東雲四乃には、間宮二郷が付いている
校舎の中に電子的な鐘の音が鳴り響く。
壁掛け時計が指す時刻は十二時を回っており、つまりは
「────ハッハー! 待ちに待った、メシの時間って訳だな!!」
喜びの感情を隠す事のない二郷。
歓喜の笑顔が悪役臭く、雀躍の言葉も三下臭いのは、寝不足と、漫画で育った情操教育のご愛嬌。
単なる昼食に対し何故それほどに高いテンションを……と、第三者が見れば一歩距離を取りそうな有様であるが、しかし二郷の立場から見れば、それも仕方のない事であると言えるだろう。
なにせ、間宮二郷は、昨晩から食事らしきものを何も食べていないのだ。
振り返れば、夕食を摂取した直後に東雲邸へ直行した二郷に待ち受けていたのは、大立ち回りの連続だった。
東雲邸に侵入した際に、不幸なエンカウントにより始まった似非強盗。
次いで、東雲四乃の自室で行った、【モリガミサマ】に対する命がけの挑発行為。
その合間に挟まっていた、五辻レイとの寸劇じみた遣り取り。
とどめに、午前中に発生した顔逆の怪異『りんどうくん』相手の鬼ごっこである。
いかな間宮二郷がホラー漫画で仕上がった異常者じみた精神を有しているとはいえ、その肉体はただの中学生の間宮二郷少年のものに過ぎない。
人間はカロリーが無ければ動く事はできないのである。
「うっし! それじゃあ俺は、購買でパン買い込んでくるぜ。悪ぃが、ちっとだけ待っててくれ。直ぐに戻るからよ」
四ツ辻中学校の昼食は弁当制。
二郷は、購買に自身の糧となる総菜パンを買いに行くべく、四乃にそう声を掛けてから席を立つ。少しでも四乃を一人にする時間を減らすべく、ショートカットとなる校内のルートを脳内で構築し、いざ一歩を踏み出そうとして
「……待って」
「うおっ!?」
しかし、その直前。
二郷の制服の袖を、四乃が遠慮がち摘む事によって、その歩みは中断させられた。
急制動の慣性によって崩れかけた体勢を、体幹の強さで制御する事に成功した二郷。
「ど、どうした────」
突然の四乃の行動に、その理由を問おうとした二郷であったが、二郷が言葉を言い切る前に四乃は箱状の物を差し出した。
「……これ」
差し出されたのは、水色のランチクロスに包まれた箱状の物体。
それを見せられた二郷は、首を傾げる。
ランチクロスに包まれている以上四乃が差し出したそれが、恐らくは彼女が持参したのであろう弁当箱という事は察する事が出来る。しかし、それを自身に見せる事が何を意味しているのか、それが二郷の思考の中では繋がらないのだ。
「……? あんた、あの朝の短ぇ時間で弁当作ったのか? すげぇじゃねぇか。それじゃあ、アンタが直ぐ弁当を食えるように俺も購買に急いで────うおっとっと!?」
今度は少し強めに袖を引かれる二郷。
「だからどうしたんだって! 俺の焼きそばパン売り切れるんだが!? ……ああ! ひょっとしてアレか? 弁当じゃ足りねぇから一緒に買いに行きてぇのか?」
「……」
他人の苦しみや悲しみについては人一倍敏感であるというのに、自分に向けられる正の感情にはこうまで鈍感であるのは、二郷の情操教育を昭和・平成・令和初期のホラー少年漫画が担った結果か、もしくは、それ以外の物が関係しているのか。
兎にも角にも、このままでは二郷は直ぐにでも購買に走り去ってしまう。そう判断した四乃は、いそいそとランチクロスに入った弁当箱を鞄からもう一つ取り出すと、自分の机にそれ等を並べて見せる。
「……これは、貴方のお弁当で、これが、私のお弁当」
そうして、自身の席の前に二郷の椅子を引き摺って移動させてから、二郷の目を、眼帯に隠されていない方の目で真っすぐに見つめて言う。
「……だから、購買には行かないで、私の傍に居て欲しい」
駆け引きも何もない、真正面からの言葉。
それを受けた二郷は一瞬目を丸くする。
「……は? 俺の? アンタ、俺の弁当まで作ってくれてたのか?」
ここに来て、ようやっと四乃の思惑に気が付いた二郷だが、彼にとってはあまりに予想外だったのだろう。呆けてその動きを止めてしまう。
そんな二郷を見た四乃は、無表情のままに唖然としている二郷の背中をぐいぐいと押し、席に着かせる。
そうして、退路を塞がんとでも言うように、二郷が口を開く前に二人分の弁当箱の蓋を開けて見せた。
開かれた弁当箱。
まず、目を引くのは卵焼きだろう。陽だまりを折りたたんだかのような鮮やかな黄色と、焦げ目のない美しい表面、更に丁寧に切り揃えられた断面は一種芸術的ですらある。
次いで、固すぎず柔らかすぎず、艶やかな緑色に茹でられたブロッコリーと、タコ型に切り揃えられたウインナー。
ご飯は醤油を染み込ませた海苔での二重構造となっており、海苔の下に削り節を敷く事で味に深みが増している。更に、隅には小さな胡麻団子が置かれており、デザートの役割を果たしている。
「……時間が無くて、凝った物は作れなかった。……ごめんなさい」
「いや、普通に美味そうだし、金払ってでも食いてぇレベルなんだが……マジで貰って良いのかよ?」
弁当の出来の良さに驚愕している二郷であるが、一方の四乃はあまり満足していなかった。
彼女は、【モリガミサマ】に憑かれたその日から、親を含めた誰とも接触する事が出来ず、料理も作って貰えなくなってしまった。
その為、幼少時から自身で料理をせざるを得ない人生を送って来ており……現実から逃避し、自我を守る為の数少ない娯楽として、現在、料理の腕はかなりの物になっているのである。
そうであるからこそ。
本来であれば、より手間をかけて上手い料理を作る事も出来る事から、二郷に初めて食べて貰うのが自身が作る事が出来る最高の料理ではない事に対して、申し訳なさを感じていたのだが……
「あんがとよ、東雲四乃ちゃん。それんじゃ遠慮なく────いただきます!」
「……あ」
その不安と負い目も、卵焼きを口にした二郷が笑顔を浮かべた事で、どうでも良くなってしまった。
「……いただき、ます」
四乃は、そう言ってから箸を二郷と同じように卵焼きに伸ばそうとして、自身の指が小さく震えている事に気付く。
(……私、いただきますと言って……食事が出来てる)
【モリガミサマ】に憑かれた事によって、幼少期から奪われ続けてきた、当たり前の日常。
誰かと一緒に、食事の席に着く。
『いただきます』と言って、食事をする。
ただそれだけ。たったそれだけの事。
どれだけ必死に求めても決して得られず、やがて諦めてしまった、そんなごくありふれた当たり前が、今、此処に在った。
「……っ」
東雲四乃の眼前で、弁当を旨い旨いと食べている間宮二郷。
彼は知らないだろう。
己の行動が、今現在も、どれだけ東雲四乃という少女の心を救っているのかを。
彼は知らないだろう。
己の存在が、どれほどまでに東雲四乃という少女にとって、暖かく眩しいものであるのかを。
この瞬間が、この一瞬が。東雲四乃の人生において、どれだけ掛け替えのない大切なものであるかを。
友人も、家族も、自身が繋がる全てを奪われ、生きる事すらも諦め、死を受け入れていた少女。そんな少女の傍に、笑顔でただ居てくれている。
それだけの事が、この世界の他の誰にも出来ない、特別な事であるという事を。
東雲四乃には、間宮二郷が付いている。
その事が、少女の人生において……生まれてから今までの、どの瞬間よりも幸福であるという事を。
四乃は、震える箸を動かし卵焼きを口にする。
その味は、ほんの少しだけ塩辛かった。