良からぬモノ
──時は少し遡る。
とある雑誌で連載されていた、『さかさネジ』という題名のオムニバスホラー漫画。
其れを現実にした様な世界に堕ちて来た、『青年』……間宮二郷は、クラスメイトの少女である東雲四乃に憑りついていた、悍ましく強大な化物である【モリガミサマ】と命懸けの戦いを繰り広げ、恐怖に泣き叫び逃げ回りながらも、其れを討ち祓う事に成功した。
その結果として、意識不明の状態となってしまったが、それでも半年の入院を経て目覚め、四乃とも劇的な再会を果たし……そして、その後。
「……二郷くん。今日もお昼ご飯を作って来たから、食べて欲しい」
「お、おう。毎日すまねぇなぁ、四乃ちゃん。ありがたく頂くぜ」
────間宮二郷の姿は、東雲四乃の実家にあった。
四乃の生家である東雲家は、市内でも広く名を知られた旧家だ。並の豪邸が平凡に見える程に広大な敷地を持ち、その中には、母屋である和風の本邸と……【モリガミサマ】に憑かれた四乃を隔離するために建てられた、洋風の『別邸』が存在している。
かつては、【モリガミサマ】が齎す静寂と恐怖。そして、地獄の様な孤独の象徴であった建物……だが現在、その別邸こそが、間宮二郷の住居となっていたのである。
では何故、二郷がその『別邸』に住む事になったのかといえば……それは単純な話だ。
【モリガミサマ】との戦いの果てに、己の過去──戸籍に、親、人間関係。これまで生きてきた軌跡の全てを失ってしまった二郷。
そんな、何処にも帰る場所が無くなってしまった二郷の事を案じた、東雲四乃──世界でただ二人だけ、二郷の事を忘れなかった少女が、自身の両親に頼み込んだからである。
二郷こそが【モリガミサマ】から自身を救ってくれた恩人であり、だから、せめてもの恩返しに住居を提供してあげたいと、そう願ったのだ。
……勿論、本来であれば其れは無理な願いだ。真偽の定かでない理由を元に他人を家に住まわせる等、難色を示されて当然の案件である。実際、当時の四乃も、説得には時間が掛かると考えていた。しかし
「……お父さん、お母さん。お願いします」
驚くべきことに──四乃のその一言を聞いた瞬間。彼女の両親は、二つ返事でその願いを受け入れたのである。
それは、今まで【モリガミサマ】への恐怖に怯え、四乃に何もしてやれなかったという負い目。そして、娘が初めて自分達を頼りにしてくれたという喜び。
そんな、鬱屈し堆積し、熟成された……我が子への愛という名の感情が、四乃の両親に、娘の願いであれば、出来る限り聞いてあげたいという、強い欲求を与えていたのだ。
かくして。
「……間宮君と言ったね? 病院や関係各所への根回しは、私がしておこう。屋敷でも、自由に過ごして貰って構わない。ただし──もし四乃に手を出そうとしたら、解るね?」
四乃の父が、目が全く笑ってない笑顔で告げた、そんなありがたい言葉と共に、間宮二郷は、『中学校中退かつ戸籍なしのホームレス生活』という地獄の様な未来を辛うじで回避し、東雲家で暮らせる事になったという訳である。
「……二郷くん。ご飯。食べさせるから……口を開いて」
「へ? いやいや、気持ちはありがてぇけどな……その、流石に自分で食えるからな?」
そうして、四乃の善意の結実により、本格的に東雲家で暮らし始めた二郷であったが……暮らし始めてから現在。僅か数週間にして、二郷はその生活に限界を感じ始めていた。
別に、過ごし辛い訳ではない。物資や設備が不足している訳でもない。人間関係に不満もない。
むしろその逆である。東雲邸での生活は、衣食住と娯楽。その全てにおいて、何一つの不自由も無く満たされたものであった。
そして、だからこそ……その快適さこそが、間宮二郷にとっては大問題だったのである。
「……他にして欲しい事は、ある? 欲しい物があれば、直ぐに買って来るから言って。それとも……物よりも、マッサージと耳かきの方が……良い?」
「い、いや大丈夫だ! 気ぃ使ってくれて本当にすげぇ嬉しい! 嬉しいけどよ、今はマジで問題ねぇんだ! サンキューな!?」
腰まで届く程の長さの、絹を彷彿とさせる滑らかな黒髪。表情が薄く透明な──まるで、美麗な人形の様な顔立ちと、新雪が如き白肌。右眼を覆う白い眼帯と、その反対側に位置する、澄んだ湖のような左の瞳……その瞳で、二郷をじっと見つめる少女。東雲四乃。
二郷によって孤独から救われ、恐怖から救われ、絶望から救われ、死へ至る運命からも救われた彼女。
そうであるからこそ……或いは、そんな過去を持つが故に、二郷と同じ家で暮らせる事に心底喜んだ四乃は、感謝と愛の心を込めて、毎日毎晩……全身全霊で二郷に尽くした。
それこそ、朝昼晩の食事の準備配膳から始まり、二郷の日用品や娯楽用具の購入、部屋の掃除。疲労回復のマッサージ、果ては耳掃除に至るまで。
四乃はその聡明な頭脳を以て、二郷が行おうとする事の全てを先回りし、解決し、二郷が何もしなくても不便無く快適に暮らせるように、不断の努力をした。
その献身。無辜の奉仕。純粋すぎる程の善意と優しさ。
その愛情こそが、間宮二郷をかつてない程に追い詰めているとは知らずに。
「……このままじゃ、やべェ」
手伝いは不要であると二郷に言われた四乃が、何か有れば何時でも呼んで欲しいと……さりげなく、二郷が食べ終えた昼食の食器を手に持ち、二郷の部屋を出て行ったのを見送ってから暫くして。二郷は自身の右手の爪──四乃に手入れをして貰った結果、光沢が出る程に磨かれた其れを見る。見て、天を仰ぎ呟く。
「ダメだ……快適過ぎる。このままじゃあ……この生活を続けたら、俺は本格的にダメ人間になっちまう……!」
それは贅沢過ぎる焦燥であり、我が儘すぎる本音。そして、自身が徐々に駄目なヒモ男になっていくような感覚に対する、切実すぎる自尊心の叫びでもあった。
……間宮二郷は、彼なりに理解しているのだ。現状の自身と四乃の関係が、精神衛生的に決して健全なものではないという事を。
例えるのであれば、今の二郷は、真綿の海に優しく沈められていっているような状態だ。心地良くとも、沈み続ければ辿り着く先は暗闇であり……故に、常識的な視点で考えれば、四乃の為にも、自身の為にも、距離を取るのが正しいと、理性は確かにそう訴えている。
そう──『普通』であれば、二郷はその選択を選ぶべきなのだ。 けれど。だというのに……二郷にはその普通を選ぶことが出来ないでいた。
何故ならば、東雲四乃という少女……彼女の境遇が、そもそも普通とは程遠いものであったから。
幼い頃から【モリガミサマ】に人間関係を奪われ、家族とすらも関わる事が出来なかった少女。そんな彼女がやっと手に入れた他人との繋がり。手探りでの精一杯の甘えを、『一般的に間違っているから』という理由だけで拒絶する。二郷の感情は、それが正しい対応であるとは、どうしても思えなかったのである。
理性と感情の対立。答えが出ない故の妥協。解決策が見つからないが故の現状維持。
だからこそ二郷は、こうして誰も居ない時に、湧き上がる自己嫌悪と申し訳なさを独り言で呟き消化するという、情けない真似しか出来ないでいるのだが──。
「──これはこれは。随分とお大臣様な発言ですねぇ、二郷君」
その独り言に応える声が、一つ。
一人しか居ない部屋で聞こえた他者からの返答という、絶対にあり得ない筈の怪現象に、二郷が驚き、反射的に声の方角へと首を動かすと……
「な──んぎっ!? う、ひぎああああああ!!」
二郷に宛がわれた部屋。その壁に設置されている、古めかしく大きな木製のクローゼット。
閉まっていた筈の其の扉が僅かに開いており……その隙間の暗闇に、少女の顔が浮かんでいた。
ホラー映画の一幕に出てきそうなその情景に、二郷は恐怖から叫び声をあげ、そのまま拳を強く握り、振りかぶりかけて──けれど直ぐに、少女の正体に気付いて其れを止めた。
「──ててっ、てっ、て、テメェ……レイちゃん!? ンな所で何してやがる! つか、どうして何時も何時も、絶妙に俺を怖がらせる感じの、化物みてぇな登場の仕方しやがんだよ!?」
「おやおや。化物みたいな──とは心外ですねぇ。僕は、正真正銘の化物ですよ?」
動揺する二郷を尻目に、クローゼットの扉を開け、闇の中からぬるりと出て来た、其の少女。
黒のセーラー服に、肩口までの長さの黒髪。そして、夜の沼のように光の反射の無い瞳。浮かべる微笑が、見る者に底なし沼のような印象を与える、恐ろしくもどこか引き込まれる容姿の彼女は──名を、五辻レイ。
二郷と四乃が通っていた中学に存在していた、三体の強大な怪異の内の一体にして、『さかさネジ』の原作漫画においてもその凶悪性が描かれていた、世界を滅ぼせる怪異【スイガラ】。その唯一にして。最後の生存個体である。
五辻レイは、二郷の驚愕など何処吹く風とばかりに、完全に姿を現すと……大きく伸びをしてから、二郷の傍へと近付いてきて、当たり前の様に其の近くの椅子へと腰掛ける。
二郷はそんな五辻レイに対して、一度大きく息を吸ってからため息を吐くと、自身もドカリと椅子に腰かけて腕を組み……そして、横の席の五辻レイに少しねめつける様な目を向けながら口を開く。
「……はぁ。んで……何だよ。一体、何の目的でクローゼットなんかに隠れてやがったんだ。つか、それ以前に何時から隠れてたんだよ、レイちゃん」
「何時からという問いに答えるのであれば、二時間程前からですねぇ。二郷君と東雲四乃さんの濃厚な戯れ。このまま一線を越えてしまうのではないかと、妬ましく思いながらじっくりと見学させて頂きました」
「いや思ってたより大分前から居やがったなぁ!? 普通に怖ェんだが!? あと、一線なんざ超えるか! 四乃ちゃんの善意に付け込むような真似なんざ、横島さんでもやらねぇわ!!」
反射的に突っ込みを入れてしまう二郷であったが、自身の大声で四乃が心配して戻って来てしまう可能性に思い至ると、慌てて声を潜め、一呼吸置いてから言葉を続ける。
「あのなぁ……レイちゃん。ただでさえ、俺達は居候って立場なんだぞ? しかも、何でか理由は知らねぇが、レイちゃんと四乃ちゃんは折り合いが悪いんだろ? なら、冗談でも俺が一線超えるとか、そういう相手を傷付けそうな発言はするなっての……」
「いえ、僕が一線を越えると心配していたのは二郷君の方ではないんですが……まあ、いいでしょう」
何かを言おうとして取りやめ、肩を竦める五辻レイ。
……さて。そもそも、何故この家に五辻レイが居るのかと言えば……其れは二郷の言葉の通り。五辻レイもまた、間宮二郷と同じく此の東雲邸に居候をしているからである。
勿論、勝手に住み着いている訳ではない。【モリガミサマ】に関連した騒動により行き場がなくなったという事で、東雲四乃の許可も得ての居住だ。
但し、五辻レイの場合は、二郷のケースとは異なり『未来が無い』ため、顔合わせの際にはひと悶着有ったりもしたのだが……其れについての説明は、この場では割愛する。
「──さて」
そうして、ひとしきりの会話を重ね。二郷の心拍数が落ち着いてきた頃。
タイミングを見計らったかのように五辻レイはそう言うと、改めて二郷の方へと向き直り、真っすぐに視線を合わせる。
「前説はさておき、そろそろ本題に移りましょう。先程、何時から此処に居たのかという質問にはお答えしましたので──次は、もう一つの質問。僕が何故このクローゼットの中に居たのかについて、二郷君のご希望通りお教えしますよ。といっても、言葉では判り辛いと思いますので……二郷君。着いてきて頂けますか?」
「お、おう……?」
そう言って椅子から立ち上がった五辻レイは、自然に二郷の右手を取ると、先程まで自身が潜んでいたクローゼット。その前まで、二郷の手を引いて誘う。
その行動の不可解さと、繋いだ五辻レイの手の意外な暖かさに困惑しながらも、素直にクローゼットの前までやって来た二郷。
「あー……なんだ? コレを開けりゃあいいのかよ?」
彼は一度、五辻レイの方へと向き直ってそう尋ねてみたが、しかし帰って来た五辻レイの返答は、いつも通りの胡散臭い微笑を浮かべながらの頷きのみであった。
其の態度を見た二郷は、眉を顰め警戒を強めつつ……しかし、結局はその誘導に従う事にした。一度息を吸ってから、ゆっくりとその手でクローゼットの扉を開いていく二郷。
(ま、これまで色んな事を経験してっからな。流石に化物関係以外なら、今更驚く事はねぇだろ……)
二郷が腕に力を込めると、扉の金具が軋む音と共に、暗がりに閉ざされていた空間に室内の光が差し込んでいく。
そして二郷が扉を開いた、その先。
クローゼットの奥には──人がいた。
高校のセーラー服を来た、女だった。
縄で縛られ、目隠しをされ、猿轡を嵌められていた。
「──は?」
待ち受けていた光景が余りに想定外であった為に、一瞬、完全に硬直してしまった二郷。しかし、その女が二郷の声を聞いてもがきだした瞬間、即座に我に返る。そうして、慌てて女の猿轡を外す為に動き出し、次いで五辻レイへと向けて叫ぶように言葉を吐き出す。
「っ……いやいやいやいやおい待てレイちゃん!! テメェこれ一体何してくれてんだ!? この人は誰だよ! 一体何やらかしやがった! 霊とか怪異とか以前の、普通に犯罪じゃねぇか!?」
しかし、そんな二郷の混乱を気にする様子も無く、五辻レイはいつも通りの胡散臭い微笑を浮かべたまま、まるで朝食の内容でも語るかのように返事を返す。
「まあまあ、落ち着いてください二郷君。二郷君が僕と運命を共にしてくれる気概なのは嬉しい事ですが、化物には学校も試験も刑務所も何もありませんし……そもそも、この件で自首する必要はないんです。何故なら、その女性は──其れは、人間ではありませんので」
「はあ!? 人じゃねぇって、一体何を……」
四乃の言葉を受け、二郷の手がピタリと止まる。
しかしそれよりも二郷の手作業が完了したタイミングの方が僅かに早く、女の口を塞いでいた猿轡がポトリと床に落ちた。すると……
『──助けてください愛しています殺される助けて面白い物見つけたよお金が落ちてるデートしませんかそっちに逃げたら危ないよ友達を助けてください事故ですそこの人少しだけお話を聞いてください待ってましたよ久しぶりだねあなたのお母さんが事故に遭いました遊びませんか道を教えてください落とし物を一緒に探してください』
猿轡が外された途端……女の口からあふれ出したのは、意味の繋がらない言葉の羅列。
縛られていた事への不満も、状況への混乱も、何一つない。
ただ壊れたスピーカーの様に、誰かを呼び寄せる為の抑揚のない言葉を連呼している。
「ん、だ……これ……」
「折角ですので、もう少し判り易く証明してみましょうか」
動揺して硬直している二郷の代わりに、五辻レイはその女の傍に近付くと、今度は女のアイマスクを取り去る。すると、其処には──人間の眼の代わりに、紫色の、昆虫の複眼のようなモノが存在していた。
「うひえぃぃぎっ!?」
「『此れ』は、この屋敷周辺の森に侵入してきたものを、罠に嵌めて捕獲したものです。僕は非力でか弱い少女なので、苦労しましたよ。知能の低い個体で助かりました」
化物に恐怖し悲鳴を上げた二郷を宥めるように、五辻レイは二郷の背後に回ると、背中から覆いかぶさり……その首を抱き締めながら言葉を続ける。
「何も言わずに僕が始末しても良かったのですが……本来、あの【モリガミサマ】の残滓が濃厚なこの土地に近づきたがる様な化物は存在しません。だというのに、この化物は侵入してきた。その事実を、二郷君だけには伝えておかなければと思いまして、収納スペースとして便利なクローゼットに押し込んでいたという訳です。まあ、つまるところ……」
二郷の耳元。囁くような声で、五辻レイは告げる。
「二郷君。どうやら僕達の住む此の街に、良からぬモノが入り込んだみたいですよ?」
その可憐な化物の囁きは、微睡のような日常の終わり。
間宮二郷の平穏で満たされた生活の終わりを告げる合図であった。




