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主人公(ヒーロー)




 それは、【モリガミサマ】が滅びた夜から1週間後の事だった。

 埃一つ無く整えられたベッドの上で、意識不明の状態であった東雲四乃は目を覚ました。

 霞がかかった意識の中で、視界に差し込む蛍光灯の光が半分しかない事を不思議に思い、その白く細い指を自身の顔に這わせると……其処にはザラザラとした包帯の感触。


「……っ」


 包帯をなぞっていた指が右の眼球の位置に触れると、突如として鋭利な針で刺したような痛みが奔った。反射的に手を離しかけたが、どういう訳か四乃の手は、その意思に反し其処から離れようとしない。

 そして同時に、その痛みによって四乃の意識は、ようやく明瞭に浮上し始める。


 首だけを動かし周囲を見渡せば、まず気が付くのは、自身の左腕から伸びるチューブ。そして、その先に繋がれている点滴のパックの存在。

 次いで気付いたのは、自身が居るこの部屋が、四乃が幼い頃に【モリガミサマ】に憑かれて以来、一度も立ち入る事が出来なかった……記憶の中にのみ存在していた、実家の本邸。その一室であるという事。

 状況を認識した四乃の脳は、何故、どうして自身が『居てはいけない筈』の場所にいるのかと、理解の為に思考を動かし始め────そして、一週間前の記憶が一気に蘇った。


 放課後の教室、校内に突如として現れた【モリガミサマ】。

 天から堕ちてきた白い怪異と【モリガミサマ】との衝突。

 必死の抵抗の末の薄氷の上の勝利と、穏やかで暖かな帰り道。

 そして……自宅が見えた瞬間、自身の右眼が焼かれるような激痛を発し、視界が血で染まった事。

 その時。その瞬間。四乃の目の前で、呆然とした表情で彼女を見ていた少年の姿────


「……っ!!」


 動揺で、声を出すよりも先に体が反射的に動いた。振り回すように動かした右腕から伸びる点滴のチューブが、ベッドの脇の机に置かれていたペットボトルとコップを引っ掛けてしまい、床に落ち砕け散った硝子の音が部屋中に響く。


「どうしたっ!?」

「大丈夫!? 何かあったの!?」


 するとその直後……廊下から慌てふためいた声と足音が響き、木製の部屋のドアが勢いよく開かれた。其処にいたのは、


「なっ────目を、目を覚ましたのか! ……四乃っ!!」

「ああっ……! あああ、四乃……!」


 東雲四乃の、両親。

 幼き頃から十数年もの間、触れる事も会話をする事すらも出来なかった、大切な家族の姿。

 目覚めた四乃の姿を確認した彼らは、暫しの間呆然としていたが、直ぐに父は肩を震わせ、母は見る間に涙を流し。

 そして、床に落ちたガラス片で自分達が傷つく事をも厭う事もなく、四乃が何かを口にするよりも早く、四乃を二人で力強く抱き締めた。


「……っ! 良かった……! 本当に良かった! 痛いところは無いか? 大丈夫か? ……すまない! 今まで、本当に、本当にすまなかった……親なのに何もしてやれずに、すまなかった……っ!」

「うう……ああっ! ごめんね、ごめんね、四乃ちゃん! 本当にごめんなさい……でも、生きててくれて、ありがとう……ありがとう……!」


 降り注ぐ言葉は、謝罪。そして、四乃が無事でいてくれた事への感謝。

 両親の顔は、次々に溢れ出てくる涙と鼻水で汚れ、お世辞にも綺麗とは言えない。けれども、その不格好な泣き顔こそが、彼等がこれまでにどれくらいの感情を。苦痛を、罪悪感を、恐怖を、絶望を抱えながら生きて来たのかを何よりも雄弁に物語っていた。

 そんな状態の両親に対して、四乃は困惑しつつも声を掛ける。


「……お、父さん……お母さん……。どうして、私に触れて……あの日から、何日経ったの……? 【モリガミサマ】の祟りは……?」


 両親が自身に迷わず触れている事。そして躊躇わずに声を掛けてきた事によって、四乃の脳は混乱しながらも半ば状況への答えを出している。けれど、未だ確信が持てない。故に、期待と不安を半分ずつ胸に宿しながら、確証を求めておずおずと尋ねる。

 そんな四乃に対して、父親は彼女を抱き締めたまま、涙声で返答を返す。


「一週間だ……四乃、お前は一週間も眠っていたんだ。【守り神様】は……あの化物は、もう居ない。触れた医者も俺達も、何も怪我をしていない。お前の目も、普通に戻っていた……お前は……四乃、お前は、助かったんだ……っ!」

「……っ」


 ……東雲四乃は決して聖人ではない。自身を【モリガミサマ】から助けてくれなかった家族への、恨みや憎しみ、失望。そんな感情を抱いた事が無いかといえば、嘘になる。

 けれど……それを補って余りある程に、嬉しいと思えた。

 それは、触れた肌から伝わってくる体温が。案じてくれている感情が。涙が。触れられずとも、話せずとも、ずっと自分の事を案じてくれていたのだと。自分は一人ではなかったのだと、そう伝えてくれていたから。

 だからこそ────四乃もおずおずと両親の肩に手を伸ばし、一度手を引きかけて、それでも不器用に両親を小さく抱き締め返した。


「……そう。……もう、本当に……大丈夫なんだ」


 四乃のぎこちない抱擁と呟きに、ますます涙と鼻水の量が増え、もはや嗚咽でまともな会話が出来なくなった両親。

 そして……四乃の頬にも、気が付けば一筋の涙が伝っていた。






「す、すまなかったな……取り乱してしまって」

「ごめんなさいね……そうだ。お義父様達も呼んでこないと。それから、お医者様も……四乃は、その、何か欲しいものとかあるかしら?」

「……別に、ない。ありがとう」


 どれだけの間泣いていたのだろうか。

 それでも、ようやく落ち着いた両親に対して、四乃も常のような無表情に戻って返事を返す。足取り軽く小走りで部屋を出て行った母親の背を見送ってから、四乃はその場に残った父親の方へと向き直る。

 そうして、自身が最も聞きたかった事を確認する事にした。


「……お父さん、私を運んでくれた人は何処?」

「運んでくれた人?」


 唐突な四乃の問い掛けに、首を傾げる父親。四乃はそんな父親に対して、淡々と、しかし少し急いた様子で言葉を続ける。


「……私は多分、家の前で倒れた。その私を、運んでくれた男の子が居た筈。彼と会いたい……会って、改めてお礼を言いたい。だから、居場所を教えて」


 四乃の真剣な要求に、しかし父親は、困惑した様子のまま返事を返す。


「家の前って……四乃。お前は、家の前で倒れてなんかいないぞ? 血まみれの姿で病院に運び込まれて、その後、自宅療養となったんだ。それに、運び込んだのは少年ではなく老人だったと聞いているが……」

「……えっ?」


 父親の言葉が自身の記憶と嚙み合わず、思わず疑問の声を上げる四乃。

 それでも、一度深呼吸をしてから確認するように質問を続ける。


「……違う。私を助けてくれたのは、クラスメイトの男の子。黒髪を後ろに下げた、目の下の隈が素敵な人。【モリガミサマ】を倒してくれたのは、彼の筈。そうでなければ……私は此処に居ない。それに……彼は、この家にも来た事があるから、きっとお父さん達も会った事がある」

「いや、すまないが……そんな男の子は知らない。この家に、来た事など無い筈だ」


 焦燥。四乃の中で何かが警鐘を鳴らしている。それを振り切る為に、更に言葉を重ねようとする四乃だが、そんな四乃を遮るようにして、父親は柔らかな笑顔を浮かべながら四乃へと語りかける。


「だが……四乃がその少年が恩人だと言うなら、私は信じよう。【守り神様】が自然に滅びるなど考えられないからな。もし、その子がそうだというのなら、私からも是非お礼を言いたい。クラスメイトであるのならば見つけるのは容易だろうし、我が家の人脈を動員してでも見つけて連れてくるから、まずはその子の名前を教えてくれないか?」

「…………分かった……ありがとう」


 優しい言葉。信頼の言葉。見つけてくれると言った父親のその言葉に、少しだが安堵した様子を見せる四乃。

 だから彼女は、自分の大切な人の捜索をしてもらう為、父親に、自身にとっての主人公(ヒーロー)であるその少年の名前を告げる事にした。


「……私を助けてくれた、あの人の名前は────え?」


 思い出せなかった。


 顔は思い出せる。声も思い出せる。かけて貰った言葉も、全て覚えている。

 なのに、大切な……何よりも大切な。死んでも忘れないと誓った筈のその少年の名前が、どうしても思い出せない。


「どうして────違う。違う。そんな筈はない」

「ど、どうした四乃……?」


 四乃の父が肩に手を置き尋ねるが、四乃は動揺でまともな返事を返す事が出来ない。

 片手で口元を覆い、思考を整理するように……覚えていないという事実を否定するように、早口に、脳を巡る言葉を全て口にしていく。


「……違う……違う、違う違う違う。私が、あの人を忘れる筈なんて事は、絶対にない。嫌、嫌、嫌嫌……覚えてる、私は覚えている。あの人の事を覚えている、忘れない。忘れたくない。忘れちゃいけない。なのに……どうして思い出せないの? どうして、どうして……!」

「おい! 落ち着きなさい四乃! 大丈夫か!?」


 四乃の顔色は蒼白になり、体は細かく震えだす。

 呼吸が浅くなり、冷たい汗が流れ、脈は過剰なほどに早くなる。

 死んでも忘れないと誓った相手の名前が、消しゴムで消されたかのように不自然に記憶から消え去ってしまっている。そして、それをどうあっても思い出すことが出来ない。

 その事実に、四乃の全身が拒絶反応を示す。


「覚えてる、覚えてる覚えてる覚えてる覚、えて……っ……あ、あ、あああああああああああああああああああああああ……!」

「落ち着きなさい四乃!? おい! 誰か! 主治医を呼んでくれ! 早くっ!!」




 ──────────────―




 ……。

 本来であれば、四乃と家族の邂逅は幸せの中で終わる筈であった。

【モリガミサマ】から解放された事で、ようやく再会できた家族は、ぎこちないながらも絆を取り戻し、暖かな当たり前の日常を取り戻せる筈だった。

 少なくとも、間宮二郷はそう信じていた。助けたその時から自身の死の直前まで、そう思っていた。


 けれど────現実は違った。

 それは、東雲四乃という少女にとって、間宮二郷という少年が、大切な存在に《《なり過ぎていた》》せいだ。

 それこそ……彼女の生存理由や存在理由の根幹に、その存在が深く刻まれてしまっている程に。

 間宮二郷の死から一週間が経ち、世界が間宮二郷という存在を忘却させた後も、名前以外の全てを覚えていられる程に、それ程までに東雲四乃は、間宮二郷という存在を強く想っていたのである。


 そして、だからこそ……四乃にとって間宮二郷を忘却するという事は、拷問に等しい耐え難い苦痛であった。

 愛も、恋も、希望も、夢も、未来も。今の四乃にとっての大切なものは、全て間宮二郷と結びついている。そうであるが故に、二郷の記憶が消えるという事は、四乃にとって、人生の意義が全て消されていく事に等しい、あまりに惨い仕打ちであったのだ。


 けれど、そんな四乃の苦痛など世界が意に介する事はない。それどころか、辻褄合わせの為に、世界は四乃の残された記憶すらも消していく。

 ゲームの不具合が修正されていくかのように、四乃が眠る度に、覚えていた筈の二郷の声が、顔が、姿が……徐々に思い出せなくなっていく。

 そんな状況に、それでも四乃は必死に抵抗した。


 中学の教室を訪れ、二郷が居た筈の席を探し、クラスメイトに二郷の事を尋ねてまわった。

 紙に自身が記憶している全てを書き記した。

 部屋中の壁に記憶に有る二郷との出来事を隙間無く書きなぐった。

 四乃を心配している両親と祖父母に、必死に思い出を語って聞かせた。

 レコーダーを購入して音声を吹き込んだ。

 己の肌に針で傷を付け文字を書き、思い出を刻み込んだ。

 眠る事によって忘れる事を恐れ、起き続けてもみた。


 ……けれど、その全てが無駄に終わった。


 間宮二郷の席は無く、誰も彼を覚えていなかった。

 書き記した文字は消えてしまった。

 家族は、四乃が語った事を翌日にはもう覚えていなかった。

 レコーダーは無音だった。

 傷は、目覚めれば跡形も残っていなかった。

 七日もあれば人格が壊れると言われている不眠を、実に十四日。意思の力だけで起き続けたが……結局は肉体の限界により、意識は遮断されてしまった。


 それでも、その後七か月。実に半年以上もの間、東雲四乃は忘却に耐え続けた。

 消えいく記憶に絶望しながらも、自身を助けてくれた少年が居た事。それだけは歯を食いしばって忘れなかった。

 しかし……その抵抗も、今、無意味に終わろうとしていた。







(……明日になれば……きっと私は、全部忘れてしまう)


 それは、半ば確信じみた直感だった。

 目覚めてから七か月。始めは名前以外は少年の事を全て覚えていたというのに、今ではもう、少年の姿も声も思い出せない。【モリガミサマ】からどうやって助けてくれたのか、それすらも記憶にない。

 大切な存在が、一人の少年が自身を助けてくれた。思い出せるのは、ただその事実だけ。

 そして……その残された僅かな記憶すらも、明日を迎えれば消えてしまうと、四乃の中の何かが訴えている。


 だから、四乃は最期の行動に出る事にした。


 不安定な足取りで、彼女が籍を置いている中学へと続く通学路を歩いていく。

 生糸の様に美しい腰まで伸びた黒髪は、手入れの不足で乱れ、透き通る程に透明な肌は、睡眠不足が重なりもはや青白い。

 人形の様に整った顔も相まって、歩くその姿はさながら幽鬼のようですらあった。


 そうして、四乃が辿り着いた先……日曜の学校は、部活動も休みなのか、昼だというのに校庭には誰の姿も見えなかった。

 四乃は、鍵が壊れたまま放置されている非常口から校舎に入り込むと、昨年まで通っていた教室へと向かい、そのドアを開け……かつて自分が座っていた席へと腰かける。


「……居た筈。……確かに、居た筈なのに……」


 響くのは、ただ時を刻む掛け時計の秒針の音のみ。

 黒板を見ながら、虚ろな目で四乃は呟いた四乃の言葉に応えるものは、何もない。


 こうして座ってみても、思い出せるのはほんの僅かな……記憶の残滓のみ。

 それすらも、刻一刻と時間が経つ程に削られてしまっているのであろう。

 その事実に、東雲四乃の心は耐えられない。


「……」


 暫く座ったままの姿勢でいた四乃であったが……やがて、ゆっくりと席から立ち上がった。

 そしてそのまま、不確かな足取りで教室の窓へと近付いていく。

 鍵を開け、閉じていた窓を大きく開くと、砂交じりの強い風が教室の中へと吹き込み、カーテンを揺らし、四乃の髪をたなびかせた。


 ────そうだ。このまま全部を忘れてしまうくらいなら。

 ────いっそ、僅かでも覚えたまま終わった方が良い。


 無表情のまま、見下ろした眼下。固いコンクリの地面はまるで四乃を呼んでいるようで。

 自身の中に残る少年の残滓を永遠のものとするために、四乃は、かつてのように窓枠に手を掛けて





「…………出来る、訳ない」


 けれど……四乃は、その選択を選ばなかった。

 俯き、透明な雫をぽたりぽたりとその眼から落とすだけで、その命を捨てる事などしなかった。


「……それをしたら、助けてくれた事が、無駄になるから……出会った事が、無意味になるから……だから……それだけは、出来ない」


 この救いは、呪いだ。

 もしも四乃が自ら命を絶てば、少年が四乃にしてくれたであろう全ての事が無駄になる。

 何故ならば、もう思い出せない彼が確かに存在していたという唯一の証明……其れこそが『東雲四乃が生きている』という事なのだから。

 例え全ての記憶が消えようと、四乃が生きてさえいれば、彼が成し遂げた結果は消えない。

 だからこそ、彼が与えてくれたものを守るために。彼を証明し続ける為に。東雲四乃はこれからもずっと一人で生きていかねばならない。

 大切なものを忘れたまま。心に穴を空けたまま、生きていかなければならないのだ。未来という、終わらない絶望の中を。

 それでも、生きる事を決めた四乃は窓に背を向けようとして────



「……えっ?」



 何かが、そんな四乃の背中を突き飛ばした。



 窓枠を越え、中空へと放り出される体。

 四乃が首を捻り背後を見れば、其処には


『 どーん どーん あは あは うひは ああはは 』


 天井からぶら下がっている、化物が居た。

 緑色の肌に骨と皮だけの体。そして、全身から植物の根の様に伸びている大小無数の腕。

 爛々と輝く青色の眼球と、三日月のように裂けた笑顔。

 数多の腕の中でも、一番大きく長い腕を使い、東雲四乃を窓から突き飛ばした化物が、ケタケタと嗤っていた。


 それは、【モリガミサマ】【アナログジャック】【スイガラ】……三体の強大な怪異が突如として居なくなった事により生じた霊的な隙間に入り込んだ、名もなき低俗な化物。

 取るに足らぬ、其処らのお守りの一つでもあれば祓う事ができるような小物の怪異。

 けれど……その怪異の二本の腕は、東雲四乃という少女を窓から突き飛ばし殺すには、十分過ぎる力を持っていた。


「……ああ」


 この世界は、どこまでも醜く残酷だ。

 絶望の果てに、それでもたった一人で忘却を抱え込み、生きる事を選んだ少女。

 そんな少女の悲壮な覚悟ですらも、悍ましい化物が遊び半分で命ごと奪い去る。

 本当に、笑える程に救いようのない世界だ。

 重力がその身を地に引きずり込むのを感じながら、四乃はもう思い出せない彼に向けて、心の中で自身が死んでしまう事を謝りながら……それでも、最期に一言だけ呟いた。



「…………助けて、私の主人公(ヒーロー)









 ────直後。醜悪に嗤っていた緑色の化物の頭が、爆ぜた。

 化物の頭を砕き、貫き、飛び出してきた其れは……『薄く光る塩の塊』を握った拳。




「クソがああああっ!!! 死なせて、たまるかよおおおおおおおっっ!!!!!」



 苦悶の表情で霧散していく化物。その向こうに見えた人影。その姿に。その声に。

 東雲四乃は大きく目を見開き、溢れ出てきた涙で表情が大きく歪む。


「……あ……ああ……ああああ……っ!!」


 握っていた塩を手放し、必死の形相で腕を伸ばして、落ちゆく四乃の手を掴んだその人物。

 オールバックに纏めた黒髪と、深い隈が作り上げた悪人面。


 そして────漫画の主人公(ヒーロー)のような、真っすぐな瞳。


 命綱代わりに片方の腕で教室のカーテンを掴み、もう片方の腕で、必死の形相で東雲四乃を引き上げ抱き留めようとしている、その少年。


「クソ! クソっ! 怖ぇじゃねぇかっ!! その後の無事が気になって探し回ってようやく見つけたと思ったら、何で化物がポップして気軽に殺人事件になりかけてんですかねぇ!? ふざけんじゃねぇぞ、うんこ垂れ原作がああああ!!!!」


 化物と対峙した恐怖に涙目になりながら、品の無い悪態をついているその少年の声。顔。体温。

 それら全てが、この世界で唯一、彼を忘れてしまう事に抗い続けていた只の人間の少女の────東雲四乃の、消されてしまった筈の記憶を呼び起こす。

 この醜く残酷な世界に対しての、数少ない勝利を与える。



「……二郷、くん……間宮、二郷くん……!」

「あいよ、東雲四乃ちゃん! 遅くなって悪かっ……あ? 四乃ちゃん。どうして俺の名前を覚えて────んむっ!?」



 言葉はない。

 東雲四乃が返した答えは……喜びの涙の塩味を纏って、間宮二郷の口を強く塞いだ。






 この世界は未だ謎と怪異に満ちている。


 消え去った【アナログジャック】。

 未発見の『星山羊』の禍石。

 原作に存在しない東雲四乃の妹。

 二郷をこの世界に誘った赤いヒトガタ。

『さかさネジ』に描かれた数多の化物達。



 けれど、今この瞬間。

 間宮二郷が、少女の涙の塩味を感じているこの時は────どんな怪異も化物も、彼らに近付く事は出来ないだろう。








「……はてさて。僕が見ている前で、よくもこう堂々と……まあ、二郷君の初めては僕なので許しますが」


 尤も、例外もいるのかもしれないが……それはそれという事で。




第一章 閉幕

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― 新着の感想 ―
作品検索しててたまたま見つけ、あまりの面白さに一気に読んでしまいました! 昨今ありがちな、ポコポコ登場させて退場パターンでない、緊張感と熱さのバランスが最高でした 素晴らしい作品との出会いに感謝!!
とっても面白い!
2025/09/28 09:33 カクヨムでも読んでます!
一章完結、おめでとうございます! そして二章がありそうでとても嬉しいです。 無理しないペースでこれからも頑張ってください。
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