第百四十五話 ココナの涙
鬼沢と田中が警察署に着くと、何やら受付が騒がしかった。二人は遠目でその様子を伺う。眼鏡を掛けた女性が受付に手紙を見せて騒いでいるようだ。
「どうして調べてくれないんですか? これは脅迫状でしょう。被害届を出します!」
受付の女性が手紙を見ながら答える。
「……とおっしゃいましても、『魂の救済』では脅迫と断定できませんし、異人狩りと呼ばれる組織なども公的には存在しませんので……被害届を出すにしても、ちょっと情報が足りないと言いますか……これでは我々は動けないのです。民事不介入と言いましてね」
「……そんな。だって事件が起こってからでは遅いじゃないですか」
「それはそうですが……三葉町の巡回を強化しますので、今日はお引き取りくださいませ。具体的な被害を受けたり、犯人が分かりましたら、またおいでください。あ、電話でも大丈夫ですから」
遠目でも女性の落胆ぶりが分かった。とぼとぼとこちらに向かって歩いてくる。
「……」
眼鏡の女性が田中の横を通り過ぎる。
「あ、すいません」
田中が女性に声を掛けた。女性は振り返ると田中の顔を見る。その目には涙が浮かんでいた。
「君、お名前は? あ、私は田中巡査部長です。こちらは鬼沢警部補」
「おい、田中?」
鬼沢はどういうつもりだと疑念を込めて田中を見やる。女性は大きな目をぱちくりさせると慌てて答えた。
「あ、はい。私は滝本ココナと申します。異人支援協会JAIの職員です」
「そうなんですね。私の家内が異人の友社に勤めておりまして、ジャイともお付き合いさせていただいております」
田中は人が良さそうな笑顔を浮かべて場を和ませる。
「異人狩りから脅迫状を受け取ったとか? 拝見してもよろしいですか」
「え? は、はい。こちらですが……」
ココナは戸惑いながらも手紙を渡した。田中は目を細めてその紙を視る。鬼沢は無言で田中の横顔を見ていた。
「……なるほど。お返ししますね」
田中は笑顔で脅迫状をココナへ戻した。ココナは不安げに田中と鬼沢の顔を見る。
「うーん、これだけでは何とも言えませんね。……ですが、念のために住所を伺ってもよろしいですか。あ、これは私の名刺です。どうぞ、お持ちください」
「は、はい! ありがとうございます」
ココナは自宅の住所を告げると、頭を下げて警察署を出て行った。鬼沢はココナの背中を一瞥すると溜息をついて田中に問う。
「何であの子を呼び止めた?」
「ちょっとまずいですね。あの脅迫状……嫌なマナが視えましたよ。あれは異人が書いた手紙です」
「なに?」
田中は精神感応系の異人である。普通人には見えないマナが視えるのだ。
「鬼沢さんも噂を聞いたことがあるでしょう。異人狩りには異人が関与している。――異人が異人を狩るのです」
田中は更に言葉を続けた。
「異人狩りの大半は普通人によるリンチです。その対象は社会的弱者、マイノリティへの差別……異人以外も含まれます。まあ、いわゆる模倣犯ですね。……ですが異人による異人狩りはプロの犯行なんです。高確率で殺人が起きます」
田中の言葉に鬼沢の表情が変わった。
「あの脅迫状は……本物かもしれません」
◆
ココナは車を運転しながら警察という組織に失望していた。結局、事件が起こらないと動かないシステムなのだ。こちらがどんなに訴えていても――。
「……思い出しちゃったな。あの時のことを」
ココナは呟いた。今日だけではない。以前から警察には不信感を抱いていたのだ。
「お母さん。私……どうしたら」
まだ日が高い。世間では昼飯時だ。車は西綾瀬公園の駐車場に止まった。この公園は荒川第二難民キャンプに近い立地で、園内はホームレスのテント村と化している。ホームレスの内訳は異人や難民が多い。特に異人の比率が高く、異人狩りが多発する地域だ。
ココナは車を降りると園内へと足を踏み入れた。エコバッグの中にはおにぎりや菓子パンが入っている。ホームレスへ差し入れである。
「異人支援協会ジャイの者です。失礼いたしまーす」
ブルーシートのテントが乱立している。人の姿は無く、ひっそりとしていた。ここは近代的な氷川SCとは違う。都市開発から取り残された西の果てだ。西綾瀬公園のホームレスは排他的で気が荒い。ココナは緊張した面持ちで声を掛けた。
「すいませーん! おにぎり食べませんかー?」
ココナは目の前のテントに近付いて声を掛けた。すると中からぼさぼさの白髪と長い髭を生やした男が出てきた。
「しつこいな、あんたも! 俺達は犬じゃねぇぞ!」
「……私はそんなつもりじゃ」
今日のココナは心が弱っていた。いつもの笑顔は消えている。怒っているホームレスの気迫に押されそうだった。
「女一人でこんな所に来やがって! テントに引きずり込まれんぞ! ああ!」
ホームレスは酔っていた。ココナは彼を知っている。アルコール中毒で治療を受けていた過去を持つ男である。支援の手を差し伸べても、頑なにそれを拒んできた男だ。酔ったホームレスは危険である。文字通り何をするか分からない。ココナは思わず後ずさりをした。
「玄さんの言うとおりだぜ。お嬢ちゃん、こんな所に来たら危ねーぞ」
いつの間にか後ろにもホームレスが立っていた。手には包丁を持っている。気が付くと複数人に囲まれていた。皆が殺気立っている。何か妙だった。
「み、皆さん、どうしたのですか? いつもはここまで……」
その時、ココナの視界の隅に比較的新しいブルーテントが映った。
半月前、この公園に流れてきたホームレスのテントだったはずだ。名を丸山といった。まだ二十代の青年で、疲れ切った顔をしていたが、器用にテントを張っていた。食事を支援し、何度か会話をしたので記憶に残っている。
丸山のブルーテントの入り口が開いていた。薄暗くて中は見えづらいが、無人のようである。
「……丸山くん?」
ココナはホームレスを押しのけてテントの前へ行く。酔ったホームレスは思わず道を空けた。憔悴したココナの表情に怯んだのだ。
やはり丸山の姿は無かった。数日前までブルーテントの中で詩を書いていた。いつか歌手になると語っていた。ココナは苦しみながらも前を見て生きていた丸山を応援していたのである。
「丸山くん、どこに行ったんですか」
ココナは呟いた。誰かに問うた言葉ではない。自然と口から出た言葉だ。
「丸山は死んだよ」
振り返ると夏目和彦が立っていた。雨の日以来の再会である。夏目は冷たい目でココナを見ていた。
「し……んだ? どう……して?」
そう聞き返すココナの表情を見て、ホームレスに動揺が走る。触れると砕けてしまいそうな、ガラス細工のような女の表情に衝撃を受けたのである。夏目は冷静に言葉を返した。
「自殺だよ。朝になってもテントから出てこないから、嫌な予感がして覗いてみたら……睡眠薬を飲んで死んでいたんだ」
何故だか夏目の言葉が遠くに聞こえる。
「歌手になるって……言ってたじゃない……。ここで人生を……やり直すって」
ココナは脱力して膝をついた。エコバッグからおにぎりが転がり出てくる。
「今朝の話さ。さっきまで警察が来ていたんだ。だから皆、機嫌が悪いんだよ」
「そんな……どうして? ナツさん」
ココナの目から涙が溢れてくる。その涙を見てホームレス達からどよめきが起こった。
「あ、あんた……なんでそこまで……俺等のことを」
包丁を持っていたホームレスは狼狽えて一歩後ろに下がる。他のホームレスの敵意も消え失せていた。
「始めから死ぬつもりでここに来たんだろう」
――テントの中で……たった一人で?
「でも誰にも知られず死ぬのは寂しかったんじゃないか。きっと誰かに知って欲しかった。自分が生きていたことを。そして――ここで死んだことを」
夏目はココナを諭すように言った。
「どうして……どうしてよぉ……生きていて……ほしかったのに」
ココナは人目を気にせず泣いていた。拭っても拭っても、涙が溢れた。公園の土で顔が汚れる。ただひたすらに――悲しかったのだ。自分の手が届かなかったこと、若い命が尽きたことが。
それを見ていたホームレス達に変化が起こった。酔って暴言を吐いていた男がおにぎりを拾いエコバッグに入れた。怒っていたはずのホームレス達はココナを取り囲むように地面に座ると頭を下げたのだ。
それは感謝の表れだった。社会不適合者の自分達に対する偽りない慈愛の心への――。
「こんな世界……間違ってる……」
ココナは静かに泣き続ける。夏目はそんなココナを優しく見守っていた。
【参照】
田中刑事の嫁→第十二話 異人の友社の落合さん
西綾瀬公園について→第八十一話 荒川アウトサイダーズ




