08「手首が描く迷宮CPδ」
ジャックオー師匠に呼び出され、僕とエイダさんは地下水道へと続く旧都市水道管理局跡へ足を運んだ。
湿った風と腐食した鉄の匂いが漂い、どこからか水滴の音が静かに響く。今にも崩れ落ちそうな天井の鉄骨が不吉な気配を放っていた。
「師匠、いよいよですね。足を引っ張らないように頑張ります!」
「気張るのはいいが、空回りするなよ」
師匠は新しく修理した変形機構銃の動作確認をしながら、僕に目を向ける。
「今回の任務では治安維持部隊の連絡係が同行する。奴らは有事の際に連携を取る『目』の役割だ。だが、地下水道は侮れんぞ、アクセル」
「分かってます。油断しませんよ」
言葉に重みを感じたその時、軍服に身を包んだ女性がこちらを睨みつける。胸元には『ジャガーノート・バイオレット』という名札が――。
名札に向けた視界が歪み始めたその直後、痛みと共に左眼が黄金染料を受信した。
左眼に黄金色の光が流れ込んだ瞬間、網膜を焼かれるような鋭い痛みが走った。それは目の奥から神経を伝い、脳髄をかき乱しながら全身へと広がっていく。
電波のようなそれは、熱を帯びた異物が細胞を侵食する感覚にも似て、僕は必死に呻き声を抑えた。
その後――カツ、カツ、カツ――ハイヒールの硬質な音が静寂を切り裂き、僕の耳に届く。
「随分と様になってるじゃないの、アクセル」
彼女の桃色の長髪が微かな風に揺れ、ボンテージ風の軍服と背中に担いだ蒸気機関銃が、いつも通り堂々たる彼女の姿を際立たせていた。
「あれ?」
「どうしたのよ、アクセル。顔に何かついてるの?」
目の前に立つ彼女――ロータス・キャンベルを見た瞬間、気がつくと、僕は無意識に彼女の肩を掴んでいた。
驚いた彼女が『どうして泣いてるの?』と困惑の声を上げるが、僕自身その理由すらわからなかった。
どうして泣いているのか、どんな理由があるのか、そして僕の心がこんなにも不安定になっているのか、それすらも理解できなかった。
「ちょっとアクセル。これから仕事だってのに、何なのよ急に……」
込み上げる感情が抑えられなかった。
「ロータスさん……」
頬を伝う涙は止まらない。
――どうしてなんだ? 理由が分からない。心のどこか、記憶の底に触れてはいけない何かが震えている。
掴めそうで掴めない、それでも違和感がそこに在るのは確かだった。
思わず僕は彼女を見つめてしまう。
彼女がいる――その事実だけで、胸の奥が張り裂けそうな安堵感が広がった。
自分でも驚くほどに、僕は肩の力を抜いていた。
「どうして貴女がここに? ジャガーノートさんは……」
「彼女は急遽、別の企業に配属されたわ。それに決まってるでしょ? 政府から直々の命令よ。今回は私が貴方達に同行することになったの」
ロータスさんはどこか不機嫌そうに僕を睨んだ後、ふっと視線を逸らす。
「……まあ、貴方が余計なことをしでかさないか見張るつもりもあるけど」
「頼もしいです!」
僕が素直に感謝を伝えると、彼女は一瞬、驚いたように目を丸くしてから、頬を赤らめた。
「……別に、貴方のためじゃないわよ。これは任務なんだから」
「あれ? なんかツンデレっぽいですね」
「だ、誰がツンデレよっ!」
僕が冗談めかして言うと、ロータスさんは顔を真っ赤にして蒸気機関銃を掴む。
「撃つわよ?」
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
後ろで師匠が呆れたように溜め息をついた。
「まったく……お前たち、出発前にイチャつくな。しかし、代わりにロータスが配属されるとは驚きだな。ジャガーノートは何をしてるんだ……」
彼女は怪訝そうな様子で先頭を歩き、何かを考え込むように首をかしげた。
元々僕たちと同行する予定だった女性が別の企業に急遽配属された――という知らせは、あまりにも唐突だったようだ。
「……妙だな。何でまた、こんな急に?」
その師匠の一言が、まるで疑念の種を植えつけるように私の胸に残った。
◆◆◆
それから数十分後――。
僕たちは旧水道管理局に残された貯水ステーションの入り口に立っていた。
かつて水道網の中継地点として機能していたその施設は、今や鉄骨がむき出しになり、重厚な扉が無機質に地下へ続いている。
階段を降りると先駆者が通ったとみられるケミカルライトが水面に浮かんでおり、沈殿物のようなものが浮き沈みしていた。
「ここから先が本番ね。準備はいい?」
ロータスさんが真剣な表情で僕に確認する。
「はい、いつでもいけます」
僕はバックパックから偵察用の機甲手首を取り出し、アームウォーマーを操作する。
手首型の小型ボットたちが意思を持つかのように壁を這い、闇へと散らばっていった。
「相変わらず気持ち悪いものを使うわね……」
「そんなこと言わないでください。彼らは頼れる仲間なんですから」
ロータスさんは微妙な顔をしながらも、ホログラムに映し出される地図を確認する。
「この手首たちが、地下水道の地図を描いてくれるんです。僕たちは彼らの進んだルートを頼りに、未知の迷宮を進んでいける」
「へぇ……少しは頼りになりそうね」
エイダさんが後ろから小さな声で呟く。
「でも……なんだか嫌な感じがしますね。奥から……何かの気配が……」
ロータスさんが険しい顔つきで僕を見た。
「アクセル、何か見えてる?」
「……まだはっきりしませんが、何かが――」
その時、ホログラムの端に異様な影が映った。
人の形をしているが、四肢が奇妙に曲がり、不自然な動きで壁を這っている。
「何だ、これ……」
エイダさんが息を呑む。
ロータスさんは背中の蒸気機関銃を構え、低い声で言った。
「アクセル、ここから先は慎重に行くわよ」
「分かりました……」
師匠が静かに口を開く。
「ここから先は掌握者の出番だ。地下水道は魔物の巣窟だからな。だが、今回はそれだけじゃない――そこに潜む“人間”にも気をつけろ」
ロータスさんが鋭い目を僕に向けた。
「……何が待ち受けているのか、覚悟しておきなさいよ」
湿った空気が肌にまとわりつく中、僕たちは息を潜めながら、暗闇へと足を踏み出した。




