未来へ向けて歩いて行ける
眼前で衝突する二体の怪異に対して、傷だらけの二郷は不敵な笑みを向けている。
怖くないから────ではない。そうしなければ、恐怖に悲鳴を上げてしまいそうだからだ。
『さかさネジ』原作において間宮二郷少年を殺した化物と、この世界に堕ちてきてから延々と自身に恐怖を与え続けてきた化物。
片方だけでも手に余るというのに、それが二体。
精神的にはとうの昔に限界を超えている。それでもなんとか虚勢を張っていられるのは、少し離れた位置で自身を見ている東雲四乃に無様な姿を見せたくないというプライドと、脳裏に焼き付いている血まみれの五辻レイの姿……彼女を殺された事への怒りがあったからだ。
【モリガミサマ】をぶち殺してやりたいと、心の底から思っているからである。
恐怖を狂気と怒りで塗り潰しながらも、二郷は眼前でぶつかり合う化物達に対して、脳の片隅で無理矢理思考を巡らせる。
(ああ、そうだ────行け、このまま行け! 潰し合いやがれっ! これが失敗したら、もう後はねぇんだ! 設定通りなら……『星山羊』なら、【モリガミサマ】をぶち殺せる筈だろうが!!)
肉片を散らし磨り減っていく『星山羊』。
削り取られるように徐々に消耗していく【モリガミサマ】。
力の大小だけで述べるのであれば、【モリガミサマ】の方が圧倒的に大きく、暗く、強い。
けれど、それを認識して尚、間宮二郷は『星山羊』が【モリガミサマ】と拮抗しうると考えており────そして事実、今尚、二郷に向かって無数の腕を伸ばす『星山羊』は、【モリガミサマ】に取り込まれる事も、喰らわれる事もないまま、徐々に地面へと【モリガミサマ】を押しやっている。
『 ご ど が …… ヴぉ あ ! ぇ 』
これまで嘲笑と余裕を崩す事の無かった【モリガミサマ】の巨大な顔、その醜悪な顔面に初めて焦燥の色が浮かぶ。
目を血走らせ、渾身の力を以て『星山羊』を押し返さんとするが……しかし、拮抗するに留める事しか出来ない。
そんな【モリガミサマ】に対する嫌がらせの為、間宮二郷は手首に巻いていた数珠をその顔へと向けて投げてから、口を開く。
「は、へ……へへ……不思議だよなぁ? どうして押されるのか不思議だよなぁ!? 理由が知りてぇか? その理由ってのはな────はっはー! 絶対にテメェには教えてやんねぇから、安心してくたばりやがれ!! ウンコ野郎が!!」
挑発する間宮二郷は、当然の事ながら知っている。
原作に記されていた、この『星山羊』の正体を。
何故、力で上回る【モリガミサマ】に対抗出来ているのかを。
(山羊、星────明星……もしもテメェが人間の文化を学ぶ程に謙虚だったら、ひょっとしたら気付けたかもしれねぇがな。そうじゃねぇだろ? いつだってテメェは、人間を甚振る事しか考えてこなかった化物だもんなぁ!?)
『さかさネジ』の原作にて、いじめを苦にし、宇宙人という空想へと逃げた間宮二郷少年。
そんな彼に向けて突如として空から落下し、押し潰し殺した『星山羊』という怪異は、間宮二郷少年が望み呼んだ通りの宇宙人の様な存在────ではない。
(テメェが正体不明の名前も不明の化物って言うなら、『星山羊』はその逆。堕ちてきた、名の有る『天使の成れの果て』なんだよ!!)
天から堕ちてきた、かつて聖なるものであった存在──人はそれを、堕天使と呼ぶ。
一神教の神話体系において、神に逆らい天を追われた、神に次ぐ力を持つモノ。
そして聖典においては、山羊……悪魔と称される存在でもある。
天の明星から堕ちてきた堕天使たる悪魔。故に『星山羊』。
そして、その特性は────神の奇蹟の捕食。
【モリガミサマ】は強大な怪異だ。あらゆる霊能も化物も喰らい、己が力に変えてきた。
そう。例えば、この土地に存在していた……荒れ狂う土地神さえも。
だからこそ
(土地神って存在まで喰らって力にして、東雲の一族に自分は土地神だと信じさせてきたからこそ────お前は『カミサマ』の属性を持っちまってんだよ。『星山羊』にとってのご馳走、相性最悪の属性をな!!)
故に、地力の差を覆す拮抗がここに生じている。
神を騙ってきた化物、神の力を喰らう化物。
特性の違いが、属性の一致が。積み重ねてきた己の悪意と力が、【モリガミサマ】を追い詰める。
「沈め、砕けろ、潰れろ、消えろ、くたばれ!! 薄っぺらい紙みてぇな『顔』は、さっさと山羊に喰われて消化されちまいやがれ!!」
吠える二郷を不快気に睨みつける【モリガミサマ】だが、今は『星山羊』の相手で手一杯で二郷に手を出す余力が無い。その『星山羊』も、二郷に向けて無数の手を伸ばす事はするが、【モリガミサマ】の存在に阻まれその腕は届かない。
順調。一見して、二郷に都合の良い状況。しかし……それでも二郷の顔色は優れない。
どころか、三分、五分と時間が経過する毎にどんどんと流れる冷や汗が増えていく。
(……くそっ、まだか! まだ倒れねぇのかよ!? 一体、どんだけ力をため込んでやがったんだこの不細工面の化物はっ!!)
強い焦燥。
消耗してはいるものの、二郷の想定した時間を超えて尚、健在な【モリガミサマ】。
対する『星山羊』は、健在ではあるものの、その体積は確実に小さくなっていってしまっている。
(どうしてだ! 設定と話が違うじゃねぇか……くそっ、頼む! これがラストチャンスなんだ……! だから、頼む! 頼むから潔く死にやがれ!!)
『星山羊』は、対【モリガミサマ】における今回の二郷の計画の奥の手だった。
除霊道具の飽和攻撃で祓えたならば良し、それで倒しきれなかった場合は、自身を餌に『星山羊』を落として滅ぼす。そんな二段構えの策略を、二郷は練っていたのである。
しかし、早期の復活により除霊道具による弱体化が思った以上に行えなかった事。そして苦肉の策として【アナログジャック】という怪異を利用してしまった事で、別の属性が混ざってしまった事が、二郷にとっての想定外であった。
二郷は知らぬ事だが、それにより、【モリガミサマ】のカミサマとしての属性が薄まり、また残存する力も多くなってしまい、結果として『星山羊』への抵抗力が上昇してしまっているのである。
その結果、【モリガミサマ】は『星山羊』に抗えてしまっている……どころか、徐々に押し返し始めてすらいた。
「ぎ、ぐぅ……ダメだ。クソがっ、後はもう……もう、『塩』を使うしか……でも、アレは」
判断に迷った二郷が強く目を瞑り、歯を食いしばりながらそう呟いた────その時である。
『 ひ ヴ え お !? 』
「!?」
【モリガミサマ】の体に何かがぶつかると同時に、その体積が急に、一回り以上小さくなった。
次いで床に響く、シャランという金属音。
二郷が地面に落ちた其れを見てみると、その正体は
「錫杖……?」
二郷が用意した、屋上に保管していた除霊道具の一つである錫杖。それが地面に転がっていた。更に……独鈷、札、十字架、神酒。様々なモノが【モリガミサマ】へとぶつけられ、地面に落ちていく。
投擲され続ける物体。その軌道の元へと、二郷が困惑しながら視線を動かすと、そこには。
「……はあっ……はあっ……次……っ……!」
東雲四乃が立っていた。
延々と激痛が続く右眼を手で覆い抑えながら。
苦痛で滝の様に汗を流しながら。
痛みと恐怖に足を震わせながら。
そんな状況の中で、地面に置かれた無数の除霊道具……まだ無事であったそれらを、【モリガミサマ】へ向けて投げ付けていたのである。
「なっ……!? おいアンタ、何を……やめろ! 東雲四乃ちゃん、無理すんじゃねぇ!!」
驚愕に目を見開く二郷。しかし、その制止の声にも四乃は止まらない。
フラフラの体で鈴を拾うと、力なく投げつけ【モリガミサマ】にぶつける。
すると再び、苦悶に似た声を出し、【モリガミサマ】のサイズが僅かに小さくなる。
その現象を見た二郷は、高速で思考を動かし……直ぐに答えに辿り着く。
「まさか、抵抗してみせる事で……『花嫁』としての負の感情の供給が弱まってんのか……?」
東雲の一族が【モリガミサマ】へと抱く恐怖と絶望の感情。
それは【モリガミサマ】にとっては良質な贄だ。
殺す前であろうとも、常に流れ出るその感情がある限り、【モリガミサマ】はどこまでも強くなる。
だが、今。東雲四乃は、諦め恐怖に折れていた筈の少女は────再度、拳を握っていた。
自分の為ではない。間宮二郷を助けたい。彼の力になりたい。ただその思いの為だけに……震える体を、折れた心を、刻む痛みを。
苦痛に涙を流しながらも動かして、必死に【モリガミサマ】へ抵抗していた。
そして【モリガミサマ】は、四乃からのその弱弱しい攻撃を受ける度に、力を失っていく。
勿論、投擲自体に強力な効果がある訳ではない。
ただ、攻撃の瞬間は四乃からの負の感情が途絶え────その隙に、『星山羊』に大きく存在を削られているのである。
「……ま、だ……っ。次……っ、あ……」
更に除霊道具を投げようとする四乃であったが、しかし、とうとう自身のその動きにすら耐えられずに体勢を崩し、地面に倒れてしまう。
【モリガミサマ】が与える苦痛は、並大抵のものではない。
肉体も精神も削る、全身の神経に針を刺されるかのような痛みは、本来、まともに動く事すら許さない筈なのだ。
「もういい! もうやめてくれ東雲四乃ちゃん!!」
「……大丈夫……私は、大丈夫……だから」
それでも、四乃は再度震える足で立ち上がる。
小さな水晶玉を手にした四乃は、それを【モリガミサマ】へとぶつけようとする。【モリガミサマ】も状況の悪さを察知し、四乃の行為を妨害しようとするが……
【ひあおおおおおおおおおおおおおおお】
『 か ふ ぁ 阿 ぃで ぐ 』
『星山羊』による捕食が、それを許さない。
弱弱しく、けれど必死に水晶玉を握り振りかぶる四乃。
……その決死の光景を。どこまでも健気な抵抗を見たからこそ。だからこそ間宮二郷も、とうとう覚悟を決めた。
軋み折れそうになる程に歯を食いしばると、二郷はその掌の中に再度薄く光る『塩』を生み出し────
「……私は、お前の『花嫁』なんかじゃ……ない……!!」
「こいつぁ冥土の土産だ!! 持ってきやがれ────」
二人が同時に叫んだ。
その直後の事である。
二郷が『塩』を生成した事を認識した『星山羊』が、その本能のままに、損壊を気にする事もなく落下速度を最大にした。
【モリガミサマ】は対抗する為にその力を全開にしようとするが……同時に衝突した、四乃の水晶によって、一瞬だけその力が弱体化する。
そして、その隙に【モリガミサマ】の黒に『星山羊』の白がめり込み────
光が弾けた。
(────っ!? ……どうした、何が起きた……!?)
閃光に視界を奪われた二郷は、手で周囲を探るが、コンクリの床の感触以外には何も判らない。それから更に数分が経ち、ようやくわずかに視界が戻って来た二郷の目に映ったのは────
「……は? 何も、いねぇ……?」
砕けたコンクリと、曲がったフェンス。
戦いの痕跡こそあれ、【モリガミサマ】も『星山羊』も、其処には存在していなかった。
吹き抜ける風と、遠くから聞こえる虫の声だけが、屋上には残されている。
呆然としていた二郷であったが、やがて我に返ると、まだ痛みと恐怖に震える足を動かし、立ち上がって声を張る。
「おい、無事かっ!? 東雲四乃ちゃん! 何処にいる、返事してくれ!!」
声が裏返る程に、必死に呼びかける二郷。
先程の閃光の影響はまだ残っており、闇に慣れていない瞳では、手探りで周囲を探り歩を進める事しか出来ない。
それでも、頼りない足取りで、二郷は何とか反対側のフェンスに辿り着き────そして。
「……二郷、くん……」
「ッッ!?」
か細い声が、確かに二郷の耳に届いた。
何度も躓きながら声の場所まで辿り着くと、其処には────東雲四乃が右眼を抑えて蹲っていた。
二郷はとっさに彼女の細い肩を抱き締める。
「良かった……っ! 無事だよな? 怪我は? 痛くねぇか!?」
矢継ぎ早の二郷の問い掛けを受けた四乃は、ゆっくりと顔を上げる。
その顔に浮かんでいるのは……頑張って作った、不格好な笑み。
「……うん。痛くない……」
呟くような言葉に二郷が安堵していると、四乃はさらに言葉を続ける。
その瞳から────涙を流しながら。
「何も、痛くない……右眼が、痛くない……」
「お、おいどうした!? ……右眼が痛くないって……っ!? まさか!!」
言葉と、ポロリポロリと零れる涙を見て狼狽していた二郷であったが、話している内にようやく四乃の言葉の意味を理解した。
四乃の右眼は、瞼の裏に常に【モリガミサマ】の姿を映し、四乃に痛みを与えていた。
その右眼が痛くないという事。それはつまり────
「……あり、がとう……二郷く、ん……本当にあり、あり……う、ううううう」
【モリガミサマ】が、滅びたという事である。
嗚咽で、もはや、まともに話が出来ない四乃。
間宮二郷は、自身の胸に縋りつき号泣する彼女に対して、抱き締めている己の腕の力を強くする。罅割れた肋骨の痛みすらも、今は感じない。
「……ああ、そうか。やったのか……俺達────俺達、助かったんだな」
未だ現実感は無い。けれど熱い液体が二郷の頬を伝う。東雲四乃に釣られるように、間宮二郷もまた、大粒の涙を流す。それは、強大な恐怖から解放された事への安堵。
そして何より、東雲四乃という一人の少女を助けられた事に対する、安堵から。
考えるべき事はある。思考しなければならない事は未だ多い。
けれども、それは後でいい。
二人とも無事だった。共に助かった。
だから、これから未来へ向けて歩いて行ける。
不満げな『腐れ月』が見下ろす空の下で、東雲四乃と間宮二郷は、暫くの間、声を出して幼子の様に涙を流し続ける。
まるで、今までの積み重なった苦しみを、洗い流すかのように。
────────────────────―
「対消滅?」
街灯の頼りない光を頼りに道路を歩いていた間宮二郷は、聞こえた言葉に疑問の声をあげた。
「そりゃあ……つまり【モリガミサマ】は『星山羊』に削り切られて、『星山羊』は【モリガミサマ】に喰い尽くされた。そのタイミングが、たまたま全く同時だった──って事か?」
首を傾げる二郷の疑問に答えるのは、東雲四乃。
彼女は、いつも通りの無表情で──しかし、まだ少し腫れた瞳のまま、淡々と言葉を紡ぐ。
「……そう。『星山羊』が、虚脱した【モリガミサマ】に抉り入って……そのまま外と中からの潰し合いが始まった。……その結果、喰らうと削るが同時に起きて、行動の矛盾が生じ……両方とも存在が無い事になった……のかもしれない。……怪異の生態はわからないから、全部推測だけど」
理論としての成立が怪しく、説明としても不足しており、何より言葉の端々に推測が混じっているあたり、四乃としても確証はないのだろう。ただ、無理矢理に理由付けをするのであれば、そのような答えも出る、程度の言い方である。
二郷もその事を察し、大きく息を吐いてから、夜空を仰ぎ見る。
「……ま、俺達が怪異の専門家の忍野さんでない以上、正確な答えなんて出せねぇか。唯一判るのは、結果として二体の化物がいなくなったって事だけ、と」
「……そう。居なくなった」
並んで歩く、間宮二郷と東雲四乃。
双方ともにボロボロではあるものの、その足取りは軽い。
「……」
不意に、四乃の白く細い右手が、二郷の左手の薬指を軽く掴む。二郷は、突然の接触に一瞬驚き目を見開くが、安心させるようにその手を強く握り返す。
「心配すんなよ、東雲四乃ちゃん。こんな時間だ、しっかり家まで送り届けるさ」
「……そういう、意味じゃない」
「分かってるって。送るだけじゃなくご家族にも、連絡入れねぇとな────親父さんとか、きっとすげぇ喜んでくれると思うぜ?」
意図的とすら思える、四乃の健気なアピールへの二郷の無頓着。それに対し、更に言葉を重ねる事で真意を伝えようとする四乃であったが
「良かった────本当に、良かった」
二郷の、力の抜けた、心の底から安堵したような笑みを見て……これから先の四乃の幸せだけを純粋に願っている、その顔を見て。それに見惚れて、何も言えなくなってしまった。
そのまま、手を繋いだままの二人だけの下校は続き、やがて四乃の家が遠くに見えてくる。
森に囲まれた邸宅。夜間の自動灯が、二人を出迎えるように暗闇の中で周囲を照らしている。
自宅の敷地に入る前、四乃は立ち止まった。
そうして、それに気づき振り返った二郷と視線を合わせると、緊張し大きく息を吸い込む。
これから、彼女は告げるのだ。
感謝の言葉を。尊敬の言葉を。或いは、愛の言葉を。
その口から。
「……二郷くん。私 る ぼ あ ね ぱ たた ? らう あ を 火ヒ あび ま ぐ 」
「……は?」
二郷が阿呆の様な疑問の声を発した次の瞬間。
東雲四乃の右眼の眼球に、気味の悪い目と口と鼻が浮かび上がり、まるで卵から虫が孵化するように────眼球が爆ぜた。
間宮二郷は、気が付くべきだった。
【モリガミサマ】を倒したというのに、強大な怪異を倒した時に必ず残る『禍石』が、屋上の何処にも存在しなかった事に。
そして、【アナログジャック】を捕食した時に地獄の門を掌握した様な、そんな学習性の極めて高い怪異が、【スイガラ】という怪異を捕食した際に、その『生存個体』という技能を学習している可能性に。
『 ひヴ か楽 ? ぽ び が げ ぃへ 』
四乃の眼孔から、煙のように湧き上がって現れる姿。
人間のような目と、人間のような鼻と、人間のような口。
けれど、肌は無い。
闇こそが肌であるというかの様に、一つ一つが二郷の背丈と同じくらい巨大な顔の部位『だけ』が虚空に浮かんでいる。
唾液で濡れた巨大な口は、意味の解らない言葉の様な何かを呟き続けており、毛穴から油が浮いた鼻が異様な生々しさを感じさせる。
薄黄色に汚れた白目の中の瞳は、じとりと二郷へ、愉悦を込めた視線を向けている。
東雲四乃の右眼に己が卵たる禍石を仕込み、非常用の命としていた【モリガミサマ】が、其処に居た。
あまりの痛みに悲鳴を上げる事も出来ず、気絶した四乃。
そんな彼女の横で、恐怖と絶望に蒼白になっている二郷。
嗤う【モリガミサマ】。
状況は、あまりに絶望的だ。
されど────案ずる事は無い。この後の結末は、決まっている。
四乃を抱え、必死に森の中を逃走した後。間宮二郷は、消耗した負のエネルギーを補充したがっている【モリガミサマ】に自分自身を餌として捕食させ、本体たるその口腔にて大量の『塩』を生み出す事で内部から破壊する。
今度こそ蘇らないように、念入りに仕留める。
そうして、眼球を失い衰弱している東雲四乃に、【モリガミサマ】の禍石と自身の塩を用いて、新たな眼球を創り、その命を繋ぐのだ。
故に……ここからは、その少しだけ後の話である。
S市D町。四ツ辻夜間救急センター。
突如運び込まれた急患に、当番医と看護師は大わらわであった。
何せ、男に担がれてやってきたその少女は、その半身が血まみれだったのだ。
一目見て、失命の可能性がある出血量だと判断された彼女は、直ぐに処置室に移されたが……不思議な事に、失血によるショックと衰弱こそあれ、少女には外傷と見られるものが、幾つかのかすり傷しか存在していなかったのである。
その失血のショックに関しても、急激に回復の兆候を見せており、看護師は事情を聞くために、必死な様子で少女を連れて来た人物に事情を聞こうとした。
しかし、またも奇妙な事に、その時には待合室からその男性の姿は既に消えていたのである。
婦長は、受付をしていた若い看護師に尋ねる。
「ねぇ、あの血まみれの女の子を連れて来た人はどこかしら?」
「え? あれ? おかしいですね……さっきまでそこの椅子に座っていたんですけど」
首を傾げた若い看護師は、出口の自動ドアを眺めながら、言った。
「何処に行ったんでしょう。あの《《お爺さん》》」
一つ、忘れてはならない事がある。
『さかさネジ』は、オムニバスホラー漫画だ。
そして、一つとして救いのある話は――――無かった。