです。突然現れて……兄さんの心を奪っていくなんて……」
「別に俺は……好きとか、そんなんじゃねぇよ」
シュウはリンから視線を逸らして口ごもる。リンはシュウを睨むと語調を強めて言った。
「嘘です、兄さんの心の中にはまだシャーロットさんがいます。ファイブソウルズを追うのも、雨夜さんと事件を調査するのも……何かを忘れようと必死になっているから!」
「そんなんじゃねぇって! しつけーぞ! てか、店のオープン前にする話じゃねーだろ!」
シュウは思わず感情的になった。リンは儚く笑うと、寂しそうに言う。
「――私では勝てませんよ、だってシャーロットさんは既に死んでいて……勝負のしようがありませんから。あの人は……死んだ後も兄さんを縛り続けているのに……」
「それは……」
シャーロットの死はシュウだけでなく、リンの心にも深い傷を負わせていたのだ。
ある日、ランに言われたことを思い出す。
――りんりんにも気を遣いなさいね――
(俺はリンをもっと気遣うべきだったのか)
シュウはリンに図星を突かれて感情的になった自身を悔いた。
「ごめんなさい、兄さん。突然こんなことを言われても困ってしまいますよね」
リンは涙目で謝罪をした。
「いや……悪かったな、色々と気遣わせて」
シュウはそう答えると、マイチューブでヒップホップを流した。店内が陽気な音楽で満たされる。
「昨日、兄さんが帰ってきてから……ずっと様子が変でした。まるでシャーロットさんが死んだ時みたいに……悲しいマナをしています」
リンは精神感応系の異人である。マナの機微には敏感だ。心を見透かされるわけではないが、隠し事はできない。シュウは正直に話した。
「……昨日チェンを探していたら難民が働いているマキシムラインって倉庫に行き着いたんだ。そこでカリスのグッズを見付けて色々思い出しちまったんだよ」
「難民の倉庫ですか? どうしてそんなところにカリスが……」
「そこの社長がカリスグッズの件でトラブルが遭ったって言っていた。だからあの狙撃事件と何か関係があるのか勘ぐっちまった。難民と言えばファイブソウルズの事件で色々あっただろう? だから神経質になっていたんだ。なんかこう……どす黒い嫌なものを感じたんだ」
シュウは力なく笑った。いつも強気な兄が珍しく弱っている。
「兄さん……」
リンは迷っていた。シャーロットの件で、まだシュウに言っていないことがある。白石武彦に拉致された地下室で何があったのか――。しかし、リンは彼女と約束をした。あの日視たことは言わないと。
(……でも)
――伝えた方が良い気がする、リンはそう思った。真実を知らないと兄は自身で創り上げた虚構と幻想の狭間で壊れてしまうかもしれない。それ程、兄はシャーロットのことを想っている。シャーロットが死んだあの日から、兄の心はここに帰ってきていない。
「兄さん、あの……!」
「どうした?」
リンはシュウの疲れた表情を見て言葉を止めた。シュウは今、精神的に脆い。真実に耐えられるとは思えない。シャーロットがDMDに関わっていた可能性があると知ったら――兄はこれから何を信じられるのだろう。
「い、いえ。何でもありません。あ、コーヒー入れてきますね」
リンは席を立つと給湯室へ向かった。そのタイミングでオープン五分前のタイマーが鳴り響く。シュウはタイマーを止めると自分の頬を叩いた。
【参照】
誘拐事件→第二話 二万ドルの案件
マキシムラインについて→第十三話 マキシムライン
ストーカー事件→第十六話 異人の歌姫
地下室で何があったのか→第三十四話 闇へ誘う女
ランに言われたこと→第三十九話 結果報告
シャーロットの告白→第四十話 妹
カリス狙撃事件→第四十四話 世界の終わり
ファイブソウルズ→第五十二話 ファイブソウルズ
雨夜と調査→第五十五話 高原雨夜
テロリストの自爆→第七十話 難民の少女
難民の倉庫→第百四十七話 ロックスミス
ココナと偶然会う→ 第百四十九話 ホームレス村の戦い




