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便利屋ハンドマン-HandMan-  作者: 椎名ユシカ
第3章 青少年期 専属運転手編

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12「静寂と夜の誘い-②」


 シェルタード・セラフは、ゆっくりとバーレスク・ノヴァの正面玄関前で動きを止める。車内に響くエンジンの低い唸りが消え、静寂が訪れる。しかし、その外の世界は対照的に賑やかだった。


 煌びやかな照明が赤と金に彩られた劇場の外壁を照らし、入り口には大きな看板が掲げられている。「幻想と現実の狭間へようこそ」――その一文が、華やかな夜の幕開けを告げていた。


 正面玄関前には、多くの貴族や資産家たちが集まり、優雅に談笑している。しかし、彼らの華やかな衣装の合間を縫うように、取材陣やニューメディアがカメラを向け、フラッシュが絶え間なく光っていた。豪奢な馬車や浮遊型蒸気自動車が列をなす様は、まるで社交界の舞踏会のように羨望を浴びている。


 そんな喧騒の中、後部座席のレオンは未だに静かに眠っている。アクセルは小さく息を吐き、ルームミラー越しに彼の顔を見やった。


「おい、レオン、着いたぞ」


 返事はない。レオンは薄く眉を寄せながらも、すっかり疲れ切った様子で眠り込んでいた。アクセルは少しだけ考え、最終的に彼の肩を軽く叩くことにした。


「おい、起きろ。着いたぞ」


 微かに瞼が動く。そして、レオンの目がゆっくりと開いた。


「……ん、もう着いたのか?」


 寝ぼけた声で呟きながら、彼はぼんやりと車内を見渡す。そして、車窓越しに目に入った光景に、明らかに表情を変えた。


 豪華絢爛な劇場の外観、賑わう貴族や資産家たち、そして飛び交うカメラのフラッシュ。今までウロボロス学院という閉ざされたネガティブな世界にいたレオンにとって、あまりにも異質な光景だった。


「……これが四番街の娯楽文化、か」


 ポツリと漏らすように呟いた彼の声は、どこか戸惑いを帯びている。これまで貴族の社交場は何度も経験してきた。だが、それとは違う――ここには格式や伝統とは異なる、享楽と熱狂が渦巻いている。


 男たちは絢爛な燕尾服に身を包み、女たちは品のある妖艶な出立ちのドレスを揺らしながら劇場の階段を上っていく。劇場前を埋め尽くす赤い絨毯には、足を踏み入れる者たちの影が交差し、煌めくジュエリーや金細工のアクセサリーがライトに反射して光を放っていた。


 そして何より、カメラのフラッシュが絶え間なく瞬いていた。


 取材陣やニューメディアが、来場者たちにマイクを向けている。


『ユキ・シラカワ復帰公演、最終日の意気込みをお聞かせください!』

『本日のショーに期待していることは?』


 そんな声が次々と飛び交い、まるでここが一大イベントの会場であることを示しているかのようだった。

 レオンは改めて、ここが特別な夜であることを実感する。


「……ほら、降りるぞ」


 隣からアクセルの声がかかる。彼はすでに車のドアを開け、軽く手を伸ばしていた。


 レオンは小さく息を吐き、シートベルトを外すと、ゆっくりと車を降りた。


 外の空気は熱を帯びており、冷たい夜風が吹いているはずなのに、周囲の熱気がそれをかき消しているかのようだ。レオンは一歩踏み出すと、視線を向けてくる数人の貴族たちの視線を感じた。


 テスラ家の嫡男――そういう意味で、彼はどこに行っても注目を浴びる立場だった。だが、この場にいる人々の目線は、それとは少し違うような気がする。


 ――好奇の目。

 ――軽い探るような視線。

 ――そして、「この場に相応しいのか?」と値踏みするような眼差し。


 レオンは僅かに眉を寄せ、足を止める――いや、止めざるを得なかった。


『場違いな場所に来たのではないか』


 そんな考えが、一瞬、脳裏をよぎる。だが、その肩を軽く叩く者がいた。


「気にするなよ。貴族のガキが珍しいってだけだ」


 アクセルが軽く肩を押し、先に歩き出した。レオンは彼の背を見ながら、少し遅れて足を動かす。


 目の前にそびえるのは、煌めく豪奢な劇場。巨大なアーチ型の扉が開かれ、内部からはオペラの序曲のような優雅な音楽が流れてくる。赤い絨毯が階段を包み込み、大理石の柱と金装飾の天井が夜の世界の門を彩っていた。


 入り口には、漆黒の制服を着たドアマンが二人、恭しく立っていた。その隣には受付係の女性が控えている。レオンは改めてその荘厳な光景を目にし、驚きを隠せなかった。


「……こんな場所が、四番街にあるなんてな」

「まだ入り口だぞ?」


 アクセルが少しだけ笑いながら、軽く手を挙げる。


「今日はユキさんとソフィアさんの招待で来てます。裏口に連絡すれば分かると思うよ」


 受付係は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに慇懃な態度に切り替える。


「……ユキ様のご関係者でいらっしゃいましたか」


 彼女は劇場の奥へと通信を入れ、何やら確認を取っているようだった。レオンはそのやり取りを見ながら、僅かに疑問を抱く。


「……お前、ここに知り合いがいるのか?」

「忘れたのか? この前、ウロボロス学院への送迎中に言っただろ。もしかして、本当に信じてなかったのか?」


 アクセルは肩をすくめ、気のない調子で答える。


「ユキさんってのはバーレスク・ノヴァのアイドルなんだ。つい最近まで行方不明だったけど、復帰したばかりでね。今日は復帰公演の最終日ってわけだ」


 レオンは軽く息を吐き、視線を劇場の内部へと向けた。煌めくシャンデリア、赤と金に統一された華麗な内装、重厚な絨毯が敷かれた広いホール。


 ――まるで夢の中の世界のようだった。


 そして、レオンの心の奥で、ふと小さな疑問が浮かぶ。


(なぜ、アクセルはここまでこの世界に馴染んでいるのか?)


 彼は五番街の便利屋のはずだ。だが、その振る舞いには、まるでこの場に馴染んでいるかのような自然さがあった。


 レオンは僅かに眉をひそめる。しかし、その疑問を口にする前に、受付係が再び口を開いた。


「お待たせしました。ユキ様のご招待リストにお名前がございます。どうぞ、こちらへ――」


 そう言って、彼らを案内するためにホールの奥へと続く扉が開かれる。しかし、劇場内へ足を踏み入れるや否や、そこにはさらに喧騒が待ち受けていた。


 ロビーには既に数多くの人々が集まっており、煌びやかなシャンデリアが頭上に輝き、赤と金のベルベットが至る所に装飾されている。華やかさに溢れた空間だったが、その場にいる者たちの眼差しはどこか鋭く、獲物を狩る捕食者のように研ぎ澄まされていた。


『おや、テスラ家の御曹司がご到着とは、これはまた珍しい』


 性根の腐った扇動家(デマゴーグ)の一人が、不敵な笑みを浮かべながら口火を切る。


『そういえば、テスラ家の財政が危機的状況だという噂が流れていますが、本当ですか? 過去の研究投資の失敗で負債が増え続けているとか?』


『現当主様の体調はいかがです? 一部では既に危篤状態という話まで出ていますが、まさか、事実ではありませんよね?』


『おいおい、それよりも気になるのは別の話じゃないか?』


 別の寄生伝播家(インフルエンサー)が、ニヤニヤと笑いながら話に割って入る。


『レオン坊っちゃん、あなたの母上についての噂、ご存知ですか? どうやらテスラ家の元侍女とご当主様が――』


 その言葉に、レオンの顔色が変わった。握りしめた拳が震え、肩が僅かに強張る。マリアもまた、冷静な表情を保とうとしながらも、その指先は膝の上で硬く組まれていた。


『まさか、本当にレオン坊ちゃんは正式なご子息ではない……? つまり、キミって本当はテスラ家の正統な血筋ではないのでは?』


 ざわめきが広がる。ロビーにいた投資家や貴族たちも、興味深げに耳を傾け始めた。


『それともう1つ、大事なことをお聞きしてもいいですか?』


 今度は、別のオールドメディア関係者が声を張る。


『テスラ家が非合法な人体実験を行っているという話は、事実でしょうか? 聞くところによると一部では、三環調和球(トリニティ・スフィア)の研究に使われた材料が人道的に問題のあるものだと言われていますが、これについて何かコメントは?』


 質問が畳み掛けられる。次々とぶつけられる疑惑に、レオンとマリアは困惑の色を隠せなかった。人の多さと際どい質問に、レオンの呼吸が浅くなり、マリアもまた何かを言おうとするが、声にならない。


 ――その時。


「……いい加減にしろよ。その二人は便利屋ハンドマンの顧客だぞ」


 低く、静かな声がロビーに響いた。


 ――刹那の沈黙。


 アクセルは前に出ると、周囲の人間を睨みつける。ロビーに満ちていた喧噪が、一瞬にして霧散した。アクセルの低く冷ややかな声が、空気を凍らせたのだ。


 扇動家(デマゴーグ)寄生伝播家(インフルエンサー)、オールドメディアの取材陣は一瞬、言葉を失ったかのように固まる。しかし、すぐに何人かが顔を見合わせた後、乾いた笑いを漏らした。


『……へぇ、なるほどね。五番街の便利屋が、まるでテスラ家の護衛みたいなことを言うじゃないか』


『でもさ、この場を仕切る権限があるのか? ここは四番街の劇場でキミの管轄外なんだろ』


『それとも何か、アクセル・ダルク・ハンドマンがテスラ家の雇われ犬になったってことか?』


 皮肉交じりの言葉が飛ぶが、アクセルは微動だにせず、ただ静かに彼らを見据えた。その視線には、圧倒的な冷徹さと底知れぬ威圧感が宿っている。


 ――そして、彼の功績と全ての区画への影響力を知っている者は理解した。


 この少年が五番街の最恐の便利屋であり、かつてのアンクルシティで最強の男だった“ベネディクト・ディアボロ・ファルコーネ”を地に伏した存在であることを。


 それに気づいた何人かは、僅かに息を呑み、無意識に後ずさる。まるで猛獣と対峙したかのような、理屈では説明できない恐怖が、彼らの背筋を冷たく走る。しかし、その逸話を陰謀だと信じていた無知な者は、依然として言葉を重ねた。


『ふん、そんな古い話が何の役に立つのかしら。そもそも、お前自身にも怪しい噂があるじゃないの』


『例えば、だ――お前、過去にホバーバイク大会で八百長をやったって話があるよな?』


 その言葉に、周囲がざわめいた。レオンとマリアも、驚いたようにアクセルの横顔を見つめる。しかし、当の本人はただ気怠げに肩をすくめるだけだった。


「……八百長ねぇ」


 呟くように言うと、アクセルはゆっくりと視線を巡らせた。


「まあ、確かにな。昔はちょっとした“悪さ”もしたもんだね。ホバーバイクの大会で八百長をやったこともあるし、五番街の賭け試合で妙なブックメーカーが動いてたのも知ってる。面白い話だろ?」


 何気なく口にしたその言葉に、さらにざわめきが広がる。


『な、なんだと……?』

『マジかよ……そんな話、今まで表には……』


 インフルエンサーやメディア関係者たちが互いに顔を見合わせる。まるで、目の前に転がった獲物をどう料理するべきか悩むハイエナのように。だが、アクセルは彼らの反応を意に介さず、防護マスクを首に掛けて妖艶な笑みを浮かべた。


「僕の話がそんなに面白いなら、勝手に騒げばいいさ。でもな――」


 彼は一歩前へ進み、低く、しかし明確な語調で続けた。


「お前らがこうやって僕の“過去”に夢中になってる間、テスラ家の話はどうでもよくなっただろ?」


 ――その瞬間、場の空気が変わった。レオンとマリアに向けられていた無遠慮な視線が、一斉にアクセルへと集中する。ゴシップ好きな記者たちやデマゴーグたちは、一瞬の躊躇の後、次々と新たな質問を投げかけ始めた。


『ねえ、詳しく聞かせなさいよ! その八百長って、具体的にどうやったの?』


『五番街の賭け試合のブックメーカーって、今も動いてるのか?』


『なあなあ、五番街の次期掌握者でありながら、そんな裏稼業にも関わってたってことか?』


 レオンとマリアへの質問は完全に止まった。今や、全員の関心はアクセルが抱える“問題のある過去を暴くこと”に移っているのだ。レオンは信じられないという表情を浮かべ、マリアは困惑しつつも、何かを悟ったような眼差しでアクセルを見つめる。


 ――この男は、自らを“盾”にしたのだと。


 二人が責められることを避けるために、アクセルは自身の“過去”を自ら晒し、その話題で場を掌握すると焦点を完璧にずらした。


(……なぜ、ここまでして?)


 レオンは唇を噛む。

 アクセルが自分たちを助ける義理などないはずだ。それなのに――。


 マリアもまた、目を伏せた。

 彼のやり方は巧妙でありながらも、常軌を逸していて粗暴だ。けれど、それがどれほど有難いことか、痛いほど理解できた。


 そして――。


「おっと、ここまでにしとこうか。今日はユキさんの復帰公演最終日なんだぞ」


 アクセルは突然、掌をひらひらと振り、飄々とした口調で言った。


「僕の昔話なんて、大したネタじゃない。もしこれ以上詮索したいなら、犯罪者と世捨て人の溢れる五番街のスラムにでも来いよ。そこでなら、ドラッグディーラーから楽しい話が聞けるかもな」


 にやりと笑いながら言うと、インフルエンサーや記者たちは顔を見合わせ、揺さぶられた。


『くっ……チッ、また今度話を聞かせてもらうぞ!』

『覚えてろよ、ハンドマン……!』


 取材陣の中には諦めきれず、なおも食い下がる者もいたが、アクセルはそれを無視して、レオンとマリアの前に立った。


「さ、行こうぜ」


 そう言って、彼は何事もなかったかのようにロビーの奥へ歩き出す。

 その背を追いながら、レオンは小さく息を吐き、マリアは微笑を浮かべた。


 ――アクセルという男が何者なのか、改めて思い知らされた。


 ロビーの喧騒を背に、三人はバーレスク・ノヴァの奥へと進んでいく。遠ざかる群衆のざわめきと、重厚なベルベットのカーテンが揺れる音が微かに耳に残る。劇場の奥へと足を踏み入れるたびに、華やかな装飾と柔らかな照明が、先ほどまでの喧騒とは違う別世界の空気を漂わせていた。


 レオンはちらりとアクセルの横顔を盗み見た。彼はいつもと変わらない様子で歩いているが、さっきまで周囲を圧倒していた鋭い雰囲気はすでに消えている。


「……なあ、アクセル」

「なんだよ。こんなのは仕事のうちなんだから気にしなくてもいいぞ」


「うん……だけど、貴族の専属運転手が雇い主より目立ち過ぎることなんて、経験したことがないからさ」

「それはお前の影が薄いんじゃなくて、僕の存在感がデカすぎるだけだろ」


「……それ、もっとタチが悪い気がする」

「まあ、今さら直せないけどな」


 苦笑交じりの軽口を交わしながら、三人はさらに奥へと進んでいく。やがて、豪奢な劇場の廊下を抜け、重厚な扉の先――煌めく舞台の世界へと、彼らは足を踏み入れるのだった。

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