13「疑似天使マガツカミ」
乾いた空気が、埃っぽい通路に重く淀んでいた。
古代都市の遺跡と思われる建造物が、崩れかけながらもその姿を留めている。かつて人々が生活していたであろう建物の壁面には、その時代の証となるレリーフや彫刻、そして幾何学的な模様が刻まれていた。
しかし、それらは長い年月と風化によって、ほとんどが判読できなかった。
崩れ落ちた石材や瓦礫が散乱した路地の石畳には、所々に深い亀裂が走っている。天井からは照明として使われていたと思われる金属製の枠組みがぶら下がり、朽ち果てた配線がその周りに絡みついている。
僅かに残った隙間から差し込む光が、埃っぽい空気を照らし出し、廃墟と化した都市の寂寥感を一層際立たせていた。
「これじゃあ、まるで墓地の中を歩いている気分だな……」
ゴールドマンが呟く。彼の声は、静まり返った空間に吸い込まれるように消えた。
「墓地の方がマシよ。ここはもっと厄介かもしれないわ」
ロータスが低い声で答える。彼女の視線は、遠くに見える崩れた祭壇のような構造物に向けられていた。その上空には、不気味な揺らめきが見える――異常な熱反応の発生源だ。
「熱源地まであと1キロを切りました……こんな場所で何をやってるんでしょう、フェンリル教は」
アクセルが言葉を切る。歩みを止め、彼はアームウォーマーのホログラムを確認し、周囲の気配を探るように目を細めた。
すると突然、ロータスが立ち止まった。
「……待って」
彼女の声に反応して全員が足を止める。その先に広がる空間には、見たこともない広場があった。
光輪を描くように配置された石柱、その中央には巨大で異様な装置が鎮座している。それは、直径数十メートルはあろうかという巨大な球体で、無数の歯車や軸、複雑な機構が組み合わさって構成されている。
全体は鈍く光る金属で覆われ、所々に花のような模様が彫られていた。
その錆びついた装置は複雑なリズムで回転し、内部の歯車や軸が互いに噛み合い、魅せるように規則性のある動きを生み出していた。
まるで生きているかのように有機的でありながら、どこか不気味な印象を与えており、装置の中心部には深い闇が広がっている。そこから微かに光が漏れ、何かの存在を暗示しているかのようだった。
広場に鎮座する装置の周囲には、教徒たちが祈りを捧げながら歩き回っていた。彼らの視線は、すべて装置の中心部に向けられ、狂信的な熱気に満ちている。
「……儀式の準備をしている?」
ロータスが眉をひそめる。だが、その耳に不意に聞こえてきた言葉が、彼女の動きを凍りつかせた。
『リンドウ……我らが儀式の核なる存在よ……』
その名前を耳にした瞬間、ロータスは血の気が引く思いがした。
「……母さん?」
微かな声が漏れる。彼女の動揺に気づいたアクセルがそっと肩に手を置いた。
「ロータスさん、どうしまし――」
だが、広場の中心に視線を向けた彼の表情が固まる。
薄暗い光が照らし出す石柱の傍には、いくつもの檻が無造作に並べられていた。中には人間や獣人族が閉じ込められており、そのほとんどは恐怖に怯えた表情を浮かべている。
しかし、その中には異様な風貌を持つ者もいた――肌が鱗状になり、体には触手や羽毛が不規則に生えそろっている。全員が魔獣化の兆候を見せているが、目が濁りつつも彼らの表情には恐怖と混乱が浮かび、まだ人間らしさを失っていなかった。
「彼女、どこかで見たことが……」
その中の1つの檻に、目を引く人物がいた。
華やかな衣装の残骸を身に纏いながらも、銀色の髪と獣人族の特徴的な耳と尻尾を持つ若い女性――それは、四番街で失踪した獣人族のアイドル、ユキ・シラカワだった。
檻の中でうなだれるユキの目は虚ろで、魂が抜けたかのように生気を感じない。彼女の周囲には召喚陣が描かれており、不可思議な光が不気味に揺らめいている。
その光が住民たちから生気を吸い取るかのように見えた。
「ユキさん――」
「魔獣化しているようだな……だが、まだ自我は保っているようだ」
アクセルが飛び出そうとしたが、イザベラが制止して低く呟く。彼は深く息を呑み、目の前の異様な光景に声を漏らした。
「どうして……どうして母さんが……?」
ロータスが震える声で呟く中、教徒たちの祈りの声が次第に大きくなっていく。その声は不気味に広がり、空気を振動させ、耳を塞ぎたくなるほどだった。
「儀式素材のために、ここに連れて来られたんだろう」
イザベラの冷徹な声が場を支配する中、檻の中のユキがアクセルたちに気づいたのか、弱々しく手を伸ばした。
「た、助けて……お願い……」
そのか細い声が響くと同時に、周囲の教徒たちが一斉に祈りの声を高めた。それは呪文のように重々しく低く、耳障りな響きを持つ音だった。
『――疑似天使よ、降臨せよ! 我らの祈りに応えたまえ!』
教徒たちの祈りの声が一層高まり、広場全体が召喚陣の淡い光に包まれる。その光は徐々に強さを増し、檻の中の囚われた人々を浮かび上がらせていた。
祈りの声と共に7つの檻が震え始め、足元の召喚陣が輝きを帯びる。その1つにユキ・シラカワがいた。彼女の目には恐怖と絶望が浮かび、震える手が檻の格子を掴んでいる。
「師匠、彼女は捜索依頼の対象者です! このままだとユキさんが――」
建物の影に身を隠しながら、アクセルはユキの様子を凝視していた。
「冷静になれ、アクセル!」
「ふざけんな! こんなの……見殺しになんてできるわけないだろ!」
イザベラが低く警告する。その手にはすでに棺桶型の変形機構式機械鞄が機匣銃に展開され、祈りを妨害しようと照準を定めていた。
「師匠、見損ないましたよ!」
アクセルの声は焦燥に満ちていた。しかし、イザベラは首を横に振る。
「間に合わない。あの光……儀式はもう最終段階に入っている。これ以上は――」
「だったら、僕が行く!」
彼女の制止を振り切り、アクセルは建物の影から一気に飛び出した。その瞬間、彼の体が青白い光に包まれる。
「おい、待て!」
イザベラが叫ぶが、彼はすでに全力で走り出していた。
(僕の異能なら……間に合うはずだ!)
彼は自らの脳を覚醒させるように集中し、時間を引き伸ばす感覚を限界まで引き出した。周囲の景色がゆっくりと流れ出し、教徒たちの祈りの声さえも遠のいていくように感じる。
「――ユキさん!」
アクセルは檻に閉じ込められたユキの元へと一瞬で駆け寄った。驚愕の表情を浮かべた彼女が震える声で言葉を絞り出す。
「あなた……助けに来てくれたの……?」
「っはぁ……っはぁ、安心して。すぐに出してあげるから!」
檻の鍵を探し格闘するが、鍵は古びて錆付いており、なかなか開かない。焦るアクセルの耳に、教徒たちの高まる祈りの声が容赦なく突き刺さる。
背後からは教徒たちの祈りの声が轟き、さらに別の檻が振動を始める音が響く。その中でアクセルは檻を開ける手段を模索しながら、自身がどんなに危険な状況にいるのかを理解していた。
「た、助けて……お願い!」
檻の中で震えるユキの声が響く。その表情には恐怖と絶望が滲んでいた。
「大丈夫だ、すぐに……! くそっ……開かない!」
アクセルが鍵穴に工具を差して力を込めて回し、ついに鍵を開けることに成功する。彼女に声をかけた瞬間、ユキが叫ぶように言葉を遮った。
「違う! そうじゃないの! 私、このままだと……疑似天使にされちゃう!」
彼女の恐怖に満ちた声が響き、アクセルの足が一瞬止まる。震える指が檻の外を指し示した。
「あの人たちが言ってたの! 魔獣化した素材を揃えて、疑似天使を呼ぶって……」
「疑似天使……フェンリルじゃないのか!?」
アクセルが驚きの表情を浮かべると、ユキは弱々しく首を縦に振った。
「お願い……助けて……! でないと、あの光の中で私たちは……!」
彼女の声が途切れると同時に、召喚陣の上に設置された檻の1つが激しく震え始めた。そこに囚われている住民が叫び声を上げるが、光に包まれた瞬間、声は掻き消され静寂が訪れる。
「アクセル先輩……」
建物の影でホムンクルスが動揺した声で呟く。その視線の先で、檻の中の住民が徐々に異形へと変わっていくのが見えた。
祈りの声がさらに高まり、広場全体が光に満たされる。そして、轟音と共に檻から解き放たれた異形が翼を広げ、宙に浮かび上がった。
それは、人間でなければ魔物でもない――神聖でありながら、どこか禍々しい雰囲気を纏った異形の存在だった。
「……疑似天使」
ホムンクルスが呟くように言葉を漏らす。広場の中心で、異形の目が一行を見下ろした。その目には、冷徹な威圧感と全てを見透かすような神聖さが宿っていた。
光輪を歪ませながら広場に降り立った疑似天使の目が、教徒たちを射抜くように見下ろす。その視線は、あたかも神が地上の者を見下ろすような冷徹さを帯びていた。
広場の中央に佇む疑似天使は、まるで人間の輪郭を模して作られたかのようだった。だが、体表を覆う翡翠色の鱗や、異様に長い四肢は人間のものとはかけ離れている。翼を広げるたびに、黒く濁った光輪が歪み、奇妙な音が空間を震わせた。
「……ユキさん。絶対に動かないで」
その異形の存在感に、アクセルとユキが息を呑む。緊張が張り詰めた中、疑似天使の目がゆっくりと彼らに向いた。冷徹な視線が、二人の考えを見透かすように射抜く。
その直後、鋭い音が空間を切り裂いた。建物の陰から放たれたエネルギー弾が広場を駆け抜け、疑似天使の胸部に直撃する。
翡翠色の鱗が砕け黒い液体が飛び散るが、それでも疑似天使は後退せず、ただその冷たい目を放った方向に向けた。
「……ヨシッ!」
アクセルが息を詰めるように呟く。しかし、疑似天使はわずかに頭を傾けると、まるでエネルギー弾の威力を嘲笑うかのようにその場に立ち続けた。
翼が大きく広げられ、空間を震わせる奇妙な音がさらに高まる。
「さすがに一筋縄じゃあいかないか。まあ、お前がなんであろうと先手は打たせてもらったよ」
ジャックオーが機匣銃を構え直し、低く呟く。その瞳には、次の戦いへの覚悟が宿っていた。




