閑話「重なる影」
無機質な光が降り注ぐ実験室。冷たい金属のベッドに縛りつけられた白き狂怪鳥は、動物と人間の境界を越える「新しい存在」としてあらゆる実験の対象にされていた。
「負荷実験、開始します」
白衣の研究員が無表情に告げ、装置を操作する。電流の流れたような痛みが体を駆け抜け、焼け焦げる匂いと共に翼が暴れ動く。鎖の軋む音が響くたび、狂怪鳥の瞳には憎しみと絶望が浮かんでいた。
(ここから逃げなければ……)
意識が朦朧とする中で最後の力を振り絞り、彼女は翼を振り上げる。鎖に定められた「定義」と「秩序」は狂怪鳥の持つ異能によって『再解釈』が行われ、吸収作用が働き情報を遺伝子に刻み込む。
壁の向こうから冷たい風が吹き込み、警報が鳴り響く施設の中で白き狂怪鳥は夜空へと飛び立った。
夜の機械王都は雷鳴が空を裂き、街全体を揺るがすような嵐に包まれていた。
巨大な影がその裂け目を突き抜け、無数の機械塔の間を縫うように滑空していく。純白の翼は傷だらけで、散った羽根が風に飲み込まれ、夜の闇に溶けていく。
白き狂怪鳥――かつて機械王都で「神聖なる標本」として非人道的な実験の犠牲となった存在は今、生き延びるためだけに飛んでいた。
後方に目を向けると、小さく光るランプの列が見える。それは強化外骨格を纏った追っ手――ホムンクルスたちが空を舞う機械に乗り、着実に距離を縮めていく姿だった。
「捕まるものか……」
苦しげに息を吐きながら、白き狂怪鳥は振り絞るように言葉を漏らした。鋭い風が傷ついた翼を叩き、雨粒が冷たく肌に刺さる。血の噴き出す翼の動きは次第に鈍り、やがて高度を失い始めた。
遥か下方には、闇に飲み込まれた排水溝が口を開けている。
「ここしかない……」
選択の余地など最初からなかった。白き狂怪鳥は翼を畳み、渦巻く濁流にその身を投げ入れた。激流は彼女を無情に呑み込み、鉄のように冷たい水が肌を焼き付ける。
それでも、彼女は意識を手放さなかった。
「絶対に生き延びてみせる」――ただその一念で。
◇◇◇
冷たい石畳の感触が頬に伝わる。彼女が流れ着いた先は、荒廃した地下都市アンクルシティ――四番街に存在する湖の岸辺。
空を見上げると小さな開口部から差し込む微かな光が見えたが、それでも周囲は深い闇に包まれていた。近くでは汚れた石造りの建物が並び、人々は貧困にあえぎながらも生活している。
「おい、大丈夫か?」
声をかけられ、彼女は反射的に目を開けた。
目の前に立っていたのは、簡素な制服に身を包んだ若い男。肩には見慣れないエンブレムをあしらったワッペンが付いている。硬質な表情の中にも、どこか素朴で優しげな眼差しがあった。
「ここは立ち入り禁止区域だ。歩けるか?」
低く穏やかな声に、彼女は条件反射のように頷いた。だが、その視線は決して男から外れることなく、鋭く彼の動きを追っている。男はその様子を気にすることなく、彼女に手を差し出した。
「大丈夫だ。僕は味方だから怖がらなくていいよ」
その言葉に、彼女は微かに表情を和らげた。だが、彼女の手が触れるか触れないかの瞬間、突如としてその手は拳に変わり、男の胸元を叩くように振り上げられた。
「おっと!」
驚きながらも、男――マルコムはすぐさまその拳を受け止めた。彼の手がしっかりと彼女の小さな拳を掴む。彼女の警戒心を物語るその行動に、マルコムは笑みを浮かべた。
「なるほど、元気はあるようだ。でも悪いな、僕は敵じゃない」
その声には動揺の色はなく、むしろどこか楽しんでいるようだった。彼女は慌てて拳を引っ込めると、頬を赤らめながら視線を逸らした。
「……ただの反射よ」
彼女のぼそりとした言い訳に、マルコムは軽く肩をすくめた。
「反射にしてはなかなかのパンチだった。さて……まずは落ち着こうか。名前は?」
口を閉ざしたまま、しばらく男を睨むように見つめる――汚泥にまみれた女。
そんな彼女の棘だらけで荒んだ心とは対照的に、背後に広がる湖は穏やかな波紋を揺らめかせ、冷たく澄んだ風が彼女の頬を優しく撫でていった。
その穏やかな風は、ほんの少しだけ彼女の心を解きほぐしていく。
「……リンドウ」
低く、けれど確かに聞こえる声で答えたその瞬間、マルコムの表情が一瞬だけ柔らかくなった。
「リンドウか……いい名前だな。僕は四番街の駐屯地所属マルコムだ」
微笑みながら彼女の名を繰り返し、まるで心に刻むように呟いた。
リンドウはその敵意のない笑みに戸惑い、視線をそらした。濡れた衣服が肌に張り付き、冷たい風が吹き抜ける中で彼女の体は震えている。
心の奥では彼の優しげな態度に安堵を覚えつつも、恐怖の感情が強く渦巻いていた。
「とりあえず、ここから移動しよう。夜の湖は安全とは言えない」
マルコムが差し出した手を見つめ、彼女は一瞬ためらったが意を決してその手を取った。
◆◆◆
街外れにある灯りが点る小さな建物――四番街の治安維持部隊が拠点とする詰め所は、石造りの質素な造りだった。
年季の入った引き戸を開けると、そこには人々の温かな暮らしが見える。板間には兵士たちが集まり、思い思いに時間を過ごしている。
使い込まれた丸いテーブルの上にはトランプのカードと飲みかけの紅茶、乾燥させた果物や木の実を固めた菓子が乗り、その横では兵士が不思議な形の弦楽器で陽気な曲を奏でている。
壁には異国の風景画と幾何学模様の絵画が飾られ、その下では若い兵士を相手に、一癖ありそうな口髭を蓄えた年配の兵士がチェスを指南していた。
「|愚者のメイト《fool's_mate》だ。もう一度やり直すぞ――」
口髭を蓄えた兵士――ビッグガイの優しく響く指導の声に、若い兵士は「はい」と元気よく返事を返す。
部屋の隅には蒸気機関で動くマッサージチェアが置かれ、屈強な兵士が気持ちよさそうに目を閉じている。そんな、人々の優しさと異なる文化が溶け合う空間を抜けて、リンドウは薄暗い部屋に入り、硬い木製の椅子に座るよう促された。
「ここなら少しは落ち着けるはずだ。何か温かい飲み物でも用意しようか?」
マルコムがそう提案したが、彼女は首を振るだけで答えなかった。視線は床に落ちたままで、冷たい空気が彼女の肩を覆っている。
「名前を教えてくれたが、身元について何か話せることはあるか?」
「……話せることなんて、ない」
リンドウは低い声でそう返した。その声には警戒心が滲んでいた。
マルコムは椅子に腰掛け、彼女を観察するようにじっと見つめる。
「君が何かを隠しているのは分かる。だけど、ここは四番街だ。君が何者であれ、まずは安全を確保するのが先決なんだよ」
その言葉にリンドウは顔を上げ、彼の瞳を覗き込む。その中には、ほんの僅かな疑念と、それを超える誠実さが見て取れた。
「私は……」
言葉が喉で詰まる。彼女は何度も視線を泳がせた。
(この人に真実を話したらどうなる? また、追われる日々が続くだけじゃないの?)
その一方で、彼女の胸には一筋の希望が灯っていた。逃げ続ける日々の中で、彼のような存在に出会ったのは初めてだったからだ。
「安心してくれ。僕は急いで君を問い詰めるつもりはない。ただ、君がここでどう過ごしていくか考えないといけないだろう?」
マルコムが穏やかに言葉を続ける。
「……」
リンドウは、諦めたように小さく頷く。言葉とは裏腹に、その心の中では再び逃げる計画を立てていた。
「リンドウ、もし困っているなら手を貸すよ。別に、君が隠していることを全部知る必要もないからね。君がどうして湖にいたのか知りたかっただけなんだ」
彼の言葉には、信じることへの覚悟が宿っていた。その真剣な眼差しは、リンドウの心の奥底を見透かしているかのように柔らかい。
彼女は驚きと共に安堵の息をついた。しかし、すぐに不安がぶり返す。それでも、ここから離れた方がいいという考えが頭をよぎる。その一方で、心に沸き上がる彼を信じてみたいという気持ちを無視できなかった。
「……ありがとう。でも、今はそれだけで十分」
そう言って、彼女は立ち上がった。
「どこへ行くんだ?」
「……どこに行けばいいかは分からない。でも、この場所にはいられない」
マルコムは少し黙った後、軽く首を振った。
「君がそう決めたのなら止めない。ただ、また困ったらここに来てくれ」
「……分かった」
彼の最後の言葉が、彼女の中に小さな種を残した。それは、どこかで希望を芽吹かせるためのものだった。
リンドウは夜の街を歩き出し、深い霧の中へと姿を消していった。その背中を見送るマルコムは、小さく溜め息をつきながら椅子に座り直す。
「……リンドウか。見たところ魔人族のようだったけど――謎めいた女性だな」
彼はポケットから小さな手帳を取り出し、リンドウの名前を記す。ペンの動きが一瞬止まり何か考え込むような仕草を見せたが、すぐに小さく首を振り、メモを閉じた。
街の明かりが彼の横顔を照らし、その瞳にはどこか捉えどころのない静けさが宿っていた。
◆◆◆
それから数週間が経ち、照明の陽が傾きかけた四番街の市場通りは、いつもと変わらない賑わいを見せていた。木造の屋台や石畳の路地に並ぶ商人たちの声が響き、人々があちこちで値段交渉を繰り広げている。
リンドウはその喧騒の中、ひっそりと身を隠すように歩いていた。素肌に薄汚れた布のような服を纏い、頭にスカーフを巻いて顔を隠している。彼女の眼差しは警戒心を失うことなく、周囲を絶えず見渡していた。
「……これで足りる?」
小さな屋台の前で差し出した大銅貨を商人がじっと見つめる。鋭い視線を受けたリンドウは、僅かに身を引いた。
「これじゃ足りねえよ。今日は値上がりしてんだ」
商人の声が不機嫌そうに響く。手元にはもう硬貨が残っていない。
「ちょっと待って……これでどう?」
彼女は仕方なく、先ほど日雇いの仕事で手に入れた小さな魔物の爪を追加で差し出した。商人はそれを一瞥し、不満げに鼻を鳴らす。
「まあいいだろう。持ってきな」
大銅貨数枚と魔物の爪を引き換えに小さな果実を手渡され、リンドウはほっと息をつく。その瞬間、背後から荒々しい声が飛んだ。
「おい! 何やってんだ、そこの奴!」
恐る恐る振り返ると、路地の先で男たちが口論を繰り広げていた。そのうちの一人がリンドウを指差し、こちらに近づいてくる。
突然の非難にリンドウは唖然としてしまう。彼女はその場を去ろうとするが、男たちに取り囲まれてしまった。
「この女、自分が魔物を倒したって主張してるけどよ、それなら報酬を渡す前に説明があって然るべきだろ?」
「仲間の協力もなしに、いきなり割り込んで勝手に獲物を奪うなんてありえねえ!」
男たちの声には怒りが籠もっていた。彼らの態度は粗暴だったが、一応言い分が筋違いではないことも見て取れる。
「違う!」
リンドウが鋭い声で反論する。その瞳には苛立ちと困惑が混じっていた。
「私はあんたたちが仕留め損ねた魔物を、たまたま片付けただけだ。それに、追加報酬があることなんて聞いてなかった!」
リンドウの強い主張に、男たちは一瞬言葉を詰まらせる。だが、次の瞬間には顔を真っ赤にして粘り強く食い下がった。
「片付けただけだぁ? 勝手に割り込んどいてそれが通用すると思ってんのか?」
「待て、話を聞かせろ」
その場に割って入ったのは治安維持部隊の制服を纏った男だった。リンドウは目を見開き、そして相手の顔を確認して息を呑む。
「……マルコム?」
「リンドウ……?」
互いの名前を呼び合う声が、騒然とした市場の喧騒に不思議な静寂をもたらした。
「久しぶりだな……元気そうで何よりだ」
マルコムは微笑みながらそう言ったが、その目は警戒心を隠していない。リンドウは視線を逸らし、答えを躊躇する。
「……まあ、なんとか」
曖昧な返事をする彼女を見て、マルコムは溜め息をつく。彼女が何かを隠しているのは明らかだった。
「ここで何があったんだ?」
マルコムは周囲を見渡しながら、リンドウと男たちに問いかける。
「この女、俺たちが苦労して仕留めた獲物の分け前を持ち逃げしようとしてたんだ!」
男たちの声には怒りが籠っている。だが、リンドウは鋭い声で反論した。
「さっきも言ったが、私はあんたたちが倒しきれなかった魔物を片付けただけだ」
その言葉に男たちは唖然とする。マルコムは冷静な目で状況を整理し、少し考え込むように顎に手を当てた。
「なるほど。つまり、双方の認識が食い違っているわけだな」
マルコムはその場を落ち着けようと努めるが、男たちはなおも食い下がる。
「俺たちの取り分が減るのは納得いかねえ!」
「それ以上言うなら、まずお前らが倒した魔物の証拠を出してみろ」
彼が冷静な声で遮るように言った。鋭い眼差しで男たちを睨むと彼らは一瞬怯んだようだったが、すぐに舌打ちしながら肩をすくめてその場を立ち去る。
リンドウは安堵の息をつくものの、その顔にはまだ警戒心が残っていた。
「……助けてくれてありがとう。でも、もう行くわ」
「待ってくれ」
マルコムが腕を掴むと、彼女は少し驚いた表情を浮かべた。
「ここで何をしてるんだ? 前に会ったときからずいぶん変わったな。ちゃんと食べてるのか?」
マルコムの問いかけに、リンドウは少しだけ俯き、言葉を探すように口を開いた。
「私はただ……生き延びたいだけ。それ以上でも、それ以下でもないの」
リンドウの言葉に、マルコムは眉をひそめた。彼女の抱えるものがどれほど重いのか、彼には計り知れない。それでも、目の前の彼女を放っておくことはできなかった。
「だったら、少しは楽に生きる方法を見つけてもいいんじゃないか?」
「楽に?」
不思議そうに首をかしげるリンドウ。その仕草に一瞬、幼さすら感じさせるものがあり、マルコムは内心で驚いた。
「知ってるか? この近くの教会。僕の……まあ、知り合いが運営してるんだが、子供たちの世話や食事の手伝いをしてくれる人を探してるらしい」
「教会……?」
彼女の瞳が僅かに揺れる。その響きに、どこか懐かしさと恐れが入り混じったような感情が浮かんでいた。
「無理にとは言わない。ただ、住む場所や食べるものの心配をしなくて済むのは大きいと思う」
マルコムは優しく語りかける。彼女の答えを急かすことなく、ただそっと選択肢を差し出すように――。
リンドウはしばらく何かを考えているようだったが、やがて静かに頷いた。
「……わかった。行ってみる」
「そうか。じゃあ案内するよ」
マルコムは微笑み、彼女を促して歩き始めた。街の雑踏の中で、二人の姿が人混みに紛れていく。
教会は四番街の端にひっそりと佇んでいた。レンガ造りの壁には歴史を感じさせる苔が張り付き、ステンドグラスの窓からは午後の陽光が柔らかく差し込んでいる。
「ここだよ」
マルコムが足を止めて振り返る。リンドウはその光景をじっと見つめていた。どこか懐かしく、それでいて落ち着かない感覚が胸を満たす。
「本当に……私みたいなのでも受け入れてくれるの?」
「信仰は誰にでも居場所を与えるさ。僕は特別信心深いわけじゃないけど、この教会はそういう場所だ」
徐に扉を押し開けると、温かい空気とともに静かな賛美歌が耳に届いた。中には数人の子供たちが遊んでおり、一人の中年女性が子供たちにパンを分け与えている。
「マルコム!」
女性がマルコムを見つけ、微笑みながら手を振った。彼は軽く会釈し、リンドウに視線を向けた。
「彼女がここの運営を手伝ってるルイーズさんだ。僕の……ええと、家族みたいな人だな」
「家族……?」
「まあ、実家で働いてるって言ったほうが正しいか」
ルイーズが近づき、リンドウを見上げる。目には温かさと優しさが宿っていたが、鋭い洞察力も隠れていた。
「こんにちは、私はルイーズ。あなたは?」
リンドウは一瞬だけ躊躇ったが、ゆっくりと頷いた。
「……リンドウといいます」
「竜胆って花の名前よね? 素敵な名前だわ。大丈夫、ここは安全よ。まずは中でお茶でもどう?」
ルイーズが促すと、リンドウは少しぎこちなく頷き、マルコムとともに教会の奥へと進んだ。
教会の一角――木製の椅子に腰掛けたリンドウは、ルイーズが注いでくれたお茶の湯気を見つめていた。
「ここでは、日雇いの仕事も用意しているのよ。子供たちの世話や掃除、簡単な食事の準備など。もちろん、無理にとは言わないけど」
「……できることなら、やらせてください」
リンドウの答えに、ルイーズが満足げに微笑む。その横でマルコムもほっとしたように頷いた。
「ここで少しずつ慣れていけばいい。何か困ったことがあれば僕に連絡してくれ」
彼女は言葉を失ったように彼を見つめた。自分の正体を知らない彼の優しさが、かえって重くのしかかる。それでも、彼の真剣な眼差しに嘘をつくこともできなかった。
「……ありがとう」
その言葉は、これまでの人生にはなかったものだった。感謝の気持ちが、ほんの一瞬だけ心を温める。
その後、リンドウは教会の一員として働き始めた。子供たちは彼女に懐き、彼女がパンを分け与えると無邪気な笑顔を向けてきた。掃除をしている時も遠くでは賛美歌が響き渡り、静かで穏やかな日々が流れていく。
だが、心の奥底にはいつも影があった。自分がここにいるべき存在なのか、そしていつまでこの平穏が続くのか――。
そんな中、マルコムは何度も教会を訪れ、彼女と短い会話を交わした。日常の些細な話題が、彼女にとってかけがえのない時間になりつつあった。
「慣れてきたみたいだな」
ある日の夕方、マルコムが教会の片隅で声をかけてきた。彼の笑顔はどこか柔らかく、彼女の警戒心を少しずつ溶かしていった。
「……まあ、少しは」
リンドウが素っ気なく答えると、彼は肩をすくめた。
「謙虚すぎるだろ。ここにいる誰もが君に感謝してるさ」
「そう……なのかな?」
その言葉に、彼女はほんの少しだけ微笑んだ。彼女自身が気づかないほどの小さな笑顔だったが、マルコムにはそれで十分だった。
彼が差し出した温かいスープの容器をそっと受け取るリンドウ。その優しさに対する戸惑いと、自分の身の上を隠し続ける罪悪感が胸中で交錯していた。スープの香りが空腹を刺激する中で、彼女は少しだけ容器に口をつけた。
「どうだ?」
マルコムが問いかける。その声には、彼女を気遣う柔らかさが滲んでいた。
「……美味しいわ」
リンドウがぽつりと呟いたその瞬間、口元に浮かぶ小さな笑みを見逃すまいと、マルコムは少しだけ視線を細めた。
「ならよかった」
彼は満足げに頷き、腰を下ろしてリンドウと向き合う形になった。
「リンドウ、少し考えたんだけどな」
マルコムが話を切り出す。彼は手元のスープを見つめながら、慎重に言葉を選んでいるようだった。
「ここでの生活、どうにかもう少し安定させられないかって。今のままじゃ体も持たないだろう?」
「そんなこと……」
リンドウが否定しようとすると、マルコムは軽く手を挙げて制した。
「分かってるさ。君が一人で頑張ってるのは。でも、見てみろよ、この街の現実を」
彼は視線を周囲に向ける。街を行き交う人々の中には、明日をも知れないような疲れた顔の者たちがいた。空気には貧困と諦めが漂っている。
「……私には、そういう助けを受ける資格なんてないわ」
リンドウの声はかすれ、視線は地面を見つめていた。
「資格なんて関係ないさ」
マルコムは断言するように告げる。その真剣な表情に、リンドウは思わず顔を上げた。
「こことは別の場所になるけど、頼りにできそうな教会があるんだ。そこなら、少しの間でも安全に過ごせる。それに、あそこなら君が手伝えるような仕事もあるはずだ」
「別の教会……?」
リンドウは呟く。思いがけない言葉に、一瞬だけ表情が緩んだようにも見えた。しかし、その直後に再び影を落とす。
「私は……そんなところに頼っていいほど信心深くないわ」
「どうしてそう思う?」
マルコムが尋ねる。彼の声には疑念ではなく、ただ純粋な興味が込められていた。
リンドウは一瞬言葉を飲み込むが、すぐに小さく息を吐いた。
「私には……守らなきゃいけない秘密があるの。だから、他人の世話になることなんてできない」
「秘密か……」
マルコムは腕を組み、少しだけ考えるような仕草を見せた。
「まあいいさ。言いたくないなら言わなくていい。けどな、僕は君を見捨てたりしない。それだけは覚えておいてくれ」
彼の言葉は静かで、それでいて力強かった。リンドウは微かに肩を震わせ、再び視線をスープに落として俯く。
「ありがとう……」
それだけを呟いたリンドウの声は、まるで空気に溶け込むようにかすかだった。
リンドウはその後、マルコムの案内で教会を訪れることになった。そこは古びた石造りの建物で、温かみのある灯火が人々を迎えていた。子どもたちが楽しげに駆け回り、そこで働く人々の顔には安らぎが浮かんでいる。
「ここで何か手伝えることを探してみるといい」
マルコムの言葉に、リンドウはゆっくりと頷いた。彼女の心の中に、小さな希望の光が灯されていく。
◆◆◆
教会での生活が始まって数週間が経った。リンドウは子どもたちの面倒を見たり、教会の庭を掃除したりする日々を送りながら、少しずつ落ち着きを取り戻していった。どこか遠くを見つめていた瞳にも、微かながら輝きが戻りつつある。
それでも、彼女の心の奥底には常に隠された秘密が重くのしかかっていた。
ある日の夕暮れ、リンドウは教会の裏手にある小さな庭で錬成花を手入れしていた。錬金術と遺伝子操作によって色とりどりの花々が薄橙色の光を受けて輝き、辺りには静けさが広がっている。その中で、マルコムが彼女に歩み寄ってきた。
「ここに来てから、少しは落ち着けたか?」
マルコムの問いかけに、リンドウは振り返り、小さな微笑みを浮かべた。
「ええ、少しだけ……本当に感謝しているわ、あなたには」
その言葉に、マルコムは少し照れたように頭を掻いた。
「別に大したことはしてないさ。ただ……君が笑っているのを見るのは、悪い気分じゃないから」
リンドウはその言葉に一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐにまた微笑んだ。そして、手元の花に視線を戻しながら静かに言った。
「私には、こんな風に誰かに頼ることなんて許されないと思ってた。でも、あなたに出会って……それが少しだけ変わった気がする」
「リンドウ……」
マルコムの声が少しだけ低くなる。彼は彼女の隣に腰を下ろし、しばらく沈黙が流れた。
「僕には分からないけど……君が何を抱えているにせよ、それがどれだけ重いにせよ、一人で背負う必要なんてないと思うんだ」
彼はそっとリンドウの手に触れた。その手は温かく、彼女の冷えた心を溶かすように柔らかい。
「あのね、マルコム……私は……」
リンドウは一瞬言葉を詰まらせた。彼女の瞳には迷いと不安が宿っていたが、同時にどこか希望を見出しているようでもあった。
彼女がこれまで築き上げてきた防壁が、マルコムの優しさによって少しずつ崩れていく。深く息を吸い込み、彼女は意を決して言葉を続けた。
「あなたに全てを話せる日が来るのか分からない。でも、今は……あなたと一緒にいたい。それだけは嘘じゃないわ」
マルコムは驚いたように彼女を見つめたが、すぐに微笑んで頷いた。
「構わないよ、リンドウ。君が隣にいてくれる……僕はそれだけで十分なんだ」
薄暗い光が二人を包み込む中、彼らの距離は自然と縮まり、リンドウとマルコムの手は1つに重なっていく。その温もりが、彼女に新たな希望を灯していた。
「……ありがとう、マルコム」
その名を口にした瞬間、彼女の心に微かな安心感が広がった。それは、孤独だった彼女の人生に差し込んだ――小さな光。
遠くで鐘の音が響き、教会の窓から差し込む光が二人の間に静かに流れていく。マルコムは少し照れたように言葉を続けた。
「そういえば……こんなにも会ってるのに、まだちゃんと名乗ってなかったよな。僕はマルコム・キャンベルだ」
その言葉にリンドウは一瞬だけ驚いた表情を見せたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「キャンベル……素敵な名前。確か、四番街の上流階級にそんな名前の貴族がいたわね……」
マルコムは肩をすくめるように笑い、リンドウの手を少しだけ強く握った。
「まあ、身内みたいなもんだよ。これからも僕を頼ってくれ、リンドウ」
二人の影は次第にひとつに重なり、静かな夜の訪れを待っていた。その影はやがてロータスという名前を持つ新たな命へと繋がっていく――そんな未来を、彼らはまだ知らなかった。
リンドウにとって、初めて感じる「守られる」という感覚。マルコムにとって、「守りたい」と心から思える存在。それは、これから二人が共に歩む道の始まりを告げる小さな約束だった。




