閑話「氷の洞窟で見たもの◇◆◇」
《再書換済》
五番街の錆びた空が、ガス灯の淡い光によって金色に染まっている。その光はスラム全体を温もりで包み込むかのように、まるで街の傷跡を隠そうとしているようだった。検査入院を終えたばかりのアクセルは、ゆっくりとスラムの路地を進んでいく。
足元の舗装されていない道は、工場地帯の蒸気が流れ込むたびに泥で覆われる。それでもこの地で暮らす人々は、日々を生きるための工夫を怠らなかった。廃材やスクラップで作られたバラック小屋が立ち並び、家々の外壁にはカラフルな布切れやガラクタの装飾が取り付けられている。
その全てが、住む人々の手作りだった。
ふと耳を澄ますと、子どもたちの笑い声が路地の向こうから聞こえてきた。アクセルはその声に誘われるように足を進め、小さな広場に辿り着いた。
広場の中央では、リベットが子どもたちに囲まれて遊んでいた。彼女の両手には、鮮やかな青色の造花が握られている。それは、廃材をひとつずつ組み合わせて作られたものだった。
光を受けて淡く輝くその造花は、まるで生きているかのように美しく煌めいている。
リベットがふとアクセルに気づき、目を輝かせて駆け寄ってきた。
「アクセルお兄ちゃん!」
その声には喜びが溢れていて、彼女の小さな足音が軽やかに響く。アクセルは少しだけ体を起こし、彼女を迎えるように微笑んだ。
「リベット、元気そうだな」
「うん! でも、お兄ちゃんこそ大丈夫なの? お医者さんに見てもらったんでしょ?」
心配そうに見上げるリベットの瞳には、純粋な思いやりが滲んでいた。アクセルは軽く肩をすくめて応える。
「まあな。まだ完全じゃないけど、こうしてお前の顔を見に来られるくらいには元気だよ」
安心したようにリベットが笑い、手にしていた青い造花を差し出した。
「これ、お兄ちゃんのために作ったの。早く元気になってほしいから」
「ありがとうな」
アクセルは造花を受け取ると、その出来栄えに感心して目を細めた。細かい部分まで丁寧に作られたそれは、彼女の優しさが詰まっているようだった。
やがて、広場にいた子どもたちがアクセルの周りに集まってきた。彼らの目は憧れに輝き、興奮気味に口々に話しかけてくる。
「お兄ちゃん、あの時もすごかったんでしょ!」
「また悪いやつをやっつけたんだよね?」
アクセルは子どもたちの問いに苦笑いを浮かべながら膝をつき、彼らと目線を合わせた。
「いやいや、僕一人じゃ何もできないさ。師匠や仲間たちがいたからこそ、こうして元気でいられるんだ」
子どもたちの純粋な視線に、アクセルは少しだけ真剣な表情を見せる。
「でも、お前らもいつかは、自分の力で未来を作らなきゃいけない。そのためには、まずお腹いっぱい食べて、しっかり勉強することだ」
冗談めかした言葉に子どもたちが笑う中、リベットが真剣な顔で頷いた。
「私も、もっと頑張るよ。お兄ちゃんみたいに強くなりたい!」
リベットの瞳の中に燃えるような決意を見て、アクセルは心の中で小さく笑った。
「その意気だな。お前が大きくなる頃には、僕はもっとカッコよくなってるから、期待してろよ」
リベットがはにかみながら笑う。やがて夕暮れの光が広場を包み込み、子どもたちが次々と家路につく時間になった。
最後にリベットが少し寂しそうな顔でアクセルを見上げた。
「お兄ちゃん、また遊びに来てね。今度はもっと綺麗なお花を作るから」
「ああ、楽しみにしてる」
アクセルは彼女の頭を優しく撫でる。リベットは嬉しそうに頷き、軽やかに手を振って去っていった。
広場を後にしたアクセルは、胸ポケットに収めた青い造花をそっと触れた。冷たくも温かいその感触が、彼の心に小さな安らぎを与えていた。
(こうして誰かに頼られるのも、悪くないな)
彼は静かに夜の街を歩き出す。スラムの灯りがぼんやりと空に浮かび上がり、やがて静寂が彼を包み込む。
◇◇◇
気づいたとき、僕は暗闇の中にいた。冷たい風が頬を撫で、身震いするほどの寒気が全身を包み込む。
この感覚……ここはどこなんだ?
目を凝らすと、淡く輝く氷の光が遠くで揺らめいている。手を伸ばしてみるが、そこには何もない。ただ透明な床が足元に広がり、その冷たさが靴越しに伝わってくる。
氷でできた長いトンネル。壁や床には複雑な模様が彫られていて、よく見るとそれが何かの形を象っていることに気づいた。近づいて触れると、その表面は滑らかで、しかしどこかぞっとするほどの冷たさだった。
「……なんだ、これ……?」
その彫像は人のようで人でなく、まるで何かの「残骸」のように見えた。顔が欠けたものや、歪んだ四肢を持つもの。すべてが異形で、言いようのない不安感をかき立てる。
僕は無意識に手を引っ込め、ポケットから小型のライトを取り出した。スイッチを押すと、柔らかな光がトンネルの中を照らす。その光が反射して浮かび上がるのは、無限に続く彫像たちの影。
それは、まるで僕を見つめているようだった。
「……気味が悪いな」
足を進めるたびに、氷の床が軽く音を立てた。空気はどこまでも冷たく、何かが僕を奥へと誘うような感覚がある。心の中に生まれる警戒心を抑えながら、僕はひたすら前に進んだ。
やがてトンネルの先に、光が強くなっていくのが見えた。その場所に近づくほど、僕の心臓は不思議と落ち着きを取り戻していく。
そして、彼女がそこにいた。
白いローブを身にまとい、背を向けたまま立つ人影。ローブの裾が風に揺れ、銀髪は月光を受けたように淡い光を帯びている。その佇まいは静かで、どこか物悲しさを纏っていた。
「……誰だ?」
僕が声をかけると、彼女はゆっくりと振り返った。柔らかな光がその顔を照らし出す。彼女の瞳――どこかで見たような、その悲しげな瞳が僕をじっと見つめている。
「まさか、あなたがここに来るなんて……」
彼女の声は静かで、風に溶けるように響いた。その言葉の端々には驚きが滲んでいる。
「ここは、人が踏み入れるべき場所じゃないわ。君がここに来たこと……正直、私は困っている」
「踏み入れるべきじゃない? どういう意味だ?」
僕の問いかけに、彼女は少しだけ困ったように眉を寄せた。そして、トンネルの壁を指差す。
「この彫像は、失われた世界や生命の象徴。ここは、それらが次に命を得るまで休息する場所なの。私たちには、この場を侵す権利はない」
その説明には腑に落ちない部分が多かった。それでも彼女の声にはどこか確信があり、僕はそれ以上言葉を返せなかった。
「……お前は誰なんだ?」
僕の言葉に、彼女は少しだけ寂しそうな笑みを浮かべた。その表情は美しいはずなのに、どこか影が差している。
「私は……ただ、あなたの幸せを願う者。そう考えてくれると嬉しいわ」
その目には、何か深い思いが宿っているように見えた。それはまるで、僕の全てを知っているかのような目だった。
「僕を知ってるってことか?」
彼女は頷かず、ただ視線を下げた。
「あなたが進む道は、私がずっと願ってきた未来そのものよ」
その言葉を聞いても、僕には何のことかわからなかった。でも、彼女の瞳に浮かんだ涙を見た瞬間、胸の奥がざわめいた。
「……泣いてるのか?」
僕がそう言うと、彼女は驚いたように目を見開き、それから慌てて微笑みを作った。
「泣いてなんかいないわ。ただ……嬉しいのよ。あなたがこうして、自分の足で歩いていることが」
彼女の微笑みはどこか儚げで、触れれば消えてしまいそうだった。
「ここから先は、あなたには必要のない世界。戻りなさい。まだやるべきことがあるはずよ」
彼女が静かに後ずさる。その姿を見て、僕は反射的に手を伸ばした。
「待てよ! まだ何も――」
手が触れる前に、彼女の姿が淡い光の粒子となって崩れていく。僕の指先をすり抜けて、彼女は消えてしまった。
「……行くな!」
僕の声が虚しく響く。目の前にはただ、冷たい風と静寂だけが残されていた。
肩で息をしながら、足元に目を落とす。氷の床には、彼女の残した微かな輝きが残っていた。その輝きは、一瞬で消えてしまった。
「……何なんだよ、あいつは……」
深い疲労感が押し寄せる。目を閉じ、もう一度深呼吸をして目を開けると――そこには便利屋ハンドマンの天井があった。
◇◆◇
アクセルが目を開けると、そこは便利屋ハンドマンの簡易ベッドだった。暗い天井がぼんやりと視界に入り、彼はゆっくりと息をついた。胸にはまだ微かな疲労感が残っている。
「……夢、だったのか……」
低く呟く声が静かな部屋に溶け込む。心臓の鼓動が静まり、現実へと引き戻されていく感覚。しかし、先ほどまで見ていた景色の名残が、まだ彼の中に鮮明に残っていた。
胸ポケットに手を伸ばす。そこには、リベットの作った青い造花がしっかりと収まっていた。小さなそれを指で撫でると、彼女の笑顔が脳裏に浮かび、自然と唇が僅かに緩んだ。
(やるべきことがある……か)
静かに目を閉じた。その瞬間、部屋の薄闇の中で彼の瞳が黄金色に輝いていたことに、アクセル自身は気づいていない。瞳孔の奥に宿った光は、まるで遠くの星々を宿したように微細な煌めきを放っていた。
だが、それはほんの一瞬だった。瞼が完全に閉じるのと同時に、その黄金色は淡く溶け、元の緑色に戻る。何事もなかったかのように。
その光景を、遠くから見つめる存在がいた。
『見つけた』
声はどこからともなく響く。静寂の中で、繰り返される言葉が重なるたびに、それがただの呟きではなく、確固たる意思を伴った宣言であることが明らかになっていく。
『見つけた。見つけた。見つけた。見つけた。見つけた。見つけた。見つけた――』
その存在はアクセルの姿をじっと見つめながら、微かな嘲笑とも哀れみとも取れる感情を浮かべていた。その正体は形を持たない。だが、彼の背後にある何かが、確実に世界の均衡に触れようとしているのは明らかだった。
静かに囁く声が続く。その声の主は、アクセルの背負う運命を――そして、彼の瞳に宿った一瞬の黄金の輝きを――確信へと変えた。
『あの女……絶対に逃さないぞ』
言葉は静かに消え、再び訪れるのはただの静寂だった。しかし、その余韻だけは、アクセルの眠る部屋の空気を変えていた。見えない何かが、確実に動き出している。
見つけた




