10「鏡界に映る真」
湿った空気がさらに重くなり、地下水道の奥から響く不気味な足音が近づいてくる。僕はアームウォーマーのホログラムに目を落とし、迫りくる異常な反応に緊張を隠せなかった。
「師匠……さらに大きな反応が複数あります!」
「分かっている。落ち着いて両眼を開けておけ」
ジャックオー師匠は静かに答え、義手を軽く鳴らして前に出る。その瞬間、闇の中から巨大な魔物が姿を現した。
全身を覆う硬質な甲殻は黒曜石のような光を放ち、鋭い爪がコンクリートを砕く音を立てる。その咆哮が僕の鼓膜を叩いた瞬間、師匠が前に出た。
異様なまでに光沢のある強固な甲殻、そして腐臭を漂わせる口腔――すでに常軌を逸している。
「デカ過ぎんだろ……!」
魔物が咆哮を上げ、水路の壁を爪で抉りながら突進してきた。その音が反響し、地下水道全体を揺らす。
師匠が構えた機匣銃から放たれた一発目は、魔物の胸を正確に捉えた。
だが――金属音のような反響が響き渡り、弾丸は弾かれる。
魔物の皮膚はまるで装甲のように硬く、銃弾は傷ひとつつけることができなかったのだ。
「アクセル! バックアップだ!」
「了解!」
僕はアームウォーマーを操作して偵察ボットを駆動させ、魔物の弱点を探るべくルートデータを送信した。だが、魔物の動きは予想以上に早く、ボットはその巨体に飲み込まれるように踏み潰される。
「くそっ、ダメだ……追いつかない!」
焦りが胸を締め付ける中、エイダさんが静かに前に進み出た。
「任せてください、アクセルさん!」
彼女が両手を水面に押し当てた瞬間、周囲の空気が震えた。体内の錬金術回路が輝きを帯び、放たれた波動が水面を伝って魔物の足元に広がる。波動に包まれた魔物は一瞬硬直し、その巨体が僅かに沈むように見えた。
「ナイスだ、エイダ!」
僕が叫ぶと、師匠が冷静に魔物へ照準を定めてエネルギー弾を撃ち込んだ。
その時、奥からさらに巨大な魔物が現れた。全身を鋼鉄のような外殻で覆い、両腕には鎌のような刃が生えている。
「これも“作られた”魔物か……?」
師匠は一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに再び構えを取った。
不気味な唸り声と共に現れたのは、先ほどの魔物よりもさらに巨大で異形の存在だった。
人間のような四肢を持ちながら、顔は魚類を彷彿とさせる異様な形状。牙が何層にも並び、その歯列の奥には渦巻く黒い霧が見える。
背中から突き出た無数の骨のような突起が、ゆらゆらと揺れていた。
「……随分と厄介そうな相手だな」
ジャックオー師匠が静かに呟く。
「師匠、僕がもう一度バックアップを――」
「“二度”も失敗されたくない。キミは下がっていなさい」
師匠の目が冷たい光を放つ。
「こういう敵のために、私には“奥の手”があるんだ」
僕たちは息を呑みながら師匠の背中を見つめた。
ジャックオー師匠が義手で水面に触れると、次の瞬間に辺りの空間が揺らぎ始めた。
「……映し出せ、真の姿を。理をねじ曲げ、虚構を現実へ――臨界操術『水底鏡界』」
師匠が低く呟くと、水面が万華鏡のように輝き、反射と屈折を繰り返す奇妙な光景が広がっていく。
水の鏡に映る景色が次第に歪み、空間そのものが異質なものに変化した。
魔物が戸惑ったように足を止めた瞬間、師匠の攻撃が始まった。
「まずは“映し取り”だ――お前の真価を見極める」
師匠の声が低く響いた瞬間、彼女を中心に展開された鏡界の水面がざわめき、魔物の姿が揺らめくように映し出された。
僕は息を呑んで師匠の技を目に焼き付ける。
魔物の輪郭が水面に溶け込んだかと思うと、まるでそれが生命を持ったかのように水面から抜け出し、実体を帯びていった。
「え……嘘だろ……!」
本物と見紛うほどの姿。その分身は、現実の魔物以上に威圧感を放ち、鏡の上を滑るように移動していった。
魔物が反射的に構えを取り、鋭い爪を振り下ろす。しかし、その攻撃は空を切る。分身は鏡界の中を縦横無尽に動き、逆に魔物へ鋭い一撃を浴びせた。まるで本物の肉体を知り尽くしたかのような動きだ。
「こ、これは一体……?」
エイダさんの驚きが声になった。その表情には恐れすら浮かんでいる。
「エイダさん、これはジャックオー師匠の臨界操術『水底鏡界』が見せる……本物以上の模倣だよ」
「“本物以上の模倣”ですか――完全に魔物の動きを再現してますね」
背後にいたロータスさんも目を見開き、息を呑んでいる。
僕の心臓が早鐘のように鳴る中、分身は本物の魔物を一方的に追い詰めていく。その速度、力、動きすべてが魔物のそれを上回っているように見えた。
「これが師匠の技……“映し取り”……」
思わず呟いた僕の耳に、師匠の冷たい声が届く。
「ふん、驚くのはまだ早いぞ」
水面が再び揺れた。そして、絶え間なく新たな分身が現れる。姿を成した分身は魔物に襲い掛かり、水流は甲殻の隙間を正確に狙い、魔物を徐々に追い詰めていった。
鏡界の分身たちは魔物を次第に追い詰めていく。動きの全てを見透かしたかのような攻撃が繰り返され、魔物は反撃の糸口すら見つけられないように動く。
だが次の瞬間、魔物の体が赤黒い光を放ち始めた。その光はまるで炎のように波打ち、壁面に触れた瞬間、石や鉄を粒子状に変えて飲み込む。周囲の空気が焼けるような熱気を帯び、僕たちに圧迫感を与えた。
「師匠、様子が変です!」
僕の言葉とほぼ同時に、魔物が地を叩きつけるように前肢を振り下ろした。その瞬間、鏡界の水面が割れた。
分身たちは一斉に消滅し、師匠の周囲に渦巻く水が蒸発するように霧散する。
「う、嘘……あの量の分身を一掃しただなんて――」
エイダさんの声が震えていた。
魔物は師匠に向かって猛然と突進する。巨大な体が放つ衝撃波で波が起こり、僕は思わず立ちすくんだ。
「流石に“映し取る”だけじゃあ限界だったか……」
僕の呟きに応えるように、師匠が冷笑する。
「面白い相手だな――もっとお前と戦いたかったよ」
魔物は執念深く彼女に向かって再び突進する。分身の消滅をものともせず、その赤黒いオーラがさらに濃くなっていく。
その直後、五番街の掌握者の声が静かに響き渡った。彼女は機匣銃を構え、その銃身が蒸気を吐きながら輝きを増していく。
「唸れ機匣銃」
彼女の言葉と共に銃口が閃光を放ち、鏡界の全ての水が渦となって魔物を包み込む。圧倒的なエネルギーが魔物を押し潰し、耳をつんざく轟音が周囲を支配した。
視界が元に戻ったとき、魔物は完全に動きを止めて灰塵と化していた。
「終わったのか……?」
僕は震える声で呟いた。師匠はゆっくりと機匣銃を降ろし、カボチャ型の防護マスクを展開すると冷たい目で魔物を見下ろす。
「映し取ったのはお前の“弱さ”だ。反省をしろ」
静けさが戻る中、僕は師匠の圧倒的な強さにただ息を呑むしかなかった。
◆◆◆
進行を再開した僕たちは、やがて道中で奇妙な光景に出くわした。
そこには人間の持ち物と思われる破損した武器と、防護服を着た人間の亡骸が転がっていた。
「これは……別企業の参加者か……?」
師匠がその場に跪き、残された痕跡を調べる。
「攻撃された痕跡がある。さっきの怪物にやられたんだろうな」
その場に漂う空気がさらに重くなる。僕は息を呑み、再び進むべき道を見つめた。
そしてようやく、ホログラムに中継基地局の明かりが映し出される。
「やっと着いた……」
エイダさんが安堵の声を漏らし、僕も肩の力を抜いた。だが、師匠は一瞬も気を抜かず、周囲を警戒する。
「油断するな。ここがゴールじゃない。これからが本番だ」
その言葉に僕は再び背筋を正した。中継基地局の向こうに何が待つのか――まだ誰にも分からない。




