不運な事故の一つ
カチリ、と。三那が玄関脇に在る古めかしい黒色のスイッチを上げると、数度の点滅の後に、天井に吊るされた蛍光灯が、淡いオレンジ色の光で室内を照らした。
「さあさあ、上がってくれー」
「お、おう」
脱いだ茶色の革靴を綺麗に並べ直してから、三那は、狭い玄関を抜けた先に在るリビングへと二郷を誘う。
それに従い、おっかなびっくりといった様子で部屋に上がり込む二郷。
リビング中央に置かれた、背の低い四角形の机。その横に置かれた座布団に座ると、ついつい落ち着きなく周囲を見渡してしまう。
(なんつーか、こう……色々と古ぃな)
黄色く色褪せた壁紙。卓上の置いてあるケトルには花柄の模様がプリントされており、壁際に置かれた桐箪笥には見たことも無いキャラクターのシールが貼られている。挙句の果てに、置かれているのは二郷ですら実物を余り見た覚えのない、ダイヤル式の黒電話だ。
昭和レトロ、と言えば聞こえが良いかもしれない。だが、どちらかと言えば……まるで、昭和で時が止まってしまったかのような。そんなイメージを与える室内。
そして、何よりも二郷が違和感を覚えるのは──リビングと、その隣に在るであろう部屋を仕切っている襖の存在。
其処から、僅かに空気に乗って漂ってくるのは、まるで野生の動物のように酸味を帯びた、すえた臭いで──
「麦茶で良かったかー?」
「ぬおひぇあ!?」
観察に注力していた二郷の思考が、頬に当てられた冷えたガラスの感触により中断される。珍妙な悲鳴をあげつつ振り返ると、そこには氷入りのグラスを手にした三那の姿。
「び、びびらせんな……ですよ」
「はははー。乙女の住居をじろじろと見てるからだぞー」
そう言うと三那は、麦茶のグラスを二つ机に置き、更にお茶請けの最中が入った皿を机の中央に置いてから、二郷の対面の位置へと腰かけた。
軽く頭を下げてからコップを受け取った二郷に対して、三那は、自身も麦茶を一口喉に流してから口を開く。
「隣の部屋についてはなー、あんまり気にしないでくれ。母が寝てるだけの部屋だからな」
「へ? いや、お袋さんって……」
「お。今、こんな狭いアパートで二人暮らししてるのか……なんて思っただろー?」
言い淀んだ言葉の先を言い立てられて、思わず申し訳なさそうに視線を逸らしてしまう二郷。そんな二郷の表情の判り易さに、小さく笑みを漏らした三那は、コップの中の麦茶に浮かんだ氷をカラカラと揺らしながら続ける。
「母は、四年前に交通事故に遭ってなー……ちょっと、介護が必要な状態なんだ。寝たきりで一人だと……色々と難しくてな。そんな訳でまあ、経済的に切り詰めざるを得ないから、こういう安い家賃の場所に住むしかないんだよ」
不意打ちの様に告げられた、重く冷たい現実。
ある意味では怪異や化物の存在などよりも、冷たく苦しいその襖の先の現況を、しかし何でもないとでも言うように語った三那。そんな三那に対して、掛ける事が出来る言葉が見当たらない二郷であったが……それでも、視線を戻して何とか振り絞るようにして、返事を返す。
「そいつぁ……すまねぇ、悪かった。事情を知らなかったとはいえ、不躾が過ぎた。笹島先生、アンタすげぇ頑張ってんだな……いや、頑張ってんですね」
「ははは。見掛けに寄らず真面目だなー、間宮。別に気にしなくていいぞー。そもそも、謝られるようなことでもないし、世の中にはありふれてる、不運な事故の一つだ。それを知らなかっただけで責める程に、私は子供じゃないさ。それに──」
座ったまま頭を深く下げた二郷に対して、一瞬驚きの表情を見せた三那であったが、直ぐにその表情を常の眠たげなものに戻して続ける。
「母の事故は、今回の『人攫い』の件とも、全く関係が無い話という訳でもないからなー。なにせ、母が事故に巻き込まれた時は、私と妹も一緒の車に乗っていて……そして、私がこの団地の外に居たような『化物』が視えるようになったのは、その事故で頭を怪我した後なんだから」
三那が明確に語った『視える』という言葉に、二郷は下げていた頭を上げて、三那の顔をまじまじと見てしまう。
「……やっぱり、笹島先生にも視えてんですね。化物共が」
「おー。気味が悪いよなー『アレ』。始めに見えた時は自分の頭がおかしくなったのかと思って、なんならその後もずっと疑ってきてたんだがな。こうして他に視える奴が居てくれて、本当に安心したぞー」
事故の悲壮さなどまるで感じさせず、あっけらかんとした様子で語りながら、机越しに二郷の肩をポンポンと叩く三那。そんな彼女と、常に化物への恐怖に苛まれている自身との余りの違いに、二郷は自身が『青年』であった頃に読んでいた、頼れる教師が主役のホラー漫画を思い出し、思わず頬を緩めかけた。
だが……三那の家にやってきた目的を思い出し、直ぐに表情を引き締めると、手に持ったコップの中身の麦茶を一息に飲み干してから口を開く。
「なら、話は早ぇか。早速で悪ぃんですが……笹島先生。問題を解決するために、お互いの知ってる事を話し合いましょう。まずは状況把握の為に、笹島先生からは今回の出来事はどう『視えて』んのかを……何が起きたのかを、俺にも教えてください」
「……っ」
二郷がかけたその言葉に、今度は表情を引き攣らせる三那。
一度、二度。口を開いては閉じる事を繰り返し、それでも言葉が出ないのは、二郷が自身と同様に視えると知って尚、この話を他人にする事に……話して否定される事に、潜在的なトラウマを刻まれてしまっているからであろう。
そうして、沈黙の中。室内に置かれた古めかしい壁掛け時計の長針が、三度程動いた後。
「むぐっ……ぷはぁ」
覚悟を決めるためなのか、机の上の最中の袋を開けて一口齧り。それを麦茶で流し込んでから、三那はようやく口を開いた。
「よし。それじゃあ、本題を話す為に必要だから聞くがー……間宮。今日転校してきた生徒の視点から見て、一年C組の雰囲気はどう映った? 悪い雰囲気だったかー?」
「あン? 雰囲気? ……いや、誰とも一言も喋っちゃいねぇですけど、あの三馬鹿不良に絡まれた時、何人かは助けようとしてくれてたみてぇだし、それなりに良い雰囲気だったんじゃねぇですか?」
「そうかー、そうだよな……けどな。実は、四月にクラスが編成された時、あのクラスの雰囲気は最悪に近いものだったんだ」
唐突に投げかけられた質問に首を傾げている二郷に対して、三那は過去の記憶を辿る為に目を瞑りつつ、言葉を続ける。
「近藤、鈴木、五所川原。あの三人も厄介な子達なんだが……他にも捻くれてる生徒達が沢山居てなー。授業中に携帯で話し出すわ、大音量で音楽流すわ、他校の生徒を校舎に入れようとするわ、パチンコをしてるのが見つかって補導されるわ……それはもう、大変だったんだよ。まあ、一言で言えば……学級崩壊だなー」
学級崩壊という単語と、自身が今朝見たクラスの様子。
二つのイメージの齟齬が大き過ぎる事で、具体的な光景が思い浮かばず、眉を顰める二郷であったが……それでも、三那に続きを促す為に口を開く事にした。
「想像は出来ねぇですけど……指導とかはしなかったんですか? そういう悪ガキ連中は、頭を斜め四十五度の角度から、何度もぶっ叩き続ければまともに戻りますよ?」
「ははは。バイオレンスだぞ、間宮ー。人の頭は昭和の家電じゃないからなー? 後、その教育方法は令和だと体罰で一発でクビと逮捕になるんだー」
「……つか、そもそもの問題として何で一クラスにそんな大量の不良がいるんすか? こういうのって、普通は均等に分散させるモンだろ?」
そんな二郷の意見に対して、三那は困ったような笑みを浮かべながら答える。
「あー……私、昔から職員室では仲のいい同僚もいなくて孤立気味だったからなー……面倒ごとを、多数決で押し付けられがちなんだ」
「お、おう……」
遠い目をして三那が語る、ある意味シンプルな理由に、とっさに返す言葉の見つからなかった二郷。そんな二郷が困っている様子を尻目に、三那は続ける。
「まあ、それでもなー。私も教師だから、何度か直接面談をしたりして、その子達が抱えてる問題もポツポツと判り始めてたんだ。あの子達も、少しづつ話を聞いてくれるようになって……そんな矢先。五月の初め頃の事だったよ── 一人目の子が、消えたのは」
コップを握っている三那の手が小さく震え、残っている麦茶の水面が波立つ。
『先生! ありがとう! ありがとう! ありがとう! あはは! こんにちはこんにちはこんにちはおはようございます! おげんきですか! 聞いてください! 誰か助けて! 火事です! あはは! 犯人はこっちに逃げました! 妊婦さんがいます! あはは! 芸能人がいるよ! ちょっとデートしませんか! 清き一票を宜しくお願いします! 焼き芋だよ! あはは! みんな注目! その場所なら知ってますよ! あはははははは!!』
「……授業中になー、問題児の一人だった女子生徒が、急に立ち上がったかと思おうと、何の前触れもなくそう叫び出したんだ。本当に突然の事で、私も訳がわからなかったよ。それで、その女子生徒は、ひとしきり叫び終えると、半笑いの顔で……そのまま急に走り出して、学校から出て行ってしまったんだ」
「……意味の繋がらねぇ、呼び込むような言葉か……そんで、先生はどうしたんです?」
その情景を思い出している三那の額には、冷や汗が浮かんでいるが、それでも努めて冷静であろうとしながら二郷の問いに答える。
「当然、走って追いかけたさ……けど、ダメだった。思い当たる場所は全部当たっても、その子は見つからなかった。そうして、一旦すごすごと教室に戻ってなー、自習をするように伝えてた生徒達に、女生徒から何か聞いてないかって尋ねたら……何て言われたと思う? 『──誰ですか、その子?』だってさ」
「記憶、改竄……」
話を聞いている二郷も、顔面が蒼白になっている。伝聞だから耐えられているものの、恐らく、もしも二郷が実際にその場にいれば、悲鳴を上げていた事だろう。
そんな二郷の言葉に頷きながら、三那は続ける。
「そうだ。誰も、誰一人覚えてなかったんだ。その子の顔も名前も、思い出も……何もかも。生徒達全員に聞いても、職員室の他の先生に聞いても、『そんな子は知らない』って答えしか返ってこなかった。みんなして、私の事をからかってるのかと思ったぞ。本当に……むしろ、そうであってくれと何度願ったか」
そこで、三那はもう一度コップの中の麦茶を口に含み、喉へと流す。
そして、一瞬だけ言葉を躊躇ったような様子を見せてから……再度口を開く。
「でもなー。本当に怖かったのはこの後だったんだ。その子は確かに居なくなったっていうのにな────クラスの人数が、減ってなかったんだよ」
「減ってねぇってのは……?」
「言葉の通りだ……確かに女子生徒は学校に来ていなくて、だからクラスの人数は一人減ってないといけないのにな──二十七人。入学時と同じ人数の生徒が、ちゃんと揃ってるんだ。顔も名前の記録も、一緒に過ごした時間の記憶も在る生徒達が。つまりな……」
三那は机越しに、まるで自身の手の震えを止めたいとでも言うように、二郷の両肩をしっかりと掴むと、まるで縋るように。信じてくれというようにして二郷の両眼を見ながら言う。
「一人減って、一人増えてたんだ。名前も顔も知ってる、生徒の顔をした『何か』が」
その言葉。二郷の両肩を握る手。その力の強さと震えから伝わってくるのは、純粋な恐怖。
「勿論、その『何か』を見つけ出そうともした……生徒達全員。職員室の先生達全員に、知らない生徒が混じってないか聞いて回った。保護者にも一人ひとり連絡を取って、実在する人物かどうか確かめて……でも無駄だった。全員、確かに存在する生徒だった。残ったのは、頭がおかしい教師っていうレッテルだけで……そ、そしてな、そして、それで終わりじゃなかったんだ。そ、その後──」
「……同じような出来事が、更に三回も続いた。そうなんだろ?」
いよいよ手が震え、呼吸も荒くなってきた三那。それでも、何とか必死に言葉を続けようとしていたのだが……その言葉を遮るように。苦痛を肩代わりするように、間宮二郷が続きを述べた。
「どの生徒も、誘い込むような、呼びかけみてぇな言葉を叫び散らして走り去る。走り去って、居なくなる。無理矢理止めようとしても、化物じみた力で振り払われるし、消えた生徒達の顔は覚えてても、名前も住所も連絡先も思い出せない。そして生徒が消える度に『何か』は増えて、だけど自分には霊視能力がある筈なのに、何故か其れが誰なのかを見つけられない。違ぇか?」
「え? あ、ああ……」
下手糞な敬語を捨てた二郷。
三那は、二郷が彼女の言おうとしていた事を先取りして告げた事への驚きから、呆けて一瞬だけ恐怖を忘れ、流されるままに頷いてしまう。
その頷きを確認した二郷は、大きく息を吐いてから、三那に聞こえないように小さな声で呟く。
「ああ……くそっ、やっぱしそうか。原作と性別変わってるなんて反則だろ。気付けねぇよそりゃあ……本当に、俺は馬鹿だ」
そうして、呟いた後。今度は、自身の肩に置かれていた三那の両手を剥がすと……其れを、己の両手で包み込み、次いで、安心させる為の笑顔を浮かべた。
二郷は三那の眼をまっすぐに見つめながら告げる。
「状況は良く判ったぜ。先生……アンタ、よく耐えたよ。本当に、一人で良く頑張ったな。偉ぇぞ。だけど、もう大丈夫だ。俺は多分、アンタの周りで悪さしてる怪異──【釣喰い】の正体を知ってる」
「……っ!?」
言葉と同時に、二郷の動きによって生まれた風がカーテンを捲り、夕日が、一瞬だけ二郷の姿を明るく照らす。
茜色の光は、二郷の笑顔の恐怖による引き攣りも、流れている冷や汗も、蒼白になっている肌も……その全てを隠して、三那に、間宮二郷が物語の無敵の主人公であるかのように、劇的に誤認させてしまう。
そして、そんな事は知る由もない二郷は、心の中では恐怖で叫び散らかしながらも、それでも、危険に巻き込んだことの責任を取るために。目の前の三那を──『原作』では死ぬ結末で終わる彼女を勇気付ける為、なけなしの気力を振り絞り、そして誓う。
「安心してくれ。物語の主人公みてぇに万事解決、なんて事は言えねぇけどな──それでも必ず、アンタを【釣喰い】から守ってみせる。居なくなった生徒達も、『無かった事』になんざさせやしねぇ。俺がアンタの、笹島三那の力になってやる」
「っ……」
周囲には黒い人影が蠢く、薄暗く不気味な、不幸の象徴のような団地。
だが少なくとも、いまこの瞬間。この室内だけは、三那にとって。滲む涙と夕日の赤で宝石の様に眩く映っていた。




