第百三十七話 嵐の前
その夜は霧が出ていた。海上には山背が吹き、冷たい空気が流れている。月が出ており、完全に真っ暗というわけではない。
メイファとウェイ、その他三名の私兵は遊漁船に乗り、沖合に停泊しているイカ漁船の方角へ舵を取る。陸には残り三名の部下がおり、周囲を警戒していた。異変があれば取引を中止し、引き上げるためだ。
メイファは風に吹かれながら暗い水平線を眺めている。ウェイがその背中に声を掛けた。
「お嬢。どうしました? もう着きますよ」
「何か妙な空気を感じたんだよ。いや……、気のせいかもしれない」
遊漁船とイカ漁船の間にハシゴを掛ける。ウェイを先頭にしてイカ漁船へ乗り込んだ。相手は漁船に扮した密輸相手だが、実際にイカも積まれている。一見すると密輸船だとは分からない。
日本の財務省は密輸摘発件数が減少している等と発表しているが、それは年々巧妙になっていく密輸を防げていないだけである。件数は減っているのではなく、明らかに増えているのだ。
船長室からひげ面の太った男が出てきた。黒い防寒ジャケットを羽織っている。夏が近い時期だが東北の海上は結構寒い。
「やあ、二代目青龍殿。父上はお元気ですかな?」
男は中国語で話す。初代青龍からの付き合いだ。メイファは笑顔で答える。
「ええ。元気です。東龍倉庫も順調です。これも老師のお陰ですね」
男の名をポンという。裏社会の人間には見えないほど、人懐っこい表情をしているが、注意深く辺りに気を配っているのが分かる。時折、視線が厳しくなる。非常に慎重な男であった。
「そうかそうか。なら龍尾も安泰ですなぁ。龍王のことは気がかりだろうが……。我々としては見ていることしかできない。すまんなぁ」
「いいのです。老師の方にも事情がおありでしょう。龍尾中国拠点の方もお世話になっていると伺っています。今後もよろしくお願いします」
中国系移民をルーツに持つ龍尾は中国や東南アジアにも拠点がある。その規模は龍王よりも大きかった。
「それはもちろん。……では商品を」
ポンの後ろにいた屈強な男達がキャリーケースを三つ持ってきた。中を確かめると金のインゴットが入っている。相当な金額であった。
「確かに。よし、ウェイ。カネだ」
ウェイは金塊を受け取ると現金が入ったケースを渡した。互いに中身を確認するが、既に信頼関係は築けているため、手早く済ます。旧市街付近の海岸で人目が無いとはいえ、ぐずぐずはしていられない。
メイファは黒い水平線に視線を移すと、ポンに言った。
「ところで老師。今夜の海はいかがでしょう」
月と星は出ているが、海には靄がかかっている。ポンは海を睨む。
「そうですなぁ。取引にはもってこいの状況ですが……」
ウェイはメイファの顔を伺ってから、ポンの横顔を見る。山背がもたらした霧は出ているが、特に違和感を覚えない海だ。少し風が強い程度である。
「何やらマナがざわついておりますな。用心された方がよろしい」
ポンの言葉にメイファは好戦的な笑みを浮かべ、潮風で乾いた唇を舐める。
「ふ……」
メイファに精神感応系の素質はないが、勘が鋭い。ウェイは戦場で発揮されるメイファの適格な状況判断に驚かされたことは何度もあった。ポンはメイファに手を差し出すとこう言った。
「そなたのマナに幸あらんことを」
「ありがとうございます」
メイファとポンは握手をして別れた。
メイファが船に戻ると、イカ漁船は更に沖合へと向かっていき、その船影は徐々に小さくなっていく。
メイファはしばらくそれを見送った後、ウェイに指示を出した。
「あたし達も行こう。陸の奴等に運搬用のボートを持ってこさせろ」
港は人目があるので、途中で金塊を持ってボートに乗り換え、砂浜へ着ける計画である。遊漁船に私兵が一人残り、漁港へ入るのだ。これなら海保に摘発されても船内からは何も出ないのである。
海上を冷たい風が吹いている。ウェイは海岸にいる仲間に連絡を取るため、衛星電話を手にした。
◆
陸に残った青龍の私兵は防災林や道路、廃墟を行き来し、周囲を見張っていた。しかし人通りのない旧市街のうえ、霧が出ており視認性が低く密輸には最高の状況である。普段より気が緩んでいても仕方のないコンディションであった。
ウェイから連絡が入り、既に私兵の一人はボートで遊漁船に向かっている。残った私兵は二名。どちらもアジア系の男だ。外国語で会話をしている。
「おい、ボートが戻ってくるぜ。終わったようだ」
「ああ。拍子抜けだな。俺は今日が初めての見張りだったんだけどね。ラッキー」
背の高い男と低い男が拳と拳を合わせる。任務成功を喜んでいるようだ。
防災林が背後で揺れている。夜に見ると不気味であった。海から吹き込む風に向かって鳴いているように見える。防災林は盛土の上に生えており、海岸側はちょっとした崖のように削られている。その向こうには傾斜堤があり、更に岩やテトラポットが設置されている。その先は砂浜になっており、再びテトラポットで区切られてようやく海へと到達する。
二十一世紀末の東北は、景観を損ねるとしても、とにかく海から街を守る造りになっていた。男達は防災林を背後にして談笑をしていた。
「メイファ様はともかく、ウェイさんは慎重すぎるよな。こんな銃まで持たせてさ」
男が手にしているのはFNXシリーズのハンドガンである。サイレンサーが装着してあり、隠密性に優れている。
「まったくだな。……っと、ちょっとトイレ行ってくるわ。寒い寒い」
背の低い男はそう答えると、崖を登り防災林の方へ姿を消した。
「確かに寒いな。帰ったら一杯やるか? 紹興酒を熱燗で! ……なぁ?」
防災林の方に向かって声を掛ける。しかし、返事がない。
――次の瞬間、崖の上から何かが落ちてきた。突然のことに男は動揺する。
「な、なんだよ! 危ねぇな……? うわぁ!」
落ちてきたのは、防災林で用を足していた背の低い男であった。こめかみを撃ち抜かれて死んでいる。その目は力なく虚空を見詰めていた。男は崖の上に銃を構えて叫んだ。
「出てこい! 誰かいるだろ!」
すると、背後から女の声がした。
「きみ、青龍の私兵だよね?」
「……っ!」
振り返ると、オーバーサイズのパーカーを着た黒髪の女が立っていた。顔にはマスクを着けており、人相は分からない。女の手には、背の低い男が所持していたハンドガンがある。
「いやぁ、よかったよー。漁港と砂浜、どっちに戻るかなぁって思ってさ。でも、絶対こっちでしょ。そう思ったから港には二人しか配置しなかったもん。あ、呼び戻さないとだねぇ」
目の前にいる女は可笑しそうに話している。マスクで分からないが、おそらく笑っているのだろう。しかし、その目に感情は込められていない。爬虫類のような目で男を見ている。
「誰だ、お前? 一歩でも動いたら……う、撃つからな!」
「死人に名乗っても意味ないよ。きみ、今死ぬから」
女はそう言うと、男の眉間を撃ち抜いた。サイレンサーで銃声は小さい。男は悲鳴をあげる間もなく絶命し、ドサリと地に伏した。
「銃で死ぬなら楽なもんさ。異能使わなくていいんだもんね」
能天気な口調で話す女は、逆鱗リーダーのヤオであった。
ヤオは銃を背の低い男の手に握らせた。そのタイミングで、崖の上から六名の人影が下りてくる。逆鱗と闇龍のメンバーだ。
「ねえ、エマ。こうすると、こいつが男を撃ち殺して自殺したように見えるかな?」
ヤオは赤髪の白人女性に問い掛けた。彼女の名はエマという。
「ヤオさん。そんな偽装意味ありますか?」
エマは呆れながら答えた。溜息をつきながら長剣を撫でている。後ろにいるドレッドヘアの黒人男性が口を開いた。
「なあ、ヤオ。あのボートに青龍が乗っているのは間違いないのか? 陽動で港に行った可能性は?」
男の名はブラッドである。ブラッドは二艘のボートを指差してヤオに聞く。ボートはまだ遠いが、ゆっくりと近付いてくる。廃墟や木々が隠れ蓑になり、向こうからこちらは見えない。ヤオは無線機を片手に答えた。
「三上さんがそう言ってる。アタシ、あの人のこと信じられると思う」
「あの男が事前に言っていた位置で待機しているとして……。青龍が見えるか? この夜で、この霧で。真っ暗だと思うんだがな。当てずっぽうじゃ困るぞ」
「アタシらの役目はメイファの暗殺さ。それ以外は考える必要ないよ」
金髪の女が口を挟んだ。
「ボート沈めた方が早くない? 溺死で完了。楽よ」
「ダメだよ、ケイト。海に落としたくらいで死なないよ。泳いで逃げられても困るし。それに顔確認してから殺さないとさ」
ヤオはメンバーに明るく言った。そしてこう付け加える。
「今夜は楽しも? あは!」
ザワザワと木々が揺れ、潮の香りが鼻孔をくすぐる。徐々に風が強くなってくるのを感じていた。
【参照】
龍尾と龍王の関係→第五十八話 龍の器




