【閑話】一生、ずっと
中空に禍々しく在る赤い月。
夜の帳は周囲を覆い、無機質なコンクリの床には生命の息吹などまるで無い。
そんな場所で。そんな終わりの様な場所で。
眼球を抉り取られるような痛みに地に付していた少女……東雲四乃は、見た。
「────」
それは、あまりにも美しい光景であった。
間宮二郷の咆哮に呼び寄せられ、天から堕ちて来た、白き異形の彗星。
白い肌と禿げた頭。瞼の切り取られた瞳に、痩せ細った体。老若男女問わず、同じような容貌の人間を、幼児が雑に捏ね合わせた粘土のような物体。
その白き亡者が如き者の集合体が、【モリガミサマ】と衝突し、周囲に血液と白色の肉片を散らしている。
言葉にすれば醜悪で、音にすれば汚泥のようで、香りにすれば腐肉のようで。
そして────苦痛に霞んだ四乃の瞳に映る、散りゆく薄光を放つ白き肉片は、まるで舞い散る天使の羽のようで。
東雲四乃が呆然と眺め見る間も、間宮二郷が『星山羊』と呼んだ異形は、その存在を保ち続けている。
土地神も、地獄の門も、寄生霊も喰らってきた、強大な【モリガミサマ】という怪異に、正面からぶつかり、しかし今尚、喰われていない。
それどころか、強大な霊的磁場の衝突により、強風を巻き起こし、雷鳴が如き炸裂音を鳴らしながら、激しく存在の削り合いを続けている。
東雲四乃には、それら二つの怪異の衝突により巻き起こっている事象の理論は判らない。
しかし、どんな者達も……霊能力者を名乗る者も、僧侶も、神父も、神主も、悪魔崇拝者も、科学者も、ヤクザも、警察も、兵士も。
間宮二郷が危険と告げた【アナログジャック】でさえも、その悉くを嗤いながら喰い殺してきた【モリガミサマ】という理外で強大な化物。
その化物と拮抗している『星山羊』という怪異が、【モリガミサマ】と同程度に恐ろしいモノであるという事だけは判る。
(……さっき、二郷君は……『餌』と言っていた……自分の事を……)
そして、その『星山羊』という存在が決して、自分たちに都合の良い味方等ではない事もまた────理解している。
四乃は、どれだけの痛みの中にあろうと、間宮二郷の声を決して聞き逃さない。
そんな彼女が確かに聞いた二郷の言葉から判断すれば、『星山羊』という存在は恐らく……間宮二郷という個人を付け狙う怪異なのであろう。それは、つまり
(……【モリガミサマ】と拮抗する程の、モノ。……二郷君は、そんな恐ろしいものを抱えながら……私を、守ってくれていた……?)
痛みを堪えながらの思考の果てに至った結論。それに、四乃は愕然とした。
心のどこかで、自分とは全く違う、物語の主人公の様な存在だと思っていた彼。
例え恐怖を感じても屈する事無く、乗り越え立ち向かう事が出来る、そんな生まれながらの強者なのだと思っていた彼。
そんな彼が、実のところ……四乃と同じように恐ろしいモノから命を狙われ続けており、常に恐怖に苛まれ────そのうえで、四乃を助けてくれようとしているのだとしたら。
他人を助ける余裕など無いというのに、自身の命を危険に晒してまで……東雲四乃を守ると約束し、東雲四乃と共に死ぬとすら言ってくれて、そして更には、生かす為に行動してくれていたのだとしたら。
「……っ!」
四乃は震える。恐怖に。
間宮二郷という少年が、東雲四乃という少女に捧げてくれていた献身。
その深さと大きさを知らなかった、自身の無知に。その愚かさに対して、恐怖と慚愧の念で震える。
……無論。四乃のその推測は、見当違いのものだ。
間宮二郷という少年と、今、彼として振舞っている存在は、厳密にいえば別人であるのだから。
『星山羊』に狙われたのはあくまで間宮二郷少年で、常に狙われていた訳でもなく、更に言えば『青年』は、その事を知識と記憶でしか知らない。
だから、根本からその思考論理は食い違ってしまっている。
けれど……そんな事を四乃が知る由もない。
彼女が目で見て聞いた事こそが、彼女にとっての真実であるが故に。
それに、食い違ってはいるが──幼い頃から『視える』恐怖に苛まれ、赤い人影に心を折られ、しかしその上で尚、常に付きまとう強い恐怖の中で、四乃を助けようとしている。
過程こそ違うが、結論は奇跡的に一致しているのである。
故に、彼女が二郷に抱いたこの気持ちは、間違っているが、確かに正しい感情だ。
だからこそ。砕け散る『星山羊』と削り合い喰らい合う【モリガミサマ】を見ながら、四乃は思う。
(……私の、この恩は……一生かけても、返しきれない。……だから、せめて)
逆巻く風の中で。
どこまでも深い夜の帳の中で。
痛みも音も越えて、心から溢れた感情が言葉を紡いだ。
「……一生、ずっと傍にいる」
呪いのような。願いのような。
それでも、生きる事を諦めない為の少女の言葉が、夜の闇に深く溶けた。
四乃の視線の先。歪んだフェンスに背を預けたまま、二体の怪異へとその視線を向けている間宮二郷。
少女の心に深く深く、どこまでも深く刻まれたその誓いを彼が知らないのは、幸運か、それとも不運か。
答えは示されないまま……この除霊は、終局へと向かっていく。