HIPPOPOTAMUS
優希の夢へと侵入するための入り口は、とんでもない場所にありました。なんと、動物園にいるカバの口の中だったのです。
「どうして、そんなところから入るのよう」
私が涙目で抗議すると、マークが羽をぱたぱた動かしながら、おどけた顔で言いました。
「さあね、優希君に訊いてみたら」
まあ、にくらしい。
そういえば去年の夏、優希を連れて動物園へ行ったときのこと、彼があくびをするカバを見て、
「ねえママ、カバさんのお口って大っきいね、すごいね、すごいね」
と大はしゃぎしていたのを思い出しました。それいらいカバが大のお気に入りで、よくクレヨンで口のお化けみたいなカバを描いては私に見せてくれます。
「カバさんのお口のなかには、お魚の家族がすんでいるの」
本当に子供の空想というものは奇想天外で、ときに微笑ましく、無味乾燥な日々を送る私たちの心にひとしずくの潤いを与えてくれます。でもだからって、どうして優希と私の夢が、カバの口なんかで繋がっているのでしょう。マンガみたいに勉強机の引き出しの中でも良いではありませんか……。
「ライオンの口じゃないだけ、まだましさ」
あたりまえです。
「お、ちょうど上手い具合にカバが水から上がっているぞ、さあ急ごう」
「あん、待ってよー」
今日は休日なのでしょうか、園内は親子連れの客などでかなり賑わっていました。私は、すいすい人ごみをすり抜け飛んでゆく妖精たちを必死になって追いかけます。なにせ子供の足です、見失わないようにするだけで精一杯でした。ときおり知らない人とぶつかりそうになって「ごめんなさい」と頭を下げます。三頭のカバが暮らすカバ舎の周りは、高さ一メートルほどの手すりでぐるっと囲われていました。妖精たちは、その手すりを難なく飛び越えると、風のような軽やかさでカバのいるあたりを目指してゆくのです。
どうしよう……。
一瞬躊躇しましたが、でも迷っているひまなどありません。それに昔から鉄棒は得意です。私は、いっち、にの、さんで手すりに飛びつくと逆上がりの要領でぐぐっと体を持ち上げました。我ながら、なんてお転婆さんなのでしょう。それでもなんとかよじ上って手すりを乗り越えると、周りにいた大人たちの間から「おお……」というどよめきが漏れました。スカートをはいていなくて本当によかったです。しかし、たちまち飼育係のおじさんに見つかって、大声で怒鳴られました。
「こらっ、きみ、なにをやってるんだ。危ないから早く戻ってきなさい!」
「あわわわ」
私は大急ぎでカバのいる餌場の方へと走りました。カバ舎の中は、水に浸けた堆肥のようなにおいがしました。コンクリート製の床にはところどころ糞が落ちているので、うっかり踏みつけては大変です。水から上がったカバは、ちょうど干し草を食べ終えたところで、眠いのでしょうか、さかんにあくびをしていました。ほんと、大きな口です。下あごの部分から長い牙が突き立っています。あの中へ飛び込むのかと思うとゾッとしますが、妖精たちはすでにそこを通り抜けて優希の夢の世界へと入り込んだようでした。
「なむなむなむ……」
走りながら、私はむかし死んだおばあちゃんから教わった禍い除けの呪文を唱えていました。本当はもっとちゃんとした呪文なのですが、頭二文字しか覚えていません。でもなにか困難に直面するたび私はいつもこの呪文を唱え、なんとか乗り切ってきたのです。
高校入試のときも、
「なむなむなむ……」
なんとか合格できましたし、主人のご両親と初めて対面したときだって、
「なむなむなむ……」
まあ、可愛らしいお嫁さんだこと、と言って褒めてもらえました。優希を出産したときだって、
「なむなむなむ……」
私の不安をよそに、あんなに元気で可愛い男の子が生まれたのです――優希、待っててね。今ママが助けに行くから。
私が駆け寄ると、まるでそれを待っていたかのようにカバが、ぱかーっと大きく口を開きました。間近で見るとすごい迫力です。カバの体重は軽く二トンを超えているので、まさに怪獣です。なぜこのようなところへ飛び込まなくてはならないのでしょう。飛んで火に入る夏の虫とはまさにこのこと。いえそれを言うなら虎穴に入らずんば虎児をえずかもしれません。あるいは清水の舞台から飛び降りるでしょうか。とにかく私は、心の中で自分自身に問いかけました。さあ、覚悟はいいかしら――?
いいわけないわよ、ばかあ。
「なむなむなむ、カバさん、どうか私を食べないで……」
ぎゅっと目を閉じ、私は小さな体ごとカバの口の中へ突っ込んでゆきました――。
「やあ――」
自分の体がカバの口に飲み込まれた瞬間、ふわっと空中に投げ出されたような奇妙な浮遊感がありました。どうやら私の体は、カバの胃袋ではなく別の世界へ飛び込んだようです。すぐに視界が暗転して周囲の景色が真っ暗になりました。その闇の中を私の体はふわりふわりと漂ってゆくのです。もうどっちが上で、どっちが下だか分からない状態で、くるくるふわふわ、くるくるふわふわ、まるで宇宙遊泳するみたいに……。
しばらくして、なにやら甘い香りがただよってきました。たぶん粉ミルクの匂いだと思います。そういえば優希は本当にミルクをよく飲む子でした。どんなにグズっていても、哺乳瓶を食わせさせるといつもぴたっと泣き止むのです。それを見た母が、私の小さい頃にそっくりだと言って笑っていたのを覚えています。甘い香りの次は、どこからか楽しそうなハッピーバースデーの歌が聞こえてきました。おそらくは主人と私の声でしょう。優希が嬉しそうにふうっとロウソクの火を吹き消す姿が目に浮かぶようです。それにしても、ここは一体どこなのでしょう。優希の思い出の中でしょうか? そんなことを考えていると、今度はコトコトと野菜を刻む音がしてデミグラスソースの匂いが香ってきました。私の作る料理の中で、優希が一番好きだと言ってくれたハンバーグの匂いです。ファミリーレストランで食べるハンバーグよりママの作ったやつの方がずっと美味しい、ですって。まったく褒めているんだか、そうじゃないんだか……。
くすっと苦笑いしていると、突然、私の体が重力を取り戻し、がくんと落下する感覚に襲われました。
「きゃあ」
と同時に目の前がぱあっと明るくなって、気がつくと私は公園の砂場の上に投げ出されていました。どうやらお尻から落ちたようで、足がしびれて動けません。おまけに口の中へ砂が入ったみたいで、舌の上にざらざらした苦みが走ります。
「ぺっぺっ、ひどいなあ、もう……」
目の奥で星がちかちか瞬いています。腰をさすりながらようやく体を起こすと、イルルが心配そうに私の顔を覗き込みました。
「……だいじょうぶ?」
「大丈夫なわけないでしょ、もう、みんなしてどんどん先へ行っちゃうんだから」
「ごめんごめん。でもどうやら無事、優希君の夢の世界へ入れたようだよ」
私は立ち上がって、あたりを見渡してみました。どうやら優希を連れてよく遊びに行く近所の公園のようです。実際よりもかなり広く感じるのは、子どもの視点から見ているせいでしょうか。
「ふーん……、どんなに凄いところかと思っていたら、案外ふつうの世界なのね」
でも通りへ出たとたん、私は仰天してしまいました。だって建物のほとんどが、なんとブロックで出来ているのです。赤や青や色とりどりのブロックで作られた高層ビルが、まるで美術館のオブジェのようにそびえ立っています。見るからに不安定でヘンテコな形をしています。倒れてきたりはしないのでしょうか。巨大なブロックのかたまりに押しつぶされる様を想像してゾッとしていると、今度は、これもブロックで作られた三階だてのバスが走ってきました。オモチャ屋さんで、クリスマスプレゼントには何が欲しい? と訊ねたら優希がまよわず指差したものです。運転手はどうやら人形のようで、なんだか運転がぎこちない……と思っていたら、交差点でハンドルを切り損ねてお弁当屋さんの店先に突っ込んでゆきました。がっしゃーん! とんでもない世界です。
私が呆気にとられてぽかんと口を空けていると、シャニスがアゲハチョウの羽を、まるで合わせ貝のようにぴたっと閉じて言いました。
「ね、ちょっと聞いて。葦笛の音がするわ……」
イルルも目を閉じて、耳をそばだてます。
「ほんとだ、あっちの方角から聞こえているよ」
彼が指差す先を見つめ、今度はマークがうなずきました。
「うん、僕にも聞こえる。パンのいる迷いの森はあっちだ」
私も、目を閉じて注意深く耳をすましてみました
まず、せわしいクラクションの音、そして街角の雑踏、だれかの話し声……。
ひゅるる、風の音……。
あ……。
聞こえてきました。私の耳にもはっきりと聞こえるのです。パイプオルガンで鳴らしたような美しい音階が……、童心をとらえて離さない楽しげなメロディが……。パンフルート――いたずら者のパンが吹き鳴らす美しい葦笛の音です。
「よし、みんな行こう」
私は、力強くうなずきました。
どうやら日も、いくぶん西の方へ傾いたようです――。
次話へつづく。
本当はバレンタインデーに完結させる計画だったのですが……Mポムさん、ごめんなさい!




