14「静寂と夜の誘い-④」
「……なぁ、何度も言うが、これだけは絶対に着ないからな」
バーレスク・ノヴァの楽屋内。
煌びやかな鏡台に囲まれた化粧室で、アクセルはソフィアとユキに向かって断固たる意志を表明した。
しかし――。
「何言ってるの? ちゃんと袖を通してくれないと、着付けもできないじゃないの」
「アクセルさん、せっかくソフィアさんが新しくデザインした特別な衣装なんですよ……?」
ソフィアは両腕を組んでこちらを睨みつけ、ユキは鏡越しに微笑んでいる。
二人の視線は強烈だった。これは完全に"詰んでいる"。
目の前に吊るされた"それ"は――黒と赤の着物風のドレス。繊細なレースがあしらわれ、細かい金刺繍が施された帯。袖口にはフリルが縫い付けてあり、裾には繊細な薔薇の装飾。そして、極めつけは――白いヘッドドレス。
「……僕は便利屋であって、マスコットじゃない」
「知ってるわ。でも今日は全員にとって"特別"な夜でしょ?」
「お前の中で"特別"の意味を問いただしたいんだが」
「いいから黙って着なさい」
「無理無理無理無理!」
アクセルが後ずさる。しかし、その瞬間、背後からユキがそっと両腕を回し――。
「えいっ」
――瞬間、着物の袖が腕をすり抜けた。
「なっ……!?」
アクセルの抵抗虚しく、二人の巧みな連携によって、見事に和装ロリィタが体に巻きついた。
「はい、完成~♪」
「似合ってるわよ、アクセル」
――まるで処刑宣告だった。
鏡に映った自分を見た瞬間、アクセルは思考を止めた。
――赤と黒を基調とした和装ロリィタ。
――繊細な金糸の刺繍が入った帯、袖口にはフリル。
――足元には白い足袋と黒塗りの下駄。
――頭には純白のレース付きのヘッドドレス。
「……終わった」
魂が抜けたように呟くアクセルを見て、ユキは目を輝かせる。
「凄いです、アクセルさん! 本当に似合ってますよ!」
「いやいや、どこをどう見れば似合ってるって話になるんだ?」
呆れ混じりに言うが、ユキは楽しそうにアクセルの袖を触る。
「この袖の広がりとか、動くたびにふわっと揺れる感じが素敵ですよね」
「そんな分析いらないから!」
その横で、ソフィアは満足げに腕を組んでいた。
「うん、やっぱりあなたには私の衣装を着てもらう価値があるわね」
「そんな価値、僕にはいらない!」
ソフィアがクスリと笑う。
「それにしても、貴族の会場で目立つには十分ね」
「いや、むしろ目立ちすぎるだろ……?」
アクセルは眉をひそめた。
「こんな恰好で劇場を歩いたら、貴族たちの会話どころか、僕が劇場の名物になっちまう」
しかし、ソフィアは余裕の笑みを浮かべる。
「大丈夫よ。バーレスク・ノヴァには変わった恰好の貴族も来るし、そういう趣味の人も少なくないわ」
「どんな世界だよ」
「それに、この衣装はただの飾りじゃないの」
「……?」
「この衣装、バーレスク・ノヴァの上流貴族向けの『特別な会員席』に案内されるための礼装でもあるのよ?」
「……は?」
アクセルは困惑した表情でソフィアを見る。
「ちょっと待てよ。つまり、これを着てると貴族たちが出入りする特別なエリアに入れるってことか?」
「その通り。劇場の中には一般の客が立ち入れない“VIPルーム”があるの。そこには、今日の公演を見に来た資産家や投資家たちが集まってるわ」
彼女の和装ロリィタの説明に、ユキが補足を付け加えた。
「でも、あのエリアに入るには特別な招待状が必要で……でも、この衣装を着ていれば、関係者として通してもらえるんです」
「……なんか、最初からハメられてた気がするんだが」
「そんなことないわよ?」
ソフィアはしれっと笑う。
「でもちょうどいいじゃない。偽の招待状の送り主を探るには、劇場に集まっている貴族たちの話を聞くのが一番手っ取り早いでしょ?」
「……クソッ」
アクセルは顔を覆った。
――結局、こうなる流れだったのか。
「いい? その会員席には、最近劇場の投資話をしていた貴族や、裏で動いてる何者かがいる可能性が高いの」
「それを探るために、僕がこの恰好で潜入しろってことか?」
「そういうこと。楽しんできてね、アクセルさん♪」
ユキが笑顔で送り出そうとするが、アクセルはもう何も言えなかった。
(……もうどうにでもなれ)
アクセルが諦めたところで、楽屋の外が再び少し騒がしくなる。舞台の本番が近づき、スタッフたちが慌ただしく動き始めた。
「ユキ、そろそろ準備を」
復帰公演の舞台監督の声がかかる。ユキは鏡越しにアクセルを見て、小さく微笑んだ。
「アクセルさん、来てくれてありがとうございます。おかげで、落ち着いて舞台に立てそうです」
「お前、普通なら緊張してる場面だろ」
「うふふ。でも、アクセルさんがいると楽しくなるんです」
そう言うと、ユキは舞台衣装の純白のドレスの裾を整え、鏡の前で深呼吸した。その横顔は、舞台へと向かう覚悟を決めた役者のものだ。
ユキが舞台へ向かった後、ソフィア、レオン、マリア、アクセルの3人は楽屋に残った。
アクセルは手元の招待状を見つめる。
「……改めて見ると、本物と偽物、よくできてるな」
レオンが隣から覗き込む。
「筆跡は本物とそっくりだ。だけど、細かいフォントや紙の質感が違うな」
「何か気になる点は?」
マリアが問いかける。アクセルは封蝋を指でなぞって目を細めた。
「本物はワックスの質が均一なのに、この招待状は少しムラがある。つまり、偽物は本来の道具を使わずに、手作業で封をしたってことだ」
ソフィアが頷く。
「つまり、劇場内の誰かが独自に偽造した可能性が高いわね」
「問題は誰が何の目的でこんなものを送ったか、だな」
レオンは腕を組む。
「偽物を送った理由が僕たちを誘導するためなら、送り主は劇場の何かを知ってほしかったのか……それとも罠か」
「どちらにせよ、探らないといけないな」
アクセルは立ち上がり、和装ロリィタ姿のまま真剣な表情で言う。
「じゃあ、そろそろ行こうか。貴族たちが集まるVIPルームへ」
ソフィアは微笑んで、アクセルの帯を軽く直した。
「ええ、しっかり見聞きしてきなさいよ、可愛い便利屋さん」
「……クソッ、こんな格好で情報収集する羽目になるなんてな」
アクセルは静かに溜め息をつきながら、バーレスク・ノヴァの奥へと歩を進める。しかし、劇場のロビーは既に、公演が始まる直前の熱気に満ちていた。豪奢なシャンデリアの下で、貴族たちの華やかな談笑とメディア関係者の取材合戦が繰り広げられている。
そこへ、和装ロリィタ姿のアクセルが足を踏み入れた――瞬間。
「――ッ!」
場の空気が、一瞬だけ固まった。
――赤と黒を基調としたロリィタ和装。
――金糸の刺繍が施された帯、繊細なフリルがあしらわれた袖口。
――足元には絨毯を踏み抜く漆黒の厚底ブーツ。
そして、何よりも特異なのは――このデザインが、既存のどの和洋折衷の流れにも属さない、完全新規のスタイルであることだった。
劇場のロビーに集う扇動家と寄生伝播家、各メディア関係者や貴族、資産家たちの視線が、一斉に彼へと向かう。
『おい……あのドレス、見たことがないぞ』
『もしかして、ソフィア・イシムラの新作デザイン?』
『いや、彼女はまだブランド展開していないはずだ……まさか、試作品か?』
『すごい……でも、あれを着こなせるのって誰なの……?』
呟きとざわめきが広がる。
すぐに、劇場内を取材していたインフルエンサーの一人がアクセルに気づき、目を輝かせた。
「ねぇ、あなた――! この衣装について、少し話を聞かせてもらえない?」
(……クソッ、目立ちすぎたか)
内心で舌打ちしながら、アクセルはすぐに「適切な対応」を取るべく一歩前へ進むが、彼の動揺を見抜いたレオンとマリアが、絶妙なタイミングで動いた。
「申し訳ないが、彼女はテスラ家の関係者だ」
「無作法な質問はご遠慮ください」
マリアの冷静な声が、ロビーのざわめきを鎮める。
その隣で、レオン・ニコラヴィッチ・テスラが堂々と前に出た。
「お騒がせして申し訳ない。彼女は……いや、彼は私の専属の運転手であり、便利屋でもある」
『運転手?』
『便利屋?』
『え、じゃあ、まさか男なのか……?』
一部の観客が驚いたように口を開くが、それ以上の追及は続かない。
レオンの「テスラ家の嫡男」としての立場と、マリアの「威圧的な護衛の雰囲気」が、その場を押さえ込んだのだ。
(……助かった)
アクセルは心の中で息を吐く。
表向きは、「貴族の付き人が目立つ衣装を着ていただけ」――その設定を、レオンとマリアが瞬時に作り上げてくれた。
(ようやくVIPルームに向かえる……)
そう思い、アクセルが歩き出そうとした瞬間だった。
「おやおや、まさかこんなところで会うとはね」
――煙管をくわえたイザベラの声が、背後から響いた。
(……やっぱり、嫌な予感は当たるんだよな)
アクセルがゆっくりと振り返ると、そこにはイザベラだけでなく、エイダとリベットの姿もあった。
三人とも、公演の華やかな雰囲気に合わせた装いをしている。
イザベラは、深い紅のロングジャケットを纏い、その下に漆黒のブラウスとスリット入りのスカートを合わせていた。
金の刺繍が施された襟元には、五番街の掌握者を示すように拳を築き上げた紋章が控えめに輝いている。彼女が持つ煙管の煙が薄く揺れ、その姿に漂うのは気品というよりも、夜の猛禽のような鋭さだった。
エイダは、普段のシンプルな衣服とは違い、無機質な装飾が散りばめられたダークグレーのドレスを纏っていた。
ドレスの布地には僅かに光を反射する霊力の粒子が練り込まれ、角度によっては淡い青白い輝きを見せる。首元には、拘束具としての機能を取り除かれた黒鉄細工の首輪が嵌められ、彼女の本質――ホムンクルスであることを強調していた。
そして、リベット。
普段はスラムのバラック小屋で暮らし、掠れた衣服に包まれていた彼女が、今日だけは違っていた。
彼女の身に纏われたのは、柔らかいベージュと焦げ茶のグラデーションがかった膝丈のドレス。細やかなフリルとリボンが控えめに施され、スラムの少女が着るにはあまりに上質な一着だった。
リベット自身も、どこか居心地の悪そうな様子で、スカートの裾を指で軽く摘まんでいる。
「え、えへへ……なんか、落ち着かなくて……」
彼女はそう言いながらも、目を輝かせていた。
イザベラは、じっとアクセルを眺めたあと、軽く口角を上げる。
「ふーん……やっぱり似合ってるわね」
「……お願いですから無視してください。僕はここにいません」
「いいえ、目の前にいるわよね? それとも、変装を解いたつもり?」
イザベラは皮肉気に笑いながら煙管の灰を落とす。その隣で、エイダとリベットがアクセルの姿を見た途端――。
「……アクセル先輩!?」
「アクセルくん、それ……もしかして趣味なの?」
二人の目が驚愕と興味に満ちたものに変わる。
エイダは顔を手で覆いながらも、目の端でしっかり観察している。リベットは無邪気にアクセルの袖を引っ張った。
「すっごく可愛い! これ、どこで買ったの? 着てみたかったの?」
「違う! 仕事だ!」
アクセルが即座に否定するが、リベットはきょとんと首を傾げる。
「でも、似合ってるよ?」
「……そりゃあ、慣れてるからな」
「……は?」
エイダがピタリと動きを止めた。
「慣れてる……?」
「いや、だから変装の訓練はイザベラ師匠から散々受けたんだよ」
「……へえええええええええええ」
エイダの目が怪しく輝く。
「そっか……そうだったんですね、先輩」
「なんだよ、その含みを込めた納得した顔は」
「いえいえ、ただの確認ですよ~?」
そんな中、レオンはアクセルの姿を改めて見て、思わず微妙に顔を背けた。
「……なんだよ、レオン。その反応」
「べ、別に……ただ、思ったより普通に似合ってるから……」
「……今なんて?」
「……だから、思ったより似合ってるって……」
アクセルは目を細めた。
「おい、それってつまり、僕が普段から女装に向いてるってことか?」
「いや、そういう意味じゃなくて!」
レオンが焦るように言い訳をする。
その様子を眺めていたリベットがくすっと笑った。
「ふふっ。レオンくんって、意外と純情なんだね」
「は……?」
レオンが驚いたように振り向くと、そこには、初めて見る少女の姿があった。
――スラム育ちの少女らしからぬ、柔らかいベージュのドレス。
――少しそわそわしながらスカートの裾を指で摘んでいる。
――どこか落ち着かない様子なのに、その瞳だけはまっすぐだった。
(……誰だ、この子?)
リベットは軽く会釈し、元気な声で言った。
「はじめまして! 私はリベット。エイダお姉ちゃんと、イザベラ先生と一緒に来たんだ」
レオンは一瞬、返事が遅れた。
妙に声が出しにくかったのは、初対面のはずなのに『何かを感じた』からだろうか。
「……ああ、俺はレオン・ニコラヴィッチ・テスラだ。よろしく」
短く、機械的に名乗る。
だが、リベットの笑顔は変わらず、彼の目をじっと見つめていた。
(……なんだろう、この感じ)
僅かに心の奥で小さな違和感が生まれる。
ただの自己紹介なのに、まるで何かを見透かされているような――。
けれど、それが何なのかは、まだ分からなかった。




