第百三十三話 空っぽな少女
その日は霧が出ていた。場所は北海道の旧市街である。三上拓哉と飯田伸介は歓楽街外れの古いアパートの一室にいた。
部屋のカーテンは閉められ、白い蛍光灯が点滅している。辺りには争った形跡があり、血だらけの男が椅子に縛り付けられていた。顔は腫れ上がり流血している。白いワイシャツが真っ赤に染まっていた。
「た、頼む……! 命だけは助けてくれ! 金の場所に嘘はねぇよ!」
命乞いをする男は暴力団雪風組の闇金屋だ。組の金に手を出して報復される。よくある話であった。
三上と飯田は雪風組から派遣された殺し屋である。
三上はナイフを片手に持って口を開いた。その視線は氷のように冷たい。
「あんたさ。やり過ぎたね。金を横領すんのはよくある話だが……」
三上はそう言うと男の膝にナイフを突き立てた。
「ぎゃぁあ!」
男は悲鳴をあげた。ズボンが真っ赤に染まる。飯田が男の口にタオルを突っ込んだ。声を漏らさないためである。
三上は言葉を続けた。
「あんたが借金漬けにしてソープに沈めた女……アレがお得意さんの従姉妹だったんだよなぁ。覚えているか? 絵里子ちゃんってコ。ああ、身に覚えがありすぎて分からんか。随分と楽しんだんじゃねぇの」
もう片方の膝にナイフを突き立てると、男はうめき声を上げた。身体を動かそうにも、椅子に縛り付けられているので、それも叶わない。椅子がガタガタと揺れる。
「飯田」
三上が声を掛けると、飯田は剪定ばさみを取り出した。全長が七十センチ程あり、太い枝を切断する用途で使用される。
それを見た男の顔が恐怖で歪む。叫ぼうにも声にならない。
「うー! んー!」
裏切りへの報復は、より残酷に。これが裏社会の掟である。三上と飯田はこれまで何度も手を汚してきた。いわゆる、ダーティーワーカーであった。
「……」
飯田は剪定ばさみを男の喉元に突きつけ――「切断」した。
――事を済ませた三上は部屋を見渡す。
整理整頓をする性格ではなかったらしい。卓上には空き缶やカップ麺の容器が散乱している。床には脱ぎ捨てられた服が放置されていた
「きったねぇな。……ん?」
男物の服の中にレディースの服が見え隠れする。点滅する蛍光灯に照らされて、シュールな光景であった。三上はワンピースを拾い上げる。
「なんだこりゃ。デリ嬢でも来ていたのか」
三上は飯田にワンピースを投げる。
「どうすかね。それにしては所帯染みていません? 風俗嬢ってファッションでも客からクレーム来ますからね」
「……って、おい。気配を感じるな。誰かいるぞ」
三上はバスルームの扉を開ける。すると、中でワンピースを着た少女が体育座りをしていた。まだ幼い顔をしている。
「女がいたか。あの服の持ち主だな」
少女の顔には痣や切り傷がある。この世の全ての不幸を背負ったような表情をしており、目は死人のようであった。生気を感じさせない瞳で、三上を見上げる。
「説明が面倒くせぇな。おい、こっちに来い」
三上は少女の腕を掴むとバスルームを出た。
「……い、痛い」
少女は抵抗しないが、足がもつれる。三上はお構いなしに腕を引っ張り、絶命した男の前へ少女を連れてきた。
「え……」
少女は床に滴る血に足を取られ転倒した。己が手に黒ずんだ血がべっとりと付着する。少女は手のひらを凝視した後、再び原形を留めていない男を見上げた。
三上と飯田は少女を見下ろし、反応を待っている。
「死んじゃったんだね……この人」
少女は小さな声で呟いた。大きな瞳からは大粒の涙が溢れ、絶望の色に染まりながらも、何故だか口元は笑っている。少女のちぐはぐな表情に三上は寒気を覚えた。
三上は少女に言葉を投げかける。
「こいつは組の金を持ち出した闇金屋だ。だから殺した」
「……」
「お前は……借金返すために客を取らされていた。給料はピンハネ。毎月、利息分しか返せない生き地獄。そんな感じだろ? まあ、よくある話だ。お前みたいな女は山ほどいる」
三上はタバコに火を点けながら少女に問う。
「何で逃げなかったんだ?」
少女はこぼれる涙を拭った。整った顔が男の血で汚れる。
「……逃げたら……お父さんとお母さんを殺すって……」
三上と飯田は顔を見合わせる。これもよくある話であった。
「ミサは……虐待されてたんだ。だから家を飛び出した。親が憎かった……憎かったはずなのに……逃げられなかったの。あんなのでも……親は親だったんだよ……」
「……」
「……でも、もういいの」
少女は自分の肩を抱いて目を瞑る。
「何がだ?」
「もうミサにはなんにもないの。帰るところもないし……空っぽなんだ。だから――」
――殺していいよ。
少女の心の声が聞こえた気がした。
三上は無言で銃を取り出した。目撃者を殺す。これもよくある話だ。
少女に銃口を向ける。
「……」
三上は少女のマナを視る。それはただの戯れだった。そう、殺し屋のただの気まぐれ……。
「お前。異人か?」
少女は目を開くと三上を見上げた。銃を構える男からの突然の問いである。
「……お父さんが異人だった。ミサは……違う」
古びた蛍光灯が不気味に点滅していた。三上と血に汚れた少女の視線が交差する。
「死にたきゃ自分で死ね。銃でな」
三上は少女に銃を手渡した。
「え?」
少女は呆然と銃を眺める。三上の顔と銃を交互に見た。
「こっちを狙っても意味ないぜ。俺等は異人だからな」
「……」
「簡単だ。自分の頭を撃ち抜いてみろ。これも縁だ。お前の死を見届けてやる」
少女は震える手で銃を握ると、自分の頭部に照準を合わせた。少女の息が荒くなる。
「はぁ……はぁ……」
少女は人生に絶望していた。虐待され家を飛び出し、借金を負い身体を売った。居場所がない少女は男の家を泊まり歩いた。そこで暴力を振るわれながらも、居場所を守るため、ただ耐えていた馬鹿な女だ。自分は汚れ、生きる価値がない――空っぽな女だと。
「どうした? 死んでみろ」
闇金の男は死んだ。これで親が殺されることはない。死にたい。ようやく死ねる。死んでいいんだ。もう……死んで……。
「はぁっ! はぁっ……はぁ……うぅ」
少女は引き金を引けなかった。銃を床に落とし、うずくまる。そして静かに泣き出した。
「……どうして……ミサに生きる価値なんて……ないのに。……ころして。ころしてよぉ」
三上はタバコの煙を吐くと、こう言った。
「死ぬのが怖いか? それは空っぽじゃないってことだ。お前……まだ生きた方がいいぜ」
少女は泣きながら三上を見上げる。顔は涙と血でグシャグシャになっていた。
「……おじさん。ミサは生きていいの?」
「おじさんじゃねぇ! 一応、アラサーだから! 俺は。そっちのデカい奴もな」
――三上と飯田は少女を殺さなかった。
もともと、この仕事を最後に、雪風組を抜けて北海道を出るつもりだったからである。殺し屋は人の恨みを買う。適当に稼いだ後は場所を変えるのだ。そう、風に流される雲のように。
その日のうちに三上と飯田は北海道を後にした。次の行き先は決めていない。気ままな旅である。これまでも、そしてこれからも。
ただ、その日はいつもと勝手が違った。無骨な男の二人旅に、一人の少女が加わったのである。
少女の名を美咲といった。
奇妙な三人は、くっつくわけでもなく、離れるわけでもない、一定の距離で歩いていたという。




