03「地下に刻まれた狂信の紋章―②」
湿った空気が、まるで僕たちを押し返すかのように立ち込めている。この地下水道の奥深くで何が待ち受けているのか、それを知りたいようで、知りたくないような気持ちだった。
「アクセル、集中しろ。まだ進むぞ」
師匠の冷静な声にハッとする。いつの間にか気が散っていたようだ。僕はアームウォーマーのホログラムを操作し、進行ルートを再確認する。
しばらく進むと、周囲の空気が一変した。壁の一部に、奇妙な模様が刻まれているのが目に入る。単なる落書きではない。幾何学的な線と円、そこに施された古めかしい言語の文字列――それは明らかに意図を持ったものだった。
「……これは?」
エイダさんが立ち止まり、指を伸ばしてその模様に触れようとする。
「やめておけ。何が仕掛けられているか分からない」
師匠が制止する。彼女の義手が小さく鳴る音が、緊張感を増幅させた。
僕はホログラムのスキャン機能を起動し、その模様を記録する。スキャンが進むと、アームウォーマーが警告音を発した。
「魔力反応……いや、もっと複雑なものが混じってる。これ、錬金術の痕跡か?」
「いや、それだけじゃない」
師匠が壁の模様をじっと見つめ、低く呟く。
「これはフェンリル教の紋章だ」
フェンリル教――その名前を耳にするたびに、背筋が冷たくなる。この地下水道でそんな存在に繋がる痕跡を見つけるなんて、想像もしていなかった。
「そのフェンリル教って、どんな組織なんですか?」
エイダさんの声が静寂を破った。彼女の視線は壁に刻まれた紋章に釘付けで、その問いには単なる好奇心ではない、どこか警戒心すら感じられた。
「簡単に言うと、頭のネジがぶっ飛んだ狂信的な連中だよ」
僕は彼女の隣に立ちながら答える。壁に映し出されるホログラムで記録した紋章を見つめ、言葉を続けた。
「北欧神話に登場する狼――フェンリルを崇めている教団だ。フェンリルが神々を滅ぼす存在だってことを信じて、それを現実にしようと活動してるって噂なんだ」
「滅ぼす……ですか?」
エイダさんが目を見開く。その言葉に彼女の中の理知的な部分が反応しているのが分かる。
「まあ、彼らにとっては“破壊”が目的じゃないらしい。フェンリルの象徴――制御不能な力を具現化することで、神々とされる存在を超える秩序を作ろうとしてるんだ」
「力の具現化、ですか……」
僕の話を聞きながら、彼女は考え込むように首を傾げた。そこに、ジャックオー師匠の冷めた声が割り込む。
「もっと具体的に言えば、“グレイプニル”を作り出すことでフェンリルをこの世に呼び込む計画を進めている。それがフェンリル教の本質だ」
「グレイプニル……?」
エイダさんが師匠の方を向き直る。その表情には明らかに困惑の色が浮かんでいた。
「猫の足音、女の髭、山の根、魚の息、熊の腱、鳥の唾液――存在しないとされる素材で作られた魔法の鎖のことさ」
僕は彼女の疑問に応えるように続けた。
「神話では、この鎖でフェンリルを拘束したんだ。でもフェンリル教は、その鎖を作り直して今度は“解放”のために使おうとしているらしい」
「解放……というよりは、そのグレイプニルで飼い慣らそうとしているのでは?」
エイダさんの声が小さく漏れる。彼女の瞳には恐怖と困惑の色が交錯していた。
「流石はホムンクルスだな。奴らは神話の中の存在を、現実にしようとしている狂った連中だ……解放と謳ってはいるが、真の目的は神を飼い慣らすことにあるのだろう」
ジャックオー師匠が肩をすくめ、壁を一瞥する。
「アクセルさん、それって止めるべきことですよね?」
エイダさんが問いかけた。その声には微かな震えが感じられる。
壁に描かれた異様な紋章が、彼女の不安を煽っているのだろう。
「勝手にさせておけばいいんじゃないかな?」
僕は軽く肩をすくめながら答える。
「え……アクセルさんって、神を信じているんでは?」
不可思議そうに尋ねてくるエイダさん。その目には、僕が何か間違ったことを言ったかのような困惑が浮かんでいた。
僕は壁の紋章を憐みの眼差しで睨みつけ、少し皮肉めいたトーンで言葉を続けた。
「いいや、僕は神も悪魔も信じていないよ。あんなものは、心の弱い生き物が創り上げた空想の産物だ。虚構だよ。信じている人にとっては存在するように“見える”だろうけど、実在しているかと言われれば……答えはノーだ」
エイダさんは驚いたように眉をひそめる。彼女の瞳には、僕の言葉が少し刺激的だったらしい。
「そんなに断言できるんですね……私は少しだけ信じてますけど」
彼女は少しだけ目を逸らしながら、静かに呟いた。
「信じていればいいと思うよ」
「人間は存在しないものを存在するものとして扱うのが得意な生き物だ。それが虚構であったとしても、心を支える強さになればそれでいいとさえ思ってる。ただ、僕に言わせれば――信仰は弱さの証明だね。ただの依存だよ」
師匠が口を開くのを感じた。彼女は冷ややかな目で僕を見つめながら言った。
「だがアクセル、それでも人間がその“虚構”に何を見出しているかを理解することは大事だと思うよ。キミがそれを見ないようにするのは勝手だけど、それを信じる人を軽んじるのは別問題だ」
師匠の言葉には冷たさではなく、静かな信念が宿っていた。彼女が“信心深い”人間だと知っていた僕には、その言葉が意外ではなかった。
「それでも師匠は僕を弟子にしてくれました……何でですか?」
僕は口をついて出た言葉に、自分でも少し驚いていた。
「簡単なことさ――」
彼女は静かに笑う。
「信仰を持たないキミだからこそ、この腐敗した街の“虚構”の裏側を見つめることができる。だがキミには、“虚構”を信じる人々を理解する力が少し足りない。そのギャップを私が埋められると思ったんだ」
僕は少し黙った。その答えには、ずっと考えようとしていなかった問いの答えが含まれている気がしたからだ。
エイダさんが目を輝かせながら師匠の方を見て言った。
「ジャックオー先生、素敵なこと言いますね!」
「だろう? ま、それが気に入らなければ別にいいさ。アクセル、お前はお前の信念を持って進めばいい」
その言葉にどう返すべきか迷っていると、エイダさんが壁に戻って何かを見つけた。
「……これって何でしょう? 教団のものだとは思いますが」
彼女が指さした紋章。その周囲には、確かに奇妙な儀式を彷彿とさせる痕跡があった。
「模様は儀式の一部だろう。何かを召喚したのか、それとも力を集めたのか……それが何であれ、ただの落書きじゃ済まない」
エイダさんはその言葉に顔を曇らせ、壁から視線を逸らす。その時、僕は微かな音を聞き取った。
「……何か音がします」
僕が耳を澄ませた瞬間、遠くから微かな足音と声が聞こえてきた。それは徐々に近づいてきて、やがて人影が現れる。
「おい、そこの連中! 生きてるのか?」
暗闇の中から現れたのは、亜人喫茶のメンバーだった。シャルロッテ、アンナ、そしてエドワード――彼らの姿に、僕は安堵と警戒が入り混じった感情を抱く。




