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『次原和梨』



 CASE Ⅰ 『次原和梨』の場合



 次原和梨という少女は、今、人生で最も幸福な時間を過ごしていた。


「へぇ、みさっち彼氏出来たんだー!」

「う、うん。カズ君から告白されてね……ずっとただの幼馴染と思ってたんだけど、嬉しくて」


 放課後。赤の絵具を落としたような空の下での帰路。

 コンビニのホットスナックを手に、クラスメイトと並んで歩き、他愛無い雑談をしながら笑顔で言葉を交わす。


「いいなぁ、羨ましいなぁ。みさっちみたいに地味顔でも、生まれが良ければイケメン彼氏出来るんだもんねー?」

「ええ……その言い方は、和梨ちゃんちょっとひどいよー」

「酷くないしー。私、正しい事言ってるじゃん? そうっしょ?」

「え……? あ、うん? そう……かな?」


 それは、次原和梨が考える平凡な日常の風景。どこにでもある、何気ない平穏な時間。

 そして、この当たり前の時間こそが、和梨にとって何より掛け替え無い、大切なものであった。

『きっと、世間には私よりも幸福な人間は沢山居る。だけど、この程度の幸福で満足出来る私は、なんて謙虚なのだろう』

 和梨は、現状について心の底からそう思っているのである。


「そうだ! そのカズ君さ、今度私に紹介してよ! いい人だったら私の彼氏にしてあげる!」

「えっ? え? あの、和梨ちゃん? 何、言ってるの? そんなの、嫌だよ……?」

「……はあ? 私が欲しいって言ってんだよ? それを嫌がるとか酷くない? 私間違った事言ってる? ねぇ?」

「あ、え……その……うん。ごめんね? 私が悪かったよ。連れて……くるね?」

「やったー! みさっち大好きー!」


 そうして、どこか呆けた様子のクラスメイトを、ぬいぐるみにするように抱き締める和梨。

 理解ある友達。欲しいだけ手に入るブランド品。食べたいだけ食べられる美食。買いたいだけ買えるメイク道具。飽きるほど着替えられる洋服。

 今の和梨は、他の人が当たり前に持っている筈のものを、全て手に出来ている。

 他の人と同じように充実している。たったこれだけの事で満足できる。


 だから、空腹に耐えられずに、店から食べ物を盗んだのが店員に見つかって、両親に血を吐く程に執拗に殴られる事も。

 替えの服が無くて、資源ごみの日にゴミ捨て場を漁る事も。

 臭いを誤魔化す為に、試供品の香水を盗む事も。

 ノートが買えずに、クラスメイトの鞄から盗み出す事も。

 もう、そんな事をする必要は無い。

 どんな望みも、どんな願いも叶う。

 交番に迎えにやって来た担任教師の笹島に、滾々と説教される事すらも──もう無いのだ。


(ああ。幸福だ。幸福だ。幸福だ。幸福だ。幸福だ。私は、なんて清貧で幸福なんだろう)


 言い聞かせるようにして自身の幸福を肯定し、口端を釣り上げた笑みを浮かべる和梨。

 彼女の考えの中で、彼女はまさしく自身の人生の絶頂に居たのである。


 そしてだからこそ……『其の存在』が気になった。

 暫く歩いた後。分かれ道で級友の少女を手で追い払うようにして帰らせた後。彼女は自宅の古めかしいアパートの前まで辿り着いて──不意に、その足を止める。


「……あのさぁ、何か用? 昨日も付いて来てたよね?」


 言葉と共に、和梨は背後へと振り向く。

 すると、和梨の居る場所から十メートル程離れた位置に……逆光を背負い、影を落としている人影が在った。

 腰まで届く程の長さの、艶やかな絹のような黒髪。透き通るような白い肌。

 未だ夕陽の中にあるというのに、見る者に夜闇を思わせる、人形の様に整った容姿の少女。

 右眼を眼帯で覆った少女──東雲四乃が、電柱の影に立って居た。


「……」

「いや、今更ちょっと引っ込んでも丸見えなんですけど」

「……奇遇」

「そんな電柱の影に隠れる姿勢での奇遇とか無いから」


 和梨は、四乃の態度に一度舌打ちをすると、電柱の方へと靴音を鳴らして近付いて行き……そうして、彼女の前に堂々と立った。

 比較的高身長である和梨と四乃では、見下ろす程の身長差があるが、けれどその高い位置からの視線を受けても、四乃に怯えた様子は一切ない。在るのは無機質な無表情。其処には敵対や反抗の色などないというのに、それがどういう訳か和梨を苛立たせる。


「あんた確か、転校生の東雲……とか言ったっけ? 五辻とかいう子と一緒に入学してきた。私に何の用? つか、用があるにしても二日間もストーキングしてくるとかマジでキモイんですけど?」


 和梨は、間宮二郷という頭のおかしい生徒の次に入学してきた生徒として、東雲四乃の事は記憶していた。そしてそれと同時に……四乃と会話をした事すら無いにも関わらず、一目見て、疎ましい存在だとも思っていた。


 ────恵まれた容姿に、丁寧に手入れされた衣服や装飾品。


 恐らく、こいつは生まれつき、全部を手に入れてきたのだろう。

 自分が欲しくて欲しくて欲しくて……どうしても欲しくて、必死に手を伸ばしても手に入らなかった。そういうモノ全部を、ただ生まれが良く見た目がいいというだけで、何もしなくても手に入れて生きて来たのだろう。

 そんな女が、理由は知らないが自分を付け回している。面白半分に、謙虚な自分の小さな幸福にケチを付けようとしている……不愉快極まりない。

 そう思った和梨は、敵意を隠す事もなく、再度舌打ちをして四乃を睨みつける。


「……」

「あのさぁ。黙ってないで何か言いなよ。何? 誰かに頼まれたの? 笹島の奴が余計な世話でも焼いた?」


 苛立ちと威圧と敵意を込めた和梨の声。けれど、その問いに対する返答はない。

 代わりに示されたのは、行動。伸ばされたのは、四乃の右手。

 白魚の様な指先が和梨の頬に触れ、その冷たさに、思わず和梨が体を竦めた瞬間。四乃はその口を小さく開き、呟いた。


「……獣臭い」

「は?」


 突然の罵倒。一瞬何を言われたか理解出来なかった和梨だが、一拍を置いてその内容を脳が理解した瞬間──激高して四乃を突き飛ばした。


「は!? あ? ふざけんじゃねぇよテメェ! いきなり何でそんな事言うわけ!? 私が臭い!? 獣臭い!? はぁ!?」

「……」


 突き飛ばされた勢いのまま、電柱に背中を打ち付け、地面に倒れ込む四乃。

 けれど、痛みは感じているだろうに、四乃は表情一つ変えず、悲鳴の一つも上げない。

 むしろ、顔を上げた四乃が真っすぐに向ける、夜闇の様な瞳。それに気圧されたのは、突き飛ばした和梨の方であった。


「っ……ほんとマジで何なの!? いきなり現れて! 変な事言って! 私の悪口言って! キモイキモイキモイ! 気味が悪い!」


 言い表しようのない焦燥感。

 まともに会話すら交わしていないというのに、四乃のその瞳に。零れ出る僅かな言葉に、全てを見通されているような悪寒がする。

 だからこそ、和梨の思考に浮かんだのは……自身の『秘密』がバレているのではないかという、あり得ない筈の可能性。

 どうするべきか。『友達』にしてしまうべきか。それとも両親のような有様にしてしまうべきか。

 様々な選択肢が、次から次へと脳裏に浮かぶ。だが、そんな風に思考する和梨を前にして、ゆらりと立ち上がると、四乃は相変わらず抑揚のない声で言葉を紡ぐ。


「……昨日と今日、観察して判った。貴女は【ツリクイ】じゃない」

「は? つり……何? 一体、何訳わかんない事を……」

「……だけど、人じゃない力を持っている。他人の意思を捻じ曲げて、店頭から商品を盗んでも指摘されずに……酷い目に遭わせる事も出来る。多分、そんな力」

「っ!? な、なんで気付けて」


 確信を持ってそう告げた四乃は、和梨の頭から足先まで、ゆっくりと視線を動かしていく。

 全身に纏う、学生の身分には不釣り合いに高価なブランドの装飾品の数々。アパートの前に置かれた、会計を終えていない筈のコンビニの商品が入った袋。

 そして……これだけ騒いでも、一度もアパートのドアから出てこない、其処に居る筈の和梨の両親。


「……願望を叶えるもの。メフィストフェレス。ランプの精。おんら石。形代様。稲荷被り。聖杯。虚ろ宮。影男様。エンジェル様。首酒。猿の手」


 四乃が呟く無数の単語は、その全てが怪異の、悪魔の、妖怪の、化物の、呪物の名前。そうして最後に、一拍だけ置いて口に出した名前は……


「……【犬神】?」


 直後。和梨の鞄を内側から食い破り飛び出した『乾いた犬の生首』が、四乃の生白い喉笛へと、その牙を突き立て────


 そして、同時に。東雲四乃が懐に潜ませていた、お守りが。間宮二郷に再会したあの日から、ずっと肌身離さず持っていたお守りが。その中に入っていた白い結晶が、薄く光った。



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