ありがとな
涼し気で、どこか人を食ったような少女の声がした。
風に薄く混じった白檀の香りは、終わりかけていた間宮二郷の意識にも確かに届いた。
それは、放課後の教室で、或いは東雲邸の門前で、学校での怪異からの逃走劇の最中で、そして……血まみれの離別の中で。
決して長い時間ではなかった。されど、間宮二郷が泣きわめきながら、情けなく駆け抜けていった怪奇なる日々において────そんな彼の姿をずっと視ていた、とある少女。
白檀の香りは、その少女が纏っていたのと同じものであった。故に
「……『スイガラ』?」
乾き、嗄れた声しか出せぬ二郷の喉は、しかし確かにその名前を紡ぐ。
すると、まるでそう呼ばれる事を予期していたかのように、香りの主である少女は言葉を返した。
「ええ。僕ですよ、二郷君────貴方のクラスメイトの、五辻レイです。そろそろ『レイちゃん』と気安く呼んでくださってもいいんですよ?」
返答を聞いた二郷の眼が、今度こそ驚愕に見開かれる。
それも当然の事だろう。
間宮二郷は学校の廊下で、【モリガミサマ】に体を食われ死亡した五辻レイの姿を、確かに目撃していたのだから。
そのうえで、自身の指で彼女の脈の有無を確かめ、確実にそれが止まっていた事実を忘れていないのだから。
死んでいたのだ。生きている訳がないのだ。殺されてしまった筈なのだ。
だというのに、見開いた視界の中に居た彼女は……生きて、そして動いていた。
学校指定黒のセーラー服に、肩口で切り揃えられた黒髪。
そして、笑顔を模した模様が描かれた、傷一つ無い白い仮面。
何時ぞやの出会いの時と全く同じ格好をした彼女は、五辻レイは、五体満足のままに後ろ手を組み、地面に腰を預けている二郷の顔を見下ろしていた。
「はっ、はは……なんだよ……無事、だったのか……」
当惑。そして、それを上回る喜びの感情を綯い交ぜにしながら、呟く二郷。
それを耳にした五辻レイは、床に力なく座っている彼に対し、視線を合わせるようにその場にしゃがみ込むと、少しだけ肩を竦めた。
「おやおや、酷いですねぇ。先程の供養発言と言い、二郷君はまさか僕が死んだと思っていたんですか?」
「……そりゃあ、あの現場を見れば……仕方ねぇだろ。本当に……一体、どうやって」
どうやって、あの状況で生き延びる事が出来たのか。
言い切る事をしなかった二郷のその問いに対して五辻レイは、自身の右手の細く白い人差し指で、その左足────【モリガミサマ】によって喰われた筈の其処を、ゆっくりとなぞりながら返事を返す。
「そうですねぇ。割愛して説明するのであれば……僕は、二郷くんの言う所の『生存個体』ですので、生き残りは得意分野なんですよ。手足を食べられても生やしますし、心臓を止めての死んだ振りも自由自在という訳です。 どうです? 驚いていただけましたか?」
「…………そうか。ああ、驚いたぜ。俺の知っている【スイガラ】より、ずっと頑丈じゃねぇか……はは……は……げほっ」
冗談めいた五辻レイの返事に対して、二郷は枯れ枝のようになった体を少し震わせ、力無く笑う。そんな二郷の様子を見た五辻レイは、少しの沈黙し……そして口を開く。
「さて……かく言う二郷君の方は、少し見ない間に随分と容貌に味が出ましたねぇ。もはや僕でなければ、二郷君が二郷君であると気付けないレベルの変容ですが────ひょっとしてそれは、件の『塩』の副作用か何かでしょうか?」
「……なんで、そう思ったんだ?」
五辻レイの質問に対し、逆に問い返す二郷。
その無作法に対し、けれど五辻レイは気分を害した様子もなく、人差し指を立てて見せる。
「簡単な推測です。【モリガミサマ】に獲物として認識され、その上で生きて此処に戻って来たという事は……恐らく二郷君は、あの化物を降したのでしょう。そして、アレを倒せる武器となれば、二郷君の塩以外に思いつきません────けれど、あんな規格外の力に代償が無い訳が無い。命に係わる対価を支払い、その結果《《そう》》なった。違いますか?」
「……」
推測を受け、沈黙する二郷。けれど、その沈黙こそが五辻レイの問いへの何よりも雄弁な答えとなっている。
五辻レイは、仮面の奥の瞳で二郷の様子を眺め見ながら言葉を続ける。
「二郷君。必要であれば、病院までお連れしますよ?」
「……あんがとよ……けど、こいつぁ老衰だ。治療出来る医者はいねぇさ……」
老衰という言葉を聞いた五辻レイは、一呼吸程の沈黙をしてから、それでも直ぐに口を開く。
「……。それでは、【モリガミサマ】の『禍石』を使うのはいかがですか?」
「『禍石』……」
「ええ。持っているのであれば、それで早々に治療するべきだと思いますが」
「……そうだな」
歯切れの悪い二郷に、スイガラは少し首を傾げると、確認するように更に続ける。飄々とした口調こそ相変わらずであるが、それでも、いつもよりも言葉の速度が早いのは、決して気のせいではないだろう。
「『僕達』の事すらも知っていた二郷君であれば、当然ご存じだとは思いますが────『そうあれかし』『かくあれかし』。どこかの誰かが願った、その願いの成れの果て。僕達のような化物が生まれる切っ掛けとなる、腐った願いの結晶体である『禍石』」
五辻レイは、地面に落ちていた小石を拾い上げると、その親指と人差し指で弄ぶ。
「普通に使えば、人間には毒にしかなりません。ですが、二郷君の『塩』で完全に浄化出来れば────そうすれば、『禍石』は願いを叶える為の純粋なエネルギーとなる筈です。それこそ、若返るくらいの願いであれば容易く……」
「使っちまった」
五辻レイの提案を遮るように告げられた、二郷の言葉。
その言葉を聞いた五辻レイは手から小石を取り落とし、その動きを止めた。
「──はい? 二郷君。今、なんと」
「げほっ……東雲四乃ちゃんが、失血で死にそうだったからな。治すために、全部使い切っちまった……禍石も塩も。全部だ」
「それ、は……」
二郷のその言葉は────それは即ち、彼が助かる術は、既に恒久的に失われていたという事を意味していた。
「……」
「……」
沈黙する二人の間を、乾いた風が一度だけ吹き抜ける。
その沈黙は、十秒か。それとも一分であったか。
それでも先に口を開いたのは、五辻レイだった。
意図して出力したかのような、不自然に楽しげな声色で、彼女は何かを確かめるように、二郷へと問い掛けをする。
「────二郷君はこの後、死ぬんですか?」
「……ああ、死ぬ」
「生物として、死ぬのは怖くないんですか?」
「……怖ぇよ。泣きそうだ」
「それなのに、どうして東雲四乃さんを助けたんですか? 自分が生き残るチャンスを不意にしてまで、愚かだとは思わないんですか? 後悔は無いんですか?」
「…………ああ。後悔は……あんまし、してねぇな。未練だけはあったが……それも、ついさっき……キレェに無くなった」
「……では、それでは」
何かを言おうとして、飲み込んで。それを数度繰り返し。
最期に大きく息を吐くと、そこで不意に五辻レイの気配が変わった。声色が、雰囲気が変質した。
そうして【スイガラ】は、淡々とした口調で二郷に尋ねる。
「────それでは、二郷君の死体は僕が貰っても良いですよね?」
白檀の香りが強くなる。
唐突なその問いに何も答えず沈黙している二郷に対して、【スイガラ】は仮面の顔を近づける。
「どうせ死ぬのであれば、二郷君の脳を削り取って……『僕達』を入れても良いですよね? こんなにも都合良く死体が手に入る機会なんて、そうそうありませんので。そうして、手に入れた二郷君の死体を起点にして、通常個体が新たな死体を作って、僕達を殖やして、地に満ちてもいいですよね?」
それは、【スイガラ】という化物としての言葉だった。
人の脳を抉り取り、空けた孔に寄生し、脳に成り代わり操り、操った死体で再び死体を殖やし、無限に増えていく……そんな悪性のウイルスが如き災厄。
その生態として当然放つべき言葉。在るべき姿。求めてしかるべき欲求。
都合よく目の前に現れた、自身という種を繋ぎとめる事の出来る、必ず死体となる人間。
そんな存在に対して漏れ出した……『さかさネジ』に描かれていた、世界を滅ぼす怪物そのものの発言であった。
「最も、二郷君が拒否しようと関係は無いんですが。このまま二郷君が死ぬまで待てば、それだけで僕は勝ちなんです。どうあっても死体は奪えます。そうして、その死体を使って東雲四乃さんも、二郷君のご家族も、級友たちも、須らく『僕達』になって貰いましょう。その後はこの町を侵食し、そして更に」
連弾のように流れ出る言葉。けれど、そんな【スイガラ】の発言の続きを遮るように、間宮二郷は、小さく掠れた声で言葉を吐き出した。
「…………レイちゃん、ありがとな」
【スイガラ】の言葉が、ピタリと止まった。
暴言でもない。悲鳴でもない。怒りでもない。
ただ、間宮二郷に初めて名前を呼ばれた。困ったような微笑で礼を言われた。
それだけ。たったそれだけの事で、まるで打ちのめされたかのように、五辻レイが撒き散らしていた悪意の全てが止まった。そして
「…………邪悪な化物が本性を顕にしたのですから、主人公であれば、怒りで奮起し立ち上がるべきでしょう」
そして静かに、五辻レイは零れるようにそう言葉を漏らす。
ああ、確かにそうだろう。二郷が憧れていた物語の主人公達であれば、どれだけ傷を負っても立ち上がれたに違いない。
けれど────主人公ではない二郷にそんな奇蹟は起こりえない。
だから、その言葉に対しての返答は……
「…………ああ。もう、聞こえていませんか」
五辻レイが二郷の隣へと座りこむ。
右手を伸ばし、穏やかに目を閉じた二郷の頭部に触れると、驚くほどに軽くなったその体は何の抵抗も無く彼女へと向けて倒れ込んだ。
そして、倒れたその勢いで……二郷が最後に出していた数粒の塩────光を失った其れが、緩んだ二郷の掌の隙間を縫って風に舞い、五辻レイへと触れた。
「……二郷君。果たして貴方は、僕の嘘をどこまで信じてくれていたんでしょうねぇ」
塩が触れた直後。まるで霧が晴れるように、再会してからずっと行われていた二郷に対する認識偽装が解け、五辻レイの姿は変貌した。
割れ砕け、殆ど残っていない仮面。
食い千切られたかのように失われている、左腕と左足。
そこを補うように生えている、手足の形状を模した水のような液体。
そして、血まみれの黒のセーラー服。
そこに居たのは、ただの死にかけの少女であった。
「ふふ……いくら僕でも、食べられてしまった手足を生やせる訳がないじゃないですか」
冷たくなり始めた二郷の頭を自身の右の太腿の上に乗せ、優しく撫でる五辻レイ。
手足が生える、心臓を自在に止められる。
そんな能力は、【スイガラ】には……五辻レイには存在しない。
脈が止まっていたのは、止まってしまった心臓の機能を、スイガラの『卵』が代替として果たしていたが故の事。
憑りついた死体を操る事。
暗示や幻覚で人間を操る事。
死体に卵を埋め込み、【スイガラ】とする事。
傷口から、血液が漏れ出ないように延命する事。
彼女に出来る事といえば、せいぜいがその程度。
再生する力など持っている筈もなく……故にもう、五辻レイにこの先は無い。それは、間宮二郷と同じように。
「それにしても……夜の学校で、男女が二人。同じ時に死ぬ。まるで、人間の心中のようですねぇ」
呟く五辻レイ。その直後に、彼女の傷口を覆っていた水状の物質が溶け、露になった傷口から大量の血液が染み出してきた。
これまで何とか体裁を保っていたが、とうとう延命をする力も使い切ったようだ。
「思えばずっと、不運ばかりでしたが……」
【モリガミサマ】に、通常個体を全て殺され、『生存個体』として半死半生の状態で逃げ延び、とある病院で脳死状態で眠っていた少女に憑りついた。
死にかけの状態では脳に成り代わる事すらできず、やむを得ず脳と一体化する事となった。
そんな状態で、【モリガミサマ】を遠巻きに警戒しながら学生生活を送り────ようやく生存の芽を見つけたと思えば、その直後に肉体を喰われてしまった。
生存という綱渡りを必死に続けてきて、とうとう無残に綱を踏み外して落下した。
そんな滑稽な有様こそが、彼女の生涯であった。
計算をしているようで、その実必死にもがいて生きていただけの生。
今宵の邂逅。二郷が学校を訪れる事すらも、予測していた訳ではなく、生存個体としての生き汚さが故に間に合っただけの、ただの偶然の再会だった。
そんな情けない生であったが、それでも────
「この二郷君の死体を使えば、種としての僕達は生き残ります。生み出された理由は果たせます」
彼女の不運な生涯における、千載一遇の幸運。
最期に手にした、種としての生命を繋ぐ機会。
五辻レイは自身の胸の傷口にその手を突き入れ、口端から血を流しながら、透明な卵形の物体を取り出す。
内部に幾何学模的に光の線が走っている其れは、【スイガラ】の卵にして『禍石』。
二郷の死体の脳を壊し、この卵をそのまま口に詰め込めば、死体を乗っ取って【スイガラ】が産まれるであろう。
生存個体の五辻レイとは違う、本物の【スイガラ】だ。
五辻レイは死んでしまうだろうが、彼女が産まれた目的を果たすことが出来る。
だからこそ、五辻レイは
「ですが────僕は二郷君の、都合の良い女ですから」
そう言って、何の躊躇いもなく……取り出したその『卵』を《《割った》》。
そうして、零れ出る透明な、まるで本物の卵の中身の様に粘性の有る其れを自身の口に含むと
────彼女は間宮二郷の死体と、生まれて初めての口付けを交わしたのである。
どうか生きて欲しいという、そんな思いを込めて。
『そうあれかし』『かくあれかし』と、叶うかどうかも分からぬままに、彼女は、二郷の喉奥へとその願いを流し込んだ。
「……」
唇を離した五辻レイは、相変わらずの黒塗りしたかのような深い沼の底のような瞳で。
仮面の下に隠されていた、沼に映る月の様な美しい顔で、微笑みながら言葉を紡ぐ。
「二郷君。人を自由に操る事が出来るというのはつまり、どれだけ会話をしようと壁に向けて話しているのと同じなんです。ですから、貴方との会話は僕にとって、生まれて初めての他人との会話だったんですよ」
「そして────僕にはその事が、とても嬉しかった」
卵を失った事で、血液の流出は加速する。
支える事が出来なくなり倒れた己の上体が、二郷の上に重なったのを感じながら……その瞼が閉じゆく中、五辻レイは最後に、ふと思い出したように呟く。
「……ああ、そうでした。これは秘密の話ですが……実は、五辻レイと間宮二郷君は、以前にも出会っていたんですよ?」
その呟きは誰にも届かず。そうして、世界に無音が訪れる。
夜空の上の『腐れ月』は、相変わらず気味の悪い笑みを浮かべていた。
季節は巡る。秋を終え、冬は過ぎ去り────桜の花が咲いた頃。
病院で、一人の少年が目を覚ました。