当たってしまった
異形の怪異──蟲眼の女。
久方ぶりの此の世ならざるモノとの邂逅に、間近で其れを目撃してしまった二郷の呼吸は乱れ、冷や汗は止まらず、心音が外に漏れ聞こえそうな程だ。
(ひ、ひいぃ……糞っ……! 怖ぇ、怖ぇ怖い怖い怖い!! 死ぬほど怖ぇんだよこん畜生があ……ッ!!)
絶叫すら出来ぬ程の恐怖の只中。其の脳裏に浮かぶのは、【赤いヒトガタ】……かつて『青年』の心と魂を折り腐らせた、間宮二郷にとって最も忌むべき記憶。
時を経て今も尚、その影響は色褪せる事は無く、間宮二郷の心中は、過去の恐怖の記憶と現在の蟲女への恐怖。二つの恐怖に掻き乱されていく。
今すぐにでも叫び、走り、逃げだしたい。そんな衝動に駆られる二郷であったが……。
「……ぎ……っぐ……うう……っ!! ……っ。……お、おい……なあ、レイちゃん……っ」
その心に刻まれている、かつて『青年』が読んだホラー漫画の主人公達の姿。彼等に恥じる行いをしたくないという想い。そして──脳裏に浮かんだ一つの懸念が、震える其の足を此の場に縫い留まらせた。
恐怖で滲んだ涙が溢れるのを堪えながら、二郷は、自身の首に絡みついている五辻レイに対して、絞り出すようにして声を掛ける。
「っ……そ、そいつ……其の化物について、レイちゃんが今、知ってる限りの情報を、俺に詳しく教えちゃくれねぇか……?」
震える声で告げられた二郷の言葉。それを聞いた五辻レイは、僅かにその目を細める。
「おやおや、随分と素直に僕の言葉を信じてくれるんですねぇ、二郷君。しかし、良いんですか? 僕は……」
「──頼む」
からかう様な声色で問答を続けようとした五辻レイ。けれど、その五辻レイの言葉を、間宮二郷ははっきりと遮った。今にも恐怖に押し潰されそうな様子であるにも関わらず、明瞭な、強い意思を込めた声で言葉を続ける。
「頼むから、教えてくれレイちゃん。もしも『そいつ』が俺の予想通りなら、早急に対処しないとならねぇんだ。だから、頼む。お願いだ……っ!」
自身の首に絡みついていた五辻レイの腕を剥がし、代わりに彼女の細い両肩をしっかりと掴み。震えながらも、しかし真っすぐに五辻レイの眼を見て、二郷は頼み込む。そんな二郷の視線を受けた五辻レイは、暫くの間沈黙していたが……やがて、耐えかねたかのように少しだけ視線を逸らすと、口を開く。
「……全く、仕方がありませんねぇ。そこまで言われて答えないのは、意地悪が過ぎるというものですか。とはいいましても、僕が知っている事も左程多くはありませんよ?」
そう言うと五辻レイは、自身の肩を掴んでいた二郷の手をそっと押して緩めて貰い、拘束から抜け出して……未だ誰かを呼び寄せるような言葉を吐き続けている蟲女。その口に再度猿轡を嵌め直してから、言葉を続ける。
「僕が森で補足した際の『此れ』は……森に生えるそこかしこの木に、頭部を擦りつけるような動きをしていました。近くで動く物体があると、先程のように人の声真似をして、呼び寄せてようとしていましたが、風で動く木の枝や野生動物の区別もついていなかった辺り、知能は随分とお粗末であると見ていいでしょう」
何の事はなさそうに、肩を竦めてそう告げる五辻レイ。
実際、その語る内容に重要そうな情報は無い。だが……彼女の言葉が進むごとに、二郷の顔色は蒼く変わっていく。唾を飲み込み、喉を鳴らしてから、それでも二郷は続きを五辻レイに促す。
「他に……そいつがやって来た方角とかは判るか? こいつは此の街の、どの方角からこの屋敷が有る森に入って来やがったんだ?」
「方角、ですか? 僕は森の周囲の道を行く通行人達をランダムに操作して、視界を監視カメラ代わりに使っていただけですので、確実性はありませんが……それでも宜しいですか?」
「ああ、構わねぇ……いや本当はやってる事に言いてぇ事はあるけど、今は本当に助かる」
そんな二郷の返答を聞いた五辻レイは、何か言いたげな彼の態度を務めて無視しつつ、いつも通りの飄々とした態度で、問いに対して知りうる範囲の解を返す。
「では、お答えしましょう。『此れ』がやって来た方角は、恐らく、森の南方。水路沿いの道の奥──郵便局と団地、それから『四ツ辻高校』が有る方角ですね」
「……ッッ!!」
五辻レイが語った情報を聞いた二郷は、反射的に自身の口元を右手で覆う。
頭部を擦り付けるという行動こそ意味不明ではあるものの、それ以外の情報──蟲の眼という外見。人語を模し、人を呼び寄せるという習性。
そして、蟲女がやってきたという場所……水路沿いの道、郵便局、団地、そして高校。
ホラー少年漫画を愛し、その執着から、読んだ漫画の全コマを異常な程の精度で記憶している二郷だからこそ、気付く。気付けてしまう。
其れらの全てが、とあるオムニバスホラー漫画に描かれていた物語の背景、そして情景と一致してしまう事に。
自身の推測が、当たってしまった事に。
──『さかさネジ』第二十二話。【釣喰い】。
人に巣食う化物。人で巣食う化物。醜悪なる繁殖機構。
「……クソっ! クソがっ! マジかよ……よりにもよって、また原作の怪異が登場しやがったのかよおおおお!!!!」
二郷は、自身の目の前に新たな『さかさネジ』の怪異が現れてしまった事への恐怖。そして、化物を打ち倒す事が出来る『本物の主人公』……二郷が何時か現れる筈だと勝手に信じている其の存在が、未だ登場をしていないという事に対する焦燥に、叫び、その場で頭を抱えて蹲る。
五辻レイは、そんな二郷の様子を。微笑を浮かべながらじっと見つめていたが──しかし暫くして、彼女は唸る二郷の横にしゃがみ込むと……その耳元で、囁く様にして告げる。
「さて、どうしますか二郷君。僕としては、捨て置くのも一つの手だとは思いますが?」
其れは、甘い誘い。現状維持への誘惑。飛びつきたくなる様な逃走の肯定。けれど──。
「逃げ……ぐ、ぐぎぅ……うう……放っておける、訳ねぇだろうが……! 死ぬんだよ、この化物を放置すると人が沢山っ!! ああああ! なんで俺が! 主人公でもねぇ俺には無理だってのに……でも、知ってて見捨てる訳にもいかねぇんだよ糞があああああ!!」
間宮二郷は、逃げない。逃げられない。
湧き上がる恐怖に圧し潰されそうになりながらも、心に刻んだ、かつて自身の心を救ってくれた物語のヒーロー達に背を向ける様な真似を行う事を、他ならぬ間宮二郷が許さない。
故に──恐怖へ抵抗するために、彼は心を狂気と狂乱で塗り潰して立ち上がる。
「畜生……レイちゃん、此の化物の事。教えてくれて本当にあんがとよ。お陰で、化物の被害が最低最悪にならねぇように、遅刻してやがる主人公の代役として動き回れる……心から嫌だけどなあ!! 畜生がああッッ!!!!」
そう吠えると、二郷は拘束されている蟲女をその肩に荷物のようにして背負い、脇目も振らず、己が役割を果たすべく駆け出した。
そんな二郷の背中を、手をひらひらと振って見送った五辻レイは、二郷の姿が見えなくなってから、小さな声で呟く。
「どういたしまして。ですが……本当は、知らせたくはなかったんですよ?」
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「うむうむ。よく育つんじゃぞ」
東雲家本邸。その一角に作られた家庭菜園で、植えられたトマトに肥料をやりながら、穏やかな表情で微笑んでいる人物。
東雲四乃の実の祖父である彼は……端的に言って、今、人生で最も幸せな時を過ごしていた。
何故幸福であるのかといえば、その理由は明白だ。
自身の家系……東雲の一族を、呪い、殺し、喰らってきた恐るべき化物──【モリガミサマ】。自身の孫娘である四乃に憑りついていた其の化物が、つい半年程前に完全に祓われたからである。
孫娘の四乃は、一時こそ精神的に不安定であったものの、最近は毎日を楽しそうに過ごしており……祖父自身も、そんな四乃と十年程ぶりに会話を交わせるようになったうえに、更には手料理をご馳走してもらう事さえ出来た。
もう得られないと思っていた、恐怖に怯える事のない穏やかな日常。
もう叶わないと思っていた、愛すべき孫娘との触れあい
それらを取り戻すことが出来たという幸福な事実は、常に恐怖と絶望で張り詰めていた彼の心と、眉間の皺を解くには十分過ぎた。
「それもこれも、あの少年のお陰じゃのう……」
しみじみとそう言って、思い浮かべるのは、【モリガミサマ】が払われてからおよそ半年の後。つい数週間前に四乃が連れて来た、一人の少年の姿。
前日までの憔悴が嘘の様に、全身に喜色を浮かべていた当時の四乃の話では……その少年。間宮二郷こそが、あの【モリガミサマ】を討ち滅ぼした張本人なのだという。
その話に対して、四乃の両親は半信半疑なようであったが、しかし四乃の祖父と彼の妻は、その言葉を全く疑わなかった。むしろ、聞いた瞬間に納得さえしてみせた。
何故ならば、彼等は知っていたからだ。死んでいった過去の『花嫁』達……【モリガミサマ】に憑かれた犠牲者達が、どれほど人間に絶望し、そして憎むようになるかを。その絶望の闇に染まった姿を、実際に目にした事が有ったからである。
彼女等の死に際の瞳……其処に浮かんでいた負の感情が、単なる耳障りの良い正義の言葉や、無責任な愛の誘惑などで埋まる等とは、とても思えない。
なればこそ、同じ状況に在った四乃が味わっていたであろう、底知れぬ絶望が打ち祓われているのは……四乃があれだけの深い愛と信頼の感情を向ける様になっているのは、間宮二郷という少年が、本当に【モリガミサマ】から彼女を救ったとしか考えられないのだ。
「本当に、本当に大きすぎる恩じゃ。儂も老骨に鞭打って、何かあれば、彼に出来る限りの便宜を図ってその恩を返さんとのう……それに、四乃の想いが成就すれば、ひ孫の顔も見れるかもしれんし、本当に未来が楽しみじゃのう。ほっほっほ」
未来図を描いている其のにやけ面は、かつて二郷が東雲家に押し入ったときに見た厳格な物とは随分違っている。だが、恐らくは、恐怖に縛られていないこちらの顔の方が彼の素であるのであろう。
そうして、ひ孫に抱っこをせがまれている己の姿を想像しながら、茄子の葉に活力剤を蒔いていた四乃の祖父であったが……ふと、聞こえて来た物音にふと顔を上げると、その視界の先──離れの建物の方から、つい先程まで自身が思い浮かべていた人物……間宮二郷が駆け寄って来る姿が見えた。
「おお! 婿殿、良い所に来たのぅ。丁度、そろそろお茶にしようと思っておってな、良ければ一緒に──」
「────だっそおおおおおおおおおおおおい!!!!」
しかし、四乃の祖父のその穏やかな言葉は、二郷が勢いよく地面に叩きつけた大きな物体によって、遮られる事となった。
突然の事態に驚愕した四乃の祖父が、地面へと叩き落された物体へと視線を向ければ、其処に在ったのは……セーラー服を着て猿轡を嵌められた、人の形をした、しかし人ではない『何か』。両の眼が昆虫そのものである、化物の姿。
「なっ……な、何じゃ此れは!?」
【モリガミサマ】以外に初めて目撃した人外の化物の存在に、思わず小さな悲鳴を上げた四乃の祖父であったが……間宮二郷はそんな彼の様子を気にする余裕も無く、間髪入れずに、腰を九十度曲げた深々としたお辞儀をしながら、声を張り上げて言う。
「──東雲四乃ちゃんの爺さん、頼みがあるっ!! この化物から皆を助ける為に、名家の金とコネの力でどうにかして俺の戸籍とか学歴とかを偽造して、どうにかして四ツ辻高校に裏口入学させてくださいお願いしますッッ!!!!」
其れは、物語の主人公であれば、一部例外を除いて絶対に行わないであろう、情けなく、誇りもない、そして普通に犯罪の香りが濃厚な願い。
しかし、娘の恩人が突然セーラー服を着込んだ異形の化物を放り投げて来た事と、圧倒的な勢い任せの大声での請願。そして、その余りに突飛な内容に面食らった四乃の祖父は、脳の処理能力のキャパシティがオーバーしてしまい……
「は? え……う、うむ? ま、孫の婿であれば……学歴は必要じゃの、わ、わかった……」
二郷へ感じている恩義もあって、碌な思考もしないままに、ついついその願いを承諾してしまったのであった。
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かくして。
其処から僅かに時は進み、間宮二郷は、無事に正規ではない偽物の経歴を手にして……季節外れの、悪い意味で謎の転校生になったという訳である。
(ああああ! 畜生っ!! 俺の『塩』が漫画の主人公みてぇな能力なら、この場の全員に今すぐ振りかけて解決なのによぉ!! 見える化物も怖ぇけど、見えないのも怖えんですけどお!!!?)
新たなる化物【釣喰い】を探し出すため。不意打ちを許さぬ変態霊能装備にて登場するという────ある意味、学生としては終わっている高校生活が、始まったのだ。




