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OVERTURE

 ――この小説を、絵師のMポムさんに捧げます――


 だれもが大人になるにつれ、忘れてしまうようです。

 子どものころには、ごくふつうに妖精のすがたが見えていたことを……。

 そう、彼らはたとえばテレビや冷蔵庫がいつもそこにあるように、当たり前のものとして私たちのありふれた日常のなかへとけ込んでいました。

 あるときは、早春の庭先でクロッカスの黄色い花に顔をうずめて蜜をすすっていたり、またあるときには、夏祭りの夜店で買ってもらった金魚鉢によりかかって読書していたり、あるいは、暮秋の日差しに温められたトタン屋根に丸くなって気持ち良さそうに昼寝していたり、また冬になれば、重たい雪をのせる松の枝先にちょこんと乗って、勢い良く飛び跳ねては雪しずりの音を競いあったり……。そんな彼らのすがたを、子どものころの私は当然のものとして認識し、そしてまわりにいる大人たちにも同じように見えているのだと信じて疑わなかったのです。

 ――あの愛らしい妖精たちが、私の前から姿を消したのはいつのころでしょうか。

 いいえ、彼らが消えたんじゃなくって、私のほうが妖精を見ることのできる目を、純粋な心を失ってしまっただけなのかもしれません。とにかく、結婚してママとなった今では、もう庭先で跳ね回る彼らの姿を見ることはなくなってしまったけれど、いえ妖精なんてものが本当に存在することじたいすっかり忘れているのだけれど、でも家事や育児でへとへとになって深い眠りにおちた深夜、彼らはときどき夢の中に現れては、その小さな手で私の髪をつんつん引っぱってこう囁くのでした。

「ねえねえ、遊ぼうよ。昔みたいに、みんなで遊ぼ。鎮守の杜へ行ってかくれんぼしよう。公園の砂場でお城をつくって遊ぼうよ。教会の庭で摘んできたサルビアの花を、とうきび畑の案山子の頭に挿してやったらきっと可愛いよ。むかしはよくそうやって遊んだじゃない。今だって君、ホントは遊びたくってウズウズしてるんだろ。だからさあ、またみんなで一緒に遊ぼう。……それともあれ? もうボクたちのことなんか忘れちゃったってわけ?」

 そう問いかけられたとたん、私はいつも、慌ただしい日常に流されつい心のすみに追いやってしまったあの懐かしい記憶をよみがえらせ、胸を熱くするのです。そう、すっかり忘れていたようでいて、じつは心のどこかでちゃんと覚えていたのでした。少女時代、いつも当たり前のように見て、聞いて、触れていた、あの甘ったるいような非現実感をともなう無垢で、そして驚きにみちた世界のことを。

 ――妖精たちは、私の無意識のなかに今もしっかりと息づいていたのです。

 夢の世界で、私はたちまち少女の姿に戻り、彼らに向かって微笑みかけるのでした。

「嬉しいなあ、また君たちと会えたよ」

 すると妖精たちも嬉しそう羽をぱたぱたさせて、私を取り囲みます。

「なに言ってるんだよ、君が気づいてないだけで、僕らはつねに君のそばにいるんだから」

「それ本当?」

「ああ、本当さ」

 その言葉に、私はまた胸を熱くするのです。

 私といつも一緒に遊んでいた妖精は、三人いました。いやこの場合、三匹と言ったほうが正しいのでしょうか……?

 私の目の前で腕組みしている生意気な子がマーク、すみれ色の髪にいつもターバンを巻きつけています。なにか嬉しいことがあると、その笑顔につられるみたいに背中の羽がぱたぱたと動きます。ウスバカゲロウのように、やわらかくて透き通った羽です。

 その隣でもじもじしている、ちょっぴり太った子はイルル。サワークリームみたいな白い顔にはそばかすが浮いています。彼の羽はマークのものとは違い、オニヤンマのように大きくて立派です。その羽が太陽の光を受けると、まるでステンドグラスのように七色に輝くのです。

 そして二人の頭上にふんわり浮かんだまま頬杖ついてる女の子はシャニス。ローラーカナリアみたいなオレンジ色の巻き髪を肩にたらし、ひまわりの花びらでつくったフリルつきのワンピースを着ています。彼女の羽はアゲハチョウのように優雅で、そしていつもそのゴージャスな羽をゆっくりはばたかせては、金色の鱗粉をきらきら舞い上がらせているのです。

 夢の中で彼らに会うとき、私はいつも子どものころ暮らしていた田舎町の一軒家に来ています。そこには広い庭があって、季節の草花が生い茂っています。垣根の向こうはトウモロコシ畑でした。どこまでもつづく緑とその合間に見え隠れする花穂が視界一杯に広がって私の目をうばいます。懐かしい景色に見とれていると、妖精たちはすぐにそんな私をうながして素敵な場所へと案内してくれるのでした。

 そこへ行くには、まず自分の背たけよりも高いトウモロコシ畑の迷路を抜けなければなりません。それからアシの生いしげる草原を突っ切り、オタマジャクシの小川を飛びこえて、その先にあるブナの林へと分け入るのです。湿った土を踏みしめ、どこまでもつづく木の下闇を抜けるとやがて視界が開け、私たちしか知らない秘密の花園がその姿を現します。一面にラズベリーと野バラが咲きみだれ、瑠璃色の糸とんぼが頭の上をかすめる素敵な場所です。そこで私と妖精たちは、いつも日が傾くまで遊ぶのでした。

 おにごっこ、かくれんぼ、だるまさんがころんだ……。ときどきマークとシャニスが喧嘩して、それを私とイルルで仲裁します。楽しくて、思わず時の経つのを忘れてしまいます。でも、どんなに楽しくても、やがて家に帰る時間はやってきます。そのとたん、私はいつの間にか大人の姿に戻っていて、申しわけなさそうに彼らに言うのです。

「ごめんね、私もうお家に帰らなくっちゃ……今日は楽しかったよ」

 すると妖精たちは、その可愛らしい手で私の服に取り付いて、口々にうったえます。

「やだよ、もっと遊ぼうよ。こっちの世界で僕らと一緒に暮らそう。そうすればいつまでも遊べるじゃないか」

「そうはいかないわ」

「どうして?」

「だって……、私はもう大人だから」

 私がうつむいてそう言うと、妖精たちは朝露のように透きとおった涙をこぼして泣くのです。

「どうして、どうして僕たちのことをおいて、一人で大人になっちゃったの?」

 私も一緒に泣いてしまいます。

「ごめんね」

「ねえ、どうして?」

「ごめんね」

「どうしてなの?」

「ほんとに、ごめんね……」

 そこで、いつも夢から覚めるのです。

 目覚めると同時に、私はいつも夢を見ていたことさえ忘れています。もちろん妖精たちのことも……。でもそっと頬にふれてみると涙で濡れているし、とても切ない余韻が胸のなかで渦巻いているので不思議でたまりません。自分はなぜ泣いていたのだろう? その理由が分からなくて、私はさらに悲しい気持ちになるのです。なにか大切なものを……、決してなくしてはいけないものをどこかへ置き忘れてきてしまったような……。

 しかしそんな思いにかられながらも、私は追い立てられるようにまた慌ただしい日常の中へと飲み込まれてゆくのでした。


 現実の世界ではすっかり妖精たちの存在など忘れている私ですが、でもけっして寂しくなんかありません。

 ――なぜなら妖精のかわりに天使がいるからです。

 天使は、今も絨毯の上で大の字になって幸せそうに寝息をたてています。

 今年で五歳になる優希です。

 まるで女の子のように可愛い顔をしていますが、じつは元気いっぱいの男の子です。柔らかい髪の毛が日の光をあびると金色に輝いて、まるで天使の輪のようになるのです。

 私は、この愛らしい天使にいつも癒されています。

 今日も、家事のあいまにクッキーをかじりながら一休みしていると、いつのまにか彼がやってきて私の背中をわしわしと上りはじめます。そして小さな手で後ろから首に抱きついて、肩の上にあごをちょんと乗せるのです。

「ねえママ、られんたいんってなあに?」

 優希が訊きます。

「え?」

 ちょうどテレビからは、バレンタインデーに向けたチョコレートギフトのコマーシャルが流れていました。私は、ついくすりと笑ってしまいます。

「それはね、大好きな人にチョコレートをあげる日よ」

 すると優希は目を丸くして「おお」と歓声をあげます。

「だいすきなひと?」

「そうよ、大好きな人に、好きです、って伝えながらあげるの」

 さすがに恋人とは言えません。だって優希はまだほんの子どもなのですから。でも彼は「うん」と力強くうなずくと私の背から飛び降り、ぱたたたっと自分の部屋のほうへ駆けてゆきました。私はまた笑ってしまいます。なぜって、優希はきっとなにか勘違いしているに違いないのです。母親である私にはちゃんと分ります。そしてちょっぴり期待もしています。あの子はいつも、元気いっぱいに勘違いしては私を楽しませてくれるのです。


 優希が高熱を出したのは、翌朝のことでした――。

 いつもはお医者さんに注射をうたれると大声で泣きだす子が、まるでお人形のようにぐったりしているので私は心配でたまりませんでした。病院から戻り、処方されたお薬を飲ませるといったん熱はひきましたが、夜になってまた四十度近い熱を出し、夫と二人であわてて救急車を呼びました。すぐに優希は入院することとなり、翌日たいせつな仕事があるという夫を家に帰し、私は着のみ着のままで病院へ泊まり込むことになりました。

 お医者さんは、いまひとつ原因がはっきりしないと首をかしげています。私はもう心細くってつい泣き出しそうになるのをぐっとこらえていました。やがて一通りの検査を終え、小児用病棟の個室へ移ってからも私は心配で心配で、もう胸が張り裂けそうな思いでした。優希の眠るベッドの横で冷たいパイプ椅子に腰掛けながら、私はうなだれていました。涙がぽろぽろと頬を伝うのを止められません。

 昨日はあんなに元気に駆け回っていたのに……。

 小さな小さな腕に点滴の針をさし、ときおり苦しそうに寝息をたてている我が子のひたいに何度も手をかざしながら、私は知っているかぎりの神様に祈りました。

 ――どうか優希を……私の天使をお助けください。

 やがて夜は更けてゆき、私は知らず知らずのうちに、こくり、こくりと眠り込んでいたのでした。



 次話へつづく。


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