帰れなくなる
太陽は眩く輝き、空に浮かぶ不気味な紅い月────『腐れ月』の存在を覆い隠している。
そんな青空の下。昨日までと変わらない通学路であるというのに、歩みを進める間宮二郷には随分と様子が変わって感じられた。
(……いや、違ぇな。変わったのは状況と俺の心持ちか)
正体不明の怪物。守り神を騙るナニカである【モリガミサマ】。
その【モリガミサマ】に憑かれた少女である東雲四乃を助ける……漫画『逆さネジ』に描かれていた悪辣な結末を退け、幸せな未来へと導くという、当初の目的は変わっていない。
加わったのは覚悟。
巻き込まれるのではなく、自分の意思で、まだ見ぬ主人公の代役をやり遂げる。
この悪辣な物語の中に、間宮二郷という異物を明確に紛れ込ませる。
理不尽な恐怖の群像劇の表舞台に立つという覚悟だ。
二郷は、その最後の一押しとなった存在。自身の隣を歩いている少女、東雲四乃へと視線を移す。
「……」
夜の様な黒い髪を風に靡かせている四乃は、相変わらずの無表情である。だが、先の二郷との自宅での遣り取りがあったせいだろうか。二郷の手をずっと繋いだままで、その物理的な距離も近い。
(…………。いや、流石にこれは近すぎじゃねぇか?)
四乃は無表情のまま肩をぴたりと寄せ、時折その頭を二郷の学生服の腕へと軽く擦り付けるような動きすら見せている。
二郷としては、これは漫画本編でも描かれていた抑圧されていた孤独に対する代償行為……周囲の人間への積極的な接触が、二郷に向いた結果であると考えていたのだが、本編でもここまでの積極的な接触はしていなかった筈だ。
流石に少し気恥ずかしさを覚え、反対の手で頬を書きながら四乃に声を掛ける。
「あー……なあアンタ。手を握るのは、まあいいんだが……ちっとばかし、その、くっつき過ぎなんじゃねぇかなあって、俺は思うんだがよ……?」
「…………迷惑なら、やめる」
表情こそ変わらず無表情で、言葉こそ素直だ。
だが、繋がれていた四乃の手が、その悲しみを伝えるように握る力をほんの少しだけ強める。
「うぐっ……」
感情的に拒否したのであれば、或いは無視されるのであれば、屁理屈でも捏ねて対応ができたかもしれない。
だが、四乃のそのあまりにささやかで控えめな抗議に、二郷はかえって何も言えなくなってしまう。
二郷のホラーアクション漫画で染め上げられた思考回路の判断では、今の四乃は『化物の齎す恐怖に怯え、救いを求めている心細い状態』なのだ。
それ故に、彼女は手近に現れ、救いの手を差し伸べた二郷に縋り今の状態に至っている筈で……だからこそ、そんな孤独な少女の手を、気恥ずかしい、気まずいからなどという自分本位な考えで、無慈悲に振りほどく事は、漫画の主人公達に心を焼かれている間宮二郷にはできないのである。
……尤も、思考回路が導き出した判断自体がそもそも重要な部分で間違っている点。
特に、四乃の二郷へ向けている感情という点において、事此処に至っても全く正確に辿り着けていないあたり、上手い対処など元より不可能だったわけだが。
「違う。違ぇぞ。別に迷惑って訳じゃねぇんだ。 『誰か』が傍に居ねぇと怖ぇってのは理解できる。ただ、ほら。アンタが俺みてぇな奴と、本当は嫌なのに怖ぇから無理して手ぇ繋いでんなら……そうだとしたら、俺としてはいたたまれねぇんだよ。無理しなくても大丈夫だぜ? あの化物はここ数日は何にもできねぇ。それは俺が保証する。だから……」
ただ、それでもなんとか、現状の手を繋いでの仲良し登校な状態を解除して貰う為の理由を無理矢理に捻り出した二郷。
その言葉を受けた四乃は、一度ゆっくりと瞬きをしてから、眼帯をしていない方の目で真っすぐに二郷の目を見つめる。
「……無理なんて、してない。それに……誰かじゃなくて、私は貴方がいい」
「んんっ!? っ……う、ぐ! わかった、わかった! 俺の負けだよ! ただし、学校に着くまでだぞ!? それ以上はやる事があるから、悪ぃけど手ぇ放すからな!!」
「……ありがとう。嬉しい」
淡々と、飾らない言葉を返す四乃に、ガシガシと頭を掻いて混乱を誤魔化す二郷。
そんな二郷の様子を見ながら、ますます腕を体ごと密着させていく四乃。
当たっている控えめな感触を務めて意識しないようにしつつ、二郷は冷静になる為に言葉を吐く。
「……あー、ゴホン! それで、だ。今後の事について、道すがら色々話しておきてぇと思う。まあつまり【モリガミサマ】をどうやってぶちのめすかって事なんだがよ」
「……っ」
【モリガミサマ】という単語が出た瞬間に、四乃の手が震えたのを感じ、それを強く握り返しながら二郷は言葉を続ける。
「安心してくれ――――策はある。【モリガミサマ】は俺がなんとかする。けど、この場でその内容を口にする事はできねぇ。なにせ、ゴミカスストーカーの【モリガミサマ】は干渉こそ出来ねぇが、今もアンタを監視している筈だからな。アレは人の言語を話さねぇが、人語を理解してないって訳じゃない」
本編の漫画の内容を思い返しながら二郷は、今も監視しているであろうモリガミサマによく見えるように繋いでいない方の手の中指を立てる。
「人間の言語なんざ何の意味もねぇ。ただのテメェが愉しむ為の鳴き声だって考えてんだよ。多分な。だからこそ、アンタに頼みたい事が有る」
「……」
自身のヒーローである二郷が自分に何を頼んでくれるのか。自分は彼の為に何ができるのか。かけられる言葉に期待し足を止めた四乃はじっと二郷の目を見る。
二郷は、今度はそれに僅かも戸惑う事無く、その瞳を見返して言葉を続ける。
「アンタの三日間を俺にくれ。俺以外の誰とも話そうとせず、尚且つ、教室からも出来るだけ出ないで欲しい」
残酷な事を言っている自覚はある。仮初の罠であるとはいえ、四乃にとっては、ようやく訪れた他人と触れ合えるかもしれない機会なのだ。地獄の様な孤独を強いられてきた四乃にとって、最後になるかもしれない三日間を、不確かな希望の為に寄越せ等とは、傲慢も甚だしい。
(それでも、納得して貰うしかねぇ)
この三日間で四乃が他人と触れ合えば、その人物は最後の日に【モリガミサマ】に殺されてしまうから。そして【モリガミサマ】は、それにより更に深く絶望した四乃を喰らう事を望んでいるのだから。
「アンタも詳しくは知らねぇだろうが、【モリガミサマ】の姿が見えなくなったのは罠で」
「……わかった。……誰とも話さないし、教室からも出来る限り出ないようにする」
「実は……へ?」
説明をし終える前に、四乃は二郷の頼みを了承した。
何の迷いも、何の躊躇いもなく、
その様子に逆に困惑した二郷は、少し慌てながら言葉を返す。
「あ、いや、いいのか? 頼んどいてこう言うのもなんだけどよ、説明が必要なら、言える範囲全部話すぜ……?」
四乃は再び歩を進め始めながら、二郷の手を握り直す。
「……貴方は、私の傍に居てくれて……私と話してくれるんでしょう?」
「ああ、そりゃあ勿論……策のために動かなきゃならねぇ時以外は、俺は幾らでも傍に居るし、望むなら何時でも話し相手になるさ」
四乃はそんな二郷の言葉を聞いて、小さく頷く。
「……それなら、いい。……貴方が居てくれれば……私は、他になにも要らない」
あまりに純粋で真っすぐなその言葉。二郷はその言葉と無条件の信用が自身にかけられている四乃の期待の大きさであると認識する。だからこそ、繋いでいた手を解き、四乃の両肩に腕を置く。
そうして、急に二郷に真正面から見つめられて、無表情のまま固まってしまった四乃に、言葉を返す。
「────あんがとよ。『何もしないでいてくれる』ことこそが、今のアンタにお願いしたい戦いだ。簡単で、難しくて、苦しくて、そんでもって長い戦いだ。けど、アンタを通して薄汚く覗き見をしてやがる【モリガミサマ】の目と耳を塞ぐ。それだけで、勝ちの目が見えてくる」
そして、二郷は四乃に、まるで太陽のような笑顔を向けて続ける。
「安心しろ。絶対に助ける。ンでもって、俺しか要らないなんて寂しい事は言わせねぇように、俺なんかよりもっと大切なモンをその手に沢山沢山、抱えきれねぇ程に持たせてやって、幸せに過ごせる未来を必ず手に入れてやるからよ」
そして、四乃が何か言い返す前に、二郷は再び、今度は自分から四乃の手を引き学校へ向けて通学路を歩きだした。
────貴方だけが、いい
流れる風の音に、その四乃のあまりに小さな声はかき消され、ついぞ二郷の耳には届かなかった。
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自分達の教室に入り、席に座る二郷と四乃。
二郷は朝の雑談や授業の準備に興じている周囲のクラスメイト達の様子を眺め見て、内心で感心していた。
四乃の周りに人が寄ってこないのは今更な事であるが、二郷にも誰も興味を示さない。そもそも、二郷と四乃。彼ら二人が入って来た事にすら誰も何一つ反応を示していなかったのである。
(【スイガラ】はきっちり約束を守ってくれてるって訳か……ここまで綺麗に操れるたぁ、流石としか言いようがねぇな。心底おっかねぇぜ)
脳裏に浮かぶのは、夜の沼のような深く底知れない印象を持つ少女の姿。脳に成り代わる化物【スイガラ】。その特殊個体である五辻レイ。
彼女は二郷との約束通り、周囲の学生達を操り、二郷と四乃の姿を認識させず、近づかないように操作してくれているようだ。
ならば、少なくともこの教室は安全地帯で、四乃が不用意に第三者から接触される事は――危険は全くない。
「────訳がねぇんだよなぁ」
二郷はその原因を想起し、一度恐怖によりブルリと身体を震わせてから、静かに席に座って小説を読んでいる四乃の元へと近付いていく。そうして、四乃の前の空いている席に腰かけると、声を潜めて語りかける。
「なあ、アンタ。東雲四乃ちゃん。ここ数日はこの教室に長い時間居て貰う事になるから、万が一にも事故がねぇように注意して欲しい事があるんだがよ」
「……注意?」
二郷が来た事で直ぐに小説を閉じた四乃は、掛けられた言葉の不可解さに首を傾げる。
次いで、眼前の二郷が、四乃を不安がらせないように態度にこそ出さないよう注力しているが、それでもその笑みが若干引き攣ってしまっている事を、その洞察力により察して、小説を机の中に仕舞った。
それを確認した二郷は、大きく深呼吸をし、意を決したように口を開く。
「この教室に備え付けてあるテレビ、画面が真っ赤だろ?」
この教室に、テレビなんて無い────そう言おうとした四乃だが、二郷の言葉で初めてその存在を思い出したかのように、教室の左前。天井の部分に吊るされているテレビの存在を思い出した。
「……どうして、私」
まるで、意識が意図的に『其れ』の認識を拒んでいたかのような違和感。四乃はテレビに視線を向けようとし……そこで頬に手を触れられ、強制的に視線を二郷へと戻される。
その大胆な行為に若干頬を染めた四乃に対し、二郷は真っすぐその目を見て語りかける。
「 【アナログジャック】 」
四乃が聞きなれない単語を口にする二郷。彼は困惑する四乃を前に、言葉を続ける。
「あの赤い画面のテレビは【モリガミサマ】とは別の『化物』だ。いや、化物ってよりは、どちらかと言えば現象寄りなんだがよ……まあとにかく、アンタにはあのテレビを、意識して見ないようにして欲しい」
「……モリガミサマ以外にも、ああいう存在が……いるの?」
突然認識させられた怪奇現象に対し、それでも冷静さを保ったまま呟く四乃だが、そんな四乃に対して二郷は困ったように肯定の意を示す。
「ああ……居る。最悪な事に、おっかねぇ化物はそこら中にうじゃうじゃ居やがる。この学校は、その中でも特に異常だ」
四乃の意識がテレビから外れたのを確認した二郷は、大きくため息を吐きながら説明を続ける。
「いいか。あの【アナログジャック】が居る赤いテレビ画面。アレに視線を向けると、その度にラジオのチューニングみてぇに徐々に『向こう側』と波長が合っちまうんだ。そんで……あんまし波長が合うとあの画面の中に白い女が見える。もしその時にテレビから視線を逸らしちまったら……」
二郷は、一度唾を飲み込んで続きの言葉を吐く。
「────帰れなくなる」
あまりに真剣な声。そして、自身の頬に触れている二郷の手が微かに震えていることから、四乃は【アナログジャック】がどれだけ恐ろしい化物なのかという事を理解する。
「……でも、何故」
疑問を覚える四乃。
四乃が推測するに、【アナログジャック】は『波長』が合わない人間は無意識にその存在から意識を反らすような代物に思える。
例えば、つい先ほどまでの四乃が、教室にテレビが存在する事すら忘れていたように。
ならば、先ほど二郷が四乃に言葉で気づかせたようにして、無理に意識を向けるような事をしなければ、影響が無い存在なのではないか。
であるのに何故、二郷はあえてそのリスクに四乃を晒すような事をするのだろうか。
その意図がわからず、じっと二郷の目を見つめ返す四乃。そんな四乃に二郷は自身の首筋を揉みながら言葉を返す。
「【アナログジャック】はな、こっちが見てなくても、向こう側から波長を合わせてくる時があんだよ。偶然波長を合わせられちまった時に、知識がねぇと詰みだ。そんでもって教室に長い間居れば居る程、事故的に白い女を見ちまう可能性は上がる」
二郷は心底忌々しそうにため息をつく。
「【モリガミサマ】のクソッタレは、アンタを喰らう為にアンタを狙う化物も牽制してやがった。だからこれまで襲われる事はなかったんだが……この三日間は、アンタは普通の生徒と同じように化物連中の標的になっちまう。勿論、俺がなんとしてでも守るつもりだけどよ、万が一に備えて『特にやべぇ化物』の知識だけは身に着けといて欲しかったんだ」
二郷のその言葉を聞いた四乃は、しばらくの間沈黙する。そして、一度両目を瞑り、ゆっくりと開くと
「……つまり、ずっと貴方だけを見ていれば……何も問題ない?」
「は!? いや、それは問題……無い、のか?」
突拍子もない四乃の発言に、そうなのか? いや、そうかも……と自問自答する二郷。
以降、有言実行。
言質を取ったこの日の四乃は、延々と二郷を見続ける事となり、その視線を受け続ける二郷は、授業中、延々とむず痒さを覚える事となった。
授業の合間の休憩時間。席を外し、男子トイレで小用を足してから手を洗っていた二郷。
今後の計画を頭の中で巡らせながら、顔を上げて鏡を見ると
────鏡に映った彼の背後に、黒い人影があった。
「ぬうひぎぃいいいいい!!?」
突然の恐怖により首を絞められた怪鳥のような悲鳴を上げつつ、懐から数珠と謎の水晶を取り出し瞬時に殴りかかる二郷。その恐るべき速度の裏拳は人影に直撃────する直前で、人影の正体に気づいた二郷の意思により止まった。
「────やあやあ、どうも。素敵な悲鳴をありがとうございます。こんな所でお会い出来るなんて奇遇ですねぇ、二郷君」
「て、テメェ! 奇遇も糞もあるか!! ここ男子トイレだぞ【スイガラ】!!」
寸止めされた二郷の裏拳。その先に居たのは、少女。
学校指定の黒いセーラー服に、スカート丈は校則通りの膝下。肩口で髪を切り揃えた、一部が溶解している笑顔を模した仮面を被ったその少女は────【スイガラ】こと五辻レイだった。
「なるほど男子トイレですか。二郷君。こんな所に僕を連れ込んでどうするつもりです? ひょっとして、都合の良い女の僕を都合よく使おうと?」
「勝手に侵入してきたうえに悍ましい事言うんじゃねぇよ!?」
呼吸を落ち着けるために、自身の胸に手を当てた二郷は、数珠と水晶を仕舞い一歩後退すると、五辻レイに対して警戒を崩さず口を開く。
「……で、何の用だ。どうせ教室には東雲四乃ちゃんが居て話せねぇから、俺が一人になるタイミングを見計らって接触してきたんだろ?」
「おやおや、二郷君が僕の事を随分と理解してくれているようで嬉しい限りです」
「良いから要件を言いやがれ要件を」
五辻レイは鏡の横に置かれたペーパータオルを一枚引っ張り出すと、それを折りたたんでフニャフニャな紙飛行機を作りながら二郷の問いに返事を返す。
「では、お言葉に甘えさせていただきましょう。要件は二つです。一つ目は、シンプルに二郷君の作戦の進捗状況の確認。そしてもう一つ────」
五辻レイが投げた紙飛行機もどきは力なく床に落ちる。
「【アナログジャック】について、どうして東雲四乃さんに『嘘の情報』を教えたのか。その意図を聞くためです」
窓から差し込む陽光により逆行となる中、笑顔を模した仮面の表情だけが二郷の目にはっきり映っていた。