怪異の居住区
始めに返って来たのは、表情だった。
悪意や敵意の一切ない、純然たる困惑の表情。
二郷と五辻レイの眼前で、腐りかけの椅子に座る笹島三那は、本当に──本当に、意味が分からないといった様子で、眉を顰め、次いで口を開いた。
「……東雲を、返せ? あー……間宮ー? その、お前、一体何を言ってるんだ?」
そこには、嘘などまるで見えなかった。
敵意など、まるで見い出せなかった。
それ程までに笹島三那は、出会った時と同じように、穏やかで当たり前の──人間の顔をしていた。
「よく分からないがー……ひょっとして、東雲が行方不明なのか? だとしたら、それは一大事じゃないか。微力だが、私も力を貸すぞ。間宮も、東雲も、五辻も、皆私の大切な生徒だからなー」
教師として生徒を守ろうという表情も、そこに混じった恐怖を押し殺すような声の震えでさえも、二郷が何度も見て来た笹島三那という教師のもので、だからこそ間宮二郷は、三那を疑う事を、心の片隅では拒絶したくなってしまう。
けれど……もはや、夢は覚めている。
二郷の思考に干渉してきた異形の蟲は、もう居ない。
だからこそ、眼前に立つ笹島三那に。異常の蔓延る部屋の中で、しかし何事も無いかのように振舞う彼女に対して、間宮二郷は言う。
言葉が通じるからこそ。化物に対して湧き上がる恐怖を、理性で辛うじて制御しながら、本当に……本当に、哀しそうに言う。
「なあ、笹島先生。【ツリクイ】を倒したって勘違いした俺達が、四乃ちゃん家に集まった時によぉ……アンタは確かに言ってたよな」
一度目を瞑ってから、次いで、覚悟を固めて。
「『私も五辻と同じようにそう思ってな』……って。んでもって、さっきもレイちゃんの事を大切な生徒だって言ったよな。 けどよ、そいつは、おかしいんだ。なんで、笹島先生は」
「────何故貴女は、五辻レイという存在を。僕の事を忘れていないんでしょうか」
二郷の言葉を遮り、続きの言葉を口にしたのは、五辻レイだった。
眼を見開き少し驚いた様子を見せる二郷に対して、五辻レイは少し微笑を深くしながら、二郷の考えを辿る事を楽しむかのように続ける。
「笹島先生。僕は、どの人間の記憶にも残らない、この世界の異物なんですよ」
「記憶に、残らない? 異物……? 五辻。お前一体、何を……」
「執拗に調査を行っていたようですが、僕は会話する『人間』には、その都度僕が知人であるという記憶を植え付けていたので、気が付かなかったでしょう?」
五辻レイは、その手に一部が欠けた白い笑みが描かれた仮面を出現させながら。二郷とは異なり、さして興味の無さそうな視線を……光の無い沼の底のような瞳を、笹島三那へと向ける。
「僕は化物です。世界に存在を否定されている、誰の記憶にも残れない化物です。そんな僕の事を記憶出来るのは──命を分けた二郷君と、その二郷君の為に世界の与える忘却にすら抗った東雲さん。それから」
その言葉を聞いて固まった三那に対し、五辻レイは更に言葉を重ねる。
「人ではないナニカくらいのものなんです」
「待て、違うぞ……私は、人間だ。お前達は、何か勘違いをしてる。落ち着くんだ」
五辻レイの言葉を受けた三那は、その顔に焦燥を浮かべつつ、立ち上がろうとした。
この期に及んで、全く状況を理解していないような、弁明を試みる為の態度。
「……動くんじゃねぇ!」
けれどその動きは、二郷が水晶を朽ちかけた机に投げつけた事で制止される。
机が砕けた音と衝撃に、反射的に動きを止める三那。
そして二郷は、三那が再度動き出す前に、室内の奥──汚れ、染み塗れの『襖』の前へと一息に跳んだ。
そこは……その襖は、以前に間宮二郷がこの部屋を訪れた際、入らないように言われた部屋へと続く境界。
笹島三那が介護しているという母親が。
笹島三那と共に、事故で死んだ筈の母親が居るという部屋。
「や、やめろ間宮! 何が目的かは知らんが、母には手を出さないでくれ! 私が何かしたというなら、謝るから! 頼むっ!!」
二郷が其処に押し入ろうとしている事に気付き、慌てた様子で手を伸ばそうとして、躓き転ぶ三那。
その三那に、視線を向けたい気持ちを意志の力で押し殺し、二郷は背中越しに言う。
「笹島先生──俺は、妹さんからも、三塚三津子先生から聞いてんだ。あんたとお袋さんは、四年前に事故で亡くなってるって。なら、ここに居るのは、お袋さんなんかじゃねぇ」
「え……? 三津子……みっちゃんは、事故で」
そうして、二郷の発言に呆然とした三那の目の前で。
間宮二郷は、恐怖に震えながら……しかし、それでも自身の内頬を噛みきり、その痛みで恐怖を麻痺させて、勢いよくその襖を──開いた。
────────
狭い部屋だった。
其処を覗いた時にまず、鼻腔を腐肉の臭いが通り抜けた。
次いで視界に映るのは、黄土色の壁紙。
……否。
それは、壁紙などではない。粘膜を纏い、鳴動している、肉であった。
床も、天井も、壁も。
その部屋は、巨大なナメクジや蝸牛の表皮のような気味の悪い肉で構成されていたのである。
そして、その部屋の中央には、古びたベッドが二つ置かれている。
一つのベッドには、黒ずんだ何かが寝かされている。
そして、もう一つのベッドには────
「……」
「っ、四乃ちゃん……!?」
東雲四乃が、寝かされていた。
二郷は足元の肉を踏みしめ、粘液を気にする事も無く、四乃の元へと慌てて駆け寄る。
だが……。
「っ!? ……は? そ、んな……」
二郷は、そのベッドの前で、情けない絶望の声をあげる事となった。
何故ならば、そこに寝かされていた東雲四乃。死蝋の如く青白い肌の色をした彼女には……体が無かったからだ。
首から下が、無数の蛞蝓と蝸牛に食い荒らされ、喰い残しの骨しか残っていなかったからである。
その頭部ですらも、今尚、首の部分から蟲達に貪られ続けており、唯一、ベッドに残っている乾いた茶色い血液の跡だけが、かつて其処に生きた人間の肉が存在していた事を示している。
四乃の頭部に残った左の瞳は、もはや何も映しておらず、ガラス玉のように呆然と虚空を見上げており、そして、その右眼の部分は空洞と化し……涙の様な血の痕が、頬に一筋だけ残っていた。
そうだ。ベッドの上で少女は、東雲四乃は────死んでいた。
「あ……」
二郷が、膝から崩れ落ちる。
(……俺はどうして、間に合わなかった。四乃ちゃん、助けられなかった。俺のせいだ。俺なんて死んでしまえ。四乃ちゃん、すまねぇ。許して、なんで、どうして、嫌だ、助けてくれ主人公。嫌だ、嫌だ、認めたくない、やっぱり俺じゃ駄目なんだ────)
絶望。
自身が呑気に眠らされていた間に、大切な少女が殺されてしまっていた。
命を掛けて守ると、そう誓った少女が、怪異と言う闇に呑まれ、消えてしまった。
その現実に対して、二郷の胸中に強烈な後悔と哀しみが湧き上がる。
井戸の底よりも尚暗く、海の底よりも尚深い、底なしの泥の様な暗い感情に、精神が沈んでいくのを感じる。
「なあ、なあ。嘘だよな……?」
四乃の首に纏わり付くナメクジと蝸牛を手で払い、頭部を震える腕で掻き抱く二郷。
その頭部は余りに冷たく、余りに軽くなってしまっている。
そうしてそのまま。東雲四乃という救うべき少女の死体を胸に抱きながら、彼女を助ける事が出来なかった少年の心は、絶望の果てに────
────ガリリ。
何か、固いものをかみ砕く音がした。
次いで、何かを嚥下する音。
「……は」
その音の直後。先程まで膝を付いていた二郷。
その二郷が、ゆっくりと立ち上がる。
そして、その顔に浮かんでいるのは────引き攣った笑み。
「……は、はは……ははは……ハッハーっ!!!!」
立ち上がった二郷は、部屋全体に響き渡るような、狂ったような笑い声をあげると、直後に、その腕に抱き締めていたものを──床に叩き落とした。
そうして、其れをそのまま踏み砕いたのである。
先程まで東雲四乃の頭に見えていた、人の頭蓋骨程の大きさの、異形の蝸牛の殻を。
「残念だったなぁ────クソボケの【ツリクイ】君よぉ!? 何度も何度も何度も何度も夢だの幻覚だの、同じ手に嵌まってやるもんかよ、このウンコ野郎が!! テメェの手の内は『さかさネジ』原作本と、ウチの優秀な同居人が解析済みなんだよ、クソッタレがぁ!! おええええぇっ!!!」
そう言って、二郷は己の喉に指を突っ込むと、かみ砕き飲み込んだ、薄く光る岩塩とともに──小さな異形のナメクジを吐き出した。
「皮膚からも寄生可能とは、実に厄介な性質ですね。しかし、僕が六時間掛かった相手を一瞬で殺しきるとは……本当にいつ見ても、恐ろしい代物ですね。色々な意味で」
そんな二郷に声をかけたのは、五辻レイ。
彼女はいつの間にか二郷の斜め後ろに立っており、二郷の背中を労わるように摩っている。
……そう。間宮二郷は既に、【ツリクイ】が寄生と幻覚を用いる化物である事を、経験して知っているのだ。であれば────誰よりも化物を恐れる愚か者が、その対策を取らない訳がない。
決めていたのだ。もしも、二郷自身にとって都合の良すぎる事、或いは都合の悪すぎる事が起きた時は、その手で魔除けの塩を作り出し、噛み砕いて飲み込む事を。
間宮二郷の塩は、この世ならざる者達にとっては、劇薬だ。ましてそれが、ナメクジや蝸牛を模した化物であれば、効果は喜劇の様に劇的に現れる。
そして、口端から『塩』を使った反動で流れ出てきた血液を袖で拭いつつ、二郷が視線を向け直したのは……並んでいた内の、もう一つのベッド。
「────母さん! お母さん! 起きるんだ! 逃げよう! 大丈夫だ、私がちゃんと助けるから!!」
そのベッドの横には、遅れて部屋に駆け込んできたのであろう、笹島三那の姿があった。
必死な様子で……先程までの二郷には、黒ずんだ何かとしか認識出来なかった物体。無数の蛞蝓が人の形を成したそれを、懸命に背負おうとしていた。
「……っ、笹島先生!?」
「ふむ。どういう事でしょうか……笹島先生は【ツリクイ】の本体であると推測していましたが、しかし、あれはあまりにも……」
余りの気味の悪さに、それでもとっさに心配の声をかけてしまう二郷と、三那の言動に首を傾げる五辻レイ。
「大丈夫だから、私がなんとかするからな……大丈夫、大丈夫だ、大丈……」
だが、疑問が解消する前に。彼らの目の前で、笹島三那は背負ったナメクジと蝸牛の大群に飲み込まれ────後には、一回り大きくなった、異形の人型の何かが残った。
その人型は、床へと視線と腕を落としたまま、しかし微動だにしない。
「どうしますか二郷君。あの不快害虫の塊に、攻撃でもしてみますか?」
「っ……馬鹿言うなよレイちゃん。優先順位が違ぇ。俺達は四乃ちゃんを助けに来たんだぜ。攻撃して何が起きるかわかんねぇ以上、駆除すンなら、まずは四乃ちゃんの安全を確保してからだ。ここにいねぇとしても、この団地のどっかには必ず居る筈だから、虱潰しに……例え死んでも見つけ出してやる」
未練を断ち切るように、沈黙を続ける蟲の集合体から目を背け、五辻レイを荷物のように肩に背負って駆け出す二郷。
そんな二郷に、やる気の無い猫のようにおとなしく背負われた五辻レイは、蟲の塊から視線を逸らさぬままに、ふと思い浮かんだ事を二郷に尋ねる。
「ところで、二郷君。先程からの貴方の言動は、まるで、東雲さんがまだ無事である事を確信しているようでしたが……それは、何か理屈があっての事なのでしょうか」
「は──主人公なら、ここで『勘だ』とかカッコよく答えんだろうけどよ。生憎、モブの俺には種と仕掛けがあってな」
二郷が思い返すのは、嘗て四乃に二郷が渡したお守り。
『次原和梨』の【犬神】をも易々と退けた、超常の防御。
「四乃ちゃんのお守りには、俺がこっそり『魔除けの塩』を詰めてんだよ。そんじょそこらのバケモノが、直ぐに容易く害したりなんざ、出来るもんか」
「……」
何の事はないと言った様子で、己の寿命を削る『塩』をまた使っていた事を告げた二郷。
そんな彼を見る五辻レイの目が、珍しくすっと細められた。
「先程の件といい、二郷君は自分を──いえ、これは後にしましょう」
「……あ? 何だよレイちゃん?」
「流石の僕も、後で少し苦言を呈したいという事です。無論、無事に帰る事が出来たら、ですが……ほら、二郷君。住人の皆様のお出ましですよ」
「な────う、ひいいいっ!?」
再び入口の金属扉を蹴破るようにして、団地の廊下へと出た二郷。
そんな彼の眼前に映るのは、団地の他の部屋のドアから出て来た、人間達。
男に女。大人に子供。老人に至るまで。
無数の人間達が、その口から異形の蟲を覗かせながら、二郷達の方を眺めている。
そして、そこには……二郷のクラスメイトである者達の姿さえもあった。
「成程……冷静に考えてみれば、笹島先生が【ツリクイ】の元締に近い存在であったとするならば、寄生させた【ツリクイ】達を手の届かない範囲に置く理由はありませんね。この団地自体が、怪異の居住区と化していたのであれば……二郷君がおっしゃっていた、人の気配が無かった理由もはっきりします。さて、彼らを打ち倒して東雲さんを探すのは、難度が高そうですが、どうします────」
「くたばりっ! やがれ!! どぅおらああああああああっ!!!!!」
五辻レイが問いを終える前に、二郷は既に答えを出していた。
一番近くに居た【ツリクイ】に取り憑かれている男の顎を、ほぼ垂直に蹴り上げ、おまけとばかりにその鳩尾に肘鉄を打ち込んでいたのである。
そうして、血走った目のまま、二郷は五辻レイの方を向いて言う。
「答えは『全員、打ち倒して泣かして、四乃ちゃんを見つけ出す』だ! 俺は前にも言ったぜ!? 人に成り代わったなら、肉体言語で会話する! 裏切ったからには地獄を見せるってなあ!!」
取り憑いた【ツリクイ】達の誤算は、知能と引き換えに人間の肉体を手に入れて『しまった』事。
純粋な化物の状態であれば、怯え逃げながらの探索になったであろうが、人間の肉体があるのであれば、話は別だ。
間宮二郷という少年にとっては、人の体を乗っ取ったその相手は、左程怖いものではなくなるのである。
何故ならば
「人間なら、殴れるからなぁ!!!!」
回し蹴りが、二人目の【ツリクイ】の横腹を蹴り、吹き飛ばした。
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