泡影篇 - 白の泡「穢された巫女の奉納」
血鉄の匂いが泡の膜を内側から腐蝕していく。視界が滲んでいくのだ。呼吸すら泡に閉じ込められたかのような錯覚に襲われ一瞬、自分が“過去”ではなく“記録そのもの”に成り果てていく感覚に陥った。
それは回顧でなければ感傷でもない――私という自己を定める同一性の構造が、周囲の“泡界の構成物”として書き換えられていく変化の動きそのもの。そして膜が軋みを上げて歪んでいき、ひとつの泡が崩壊する。その胸元から飛び出した記録は、ゆっくりと再現の兆しを見せ始めていた。
過去の記憶で美化していい受難ではない泡。
これは、須らく救われるべきだった“呪いそのもの”だ。
『お母さん、僕はえらいよ』
『彼らは穢れを奉納した』
『私は彼らにとって最低限の損失でしかない』
泡の外か中なのか――それさえ曖昧になる声が染み込むように響き、自己の輪郭が剥がれ落ちていく。そして私に似たものが泡から這い出し、しかし確実に“私ではない”ものとして立ち上がった。
「リュミエル。あれは、かつての私が演じた地獄で途絶えた誰かよ」
記録と再現、演技と命名――そして拒絶。感情という人間の爛れが瞬く間に風化し、皮膜のように記憶が剥がれ落ちる。
「あなたに泡を提示するわ。これらは、私が記録した“地獄”よ」
「……どういう意味?」
「どれが最初だったのかは、自己の縁取りを失った私には断定できない。けれど、あなたが選ぶことで、これからの“私”という構造が再定義されていくのだと思うの」
穢れのない純白の魔導王が、差し出された宙を舞う泡のひとつに視線を送った。
その泡は他の受難よりも乳白のように濁っており、強烈な異臭を放ち続けていた。彼女の指先が膜に触れる――ほんの僅かな躊躇いを孕んだ動作だったはずなのに、次の瞬間には泡が呼吸をするように脈打ち、外殻が弾けた。
そして“彼女たち”を定義していた輪郭が、界そのものに溶け出す。
『彼らは穢れを奉納した』
リュミエルの睫毛が微かに震えた。その声がどこから届いたものか、あるいはどこから再現されたものか――境界を喪った彼女には、もはや判別できなかったのかもしれない。
「これで穢れは祓われました……あなたの罪は私が背負います」
あの時代、あの世界で、私はセラという名の巫女を演じていた。禁足地と化した古びた社の座敷――湿気と煤に沈んだ空間の中心で、白装束を乱されたまま仰向けに横たわる。この時の私はただ、彼らを慰める“祓いの器”として在った。
汗ばんだ肌が燭の火に照らされて僅かに光を帯びる。焚かれた線香の香が淀む空気の中、畳には幾度もの奉納の痕が重ねられていた。囲む村の男たちは熱に浮かされたような目で私を見下ろしながら、「神の意志だ」と呟く。それは誰に向けた言葉でもない――自らの行為を正当化する呪詛にも似た自己暗示。
その夥しい穢れた声が、社の壁や畳にじわじわと染み込み、重たい残響となって座敷全体を濁らせていた。
この山深い限界集落において、セラという少女は“役割”そのものとして生かされていた。孤児として拾われ、村の長老たちの手で「神の声を聞く巫の子」として育てられたセラという少女。彼女は自分の輪郭を役目の中にすり潰し、祓いの器となることを当然のように受け入れていた。
成熟と共に育まれたその豊満な身体は、“穢れを祓う神聖な器”として扱われた。やがては穢れを祓うための性の奉納――村を蝕む罪を清める儀式の中心へと静かに捧げられていく。村の男らは年齢に関係なく、私の胎に宿す“肉”こそが穢れを清める祓いであると信じ――そして私もまた、その信仰を疑うことなく教え込まれた通りに、それを受け入れていた。
これが、私の使命。
この村で生きるということは、そういうことなのだと。
「セラよ、お前は神の器だ。この村の穢れは肉を通じて祓われる。その痛みは神が与えし試練。その身に受け、赦しをもたらすのだ」
白布の上で横たえられたその身体は、もはや意思の所在を剥ぎ取られた“器”だった。緩められた白の巫女装束が肩先から滑り堕ち、首筋を這う空気の冷たさすら、もう何の違和も呼び起こさない。
男たちの吐息が、密やかに空間を撓ませる。祝詞の響きに合わせて一人、また一人と男たちが近づき、彼女の肌に手を置いた。額へ、肩へ、胸元へ――その指先はまるで“穢れ”を掬い取るように静かで、丁寧でいて異様に慎重だった。だがその慎重さが、逆にこの儀式が“どれほど繰り返されてきたか”を雄弁に物語っていたはず。
皮膚の上を滑るその手は、もはや人ではなかった。閉ざされた土着に根付く信仰という名の熱と湿気に濡れた、別の存在――セラの身体は熱を帯びて額の汗が首筋を伝い、そして畳へと滴る。それは恐怖でも嫌悪でもない。ただ“与えられた役割”の中で起きている、生理的な現象。
内側のどこかが、じんわりと熱を持ち始める。それが何を意味するか、セラはもう考えない。
「私は神の器です。この身を通すことで貴方の罪は祓われる。痛みや躊躇いも、そして恐れも――すべて神が与えたものです。だから、どうか……穢れを私に流し込んでください。それが赦しになると私は信じています」
その声は祈りのようであり――自らを罰する処刑の宣言にも似ていた。
座敷に漂っていた淀んだ空気が、一瞬だけ静止する。そして、ひとりの男がゆっくりと膝を折る。神前に跪くような慎ましさで、けれど確実にセラの身体の上へと身を傾けていった。
その目には神聖を装った敬意と、熱に浮かされた欲が交錯していた。指先が彼女の腰に触れ、儀式の導きに従うように彼はその身を密やかに重ねていく。セラの内へと進むたび、柔らかな肉が僅かに粘り内壁が押し広げられ――畳が低く軋み、祝詞の声が微かに震える。
セラの唇が閉じられ、呼気だけが揺れる。
握りしめた布が音もなく指に食い込み、身体の奥で何かが、静かに反応を起こしていた。
「……もっと深く、祓ってください」
呟くように、けれど確かに。
その時のセラの――私の声音は願いにも祈りにも似ていたのだろう。
「よいぞ。その穢れを器へと注げ」
長老の声が祝詞に重なり、静謐な儀式の時間は次の段階へと、滑るように進行していった。
それは、痛みや快楽でもない。ただ、セラという“神意を受け入れる器”が定められた手順に従い、その身を差し出しているというだけの行為。その瞬間に起こるすべて――侵入と熱、締めつけと体温の交錯、肌の擦れ合いと粘膜の蠢き。どれもが『穢れを祓う神の摂理』として深くどこまでも刷り込まれていた。
感覚はある。だが意味はない。
これは儀式。それ以外の何ものでもない。
『この身を通して罪は浄められる』
そう教えられ、そう信じ、そうしか知ることがなかった。だからこそ、男の身体が奥へと沈むたびに――セラの意識はまるで祈祷の詞のように静かに、この場ではない何処かへ静かに遠のいていった。
畳に伝わる微かな震え。汗と香の煙が交じり合い、空間に静かな湿り気をもたらす。
男の吐息が熱を帯びて彼女の肌を這い、肩口に染みを残していく――身体は反応する。だが、それは意思ではない。ただ彼らの“穢れを受ける器”として、神の摂理に応じた生理的現象だった。
そして祝詞が濃くなる。言葉が空気を撓ませ、耳奥にねばついた音の残響を残す。その最中、彼女の奥へと熱が流れ込む――穢れ、罪、赦しと呼ばれた白濁色のものたち。それらが彼女の内に積み重なっていくとき、セラの肌はほんの僅かに硬直し、まぶたの裏側で淡い光が明滅した。
ふと、セラの視線が天井へと向けられた。煤けた梁には、長年焚かれ続けた灯火と線香の煙が染み込み、まるで星図のように斑点が広がっている。
(……あの染み。かつては十七だった。けれど今は、何度数え直しても十九に増えている。あそこ――梁の端には、新しい亀裂も)
「またひとつ……増えた」
儀式の熱に包まれているはずの胸元が、氷水を流し込まれたかのように冷える。彼女がこの社で初めて「性の奉納」を受けたのは、十代の春。あれから幾度、こうして身を横たえ、ただ天井だけを見つめてきたのだろう。
「何度……この天井を見たのだろう」
思わずこぼれた呟きは、祝詞の響きにもかき消されず、座敷の闇に波紋のように溶けていった。その間にも、白布の下からは奉納の証が熱をもって滴り、彼女の下腹に重さを刻んでいく。胸は祝詞に導かれた男の手によって上下し、汗が首筋を伝って畳に滴る。無意識に、セラの指先は白布を握り締めていた。
神託の器として与えられたこの役目――それを今も果たしているはずなのに、セラの意識は染みの数と共に、どこか遠くへと離れていく。
「あっ……」
そのときだった。
天井の梁から黒い液体が一滴、頬に触れた――ような気がした。
反射的に目を開く。だが、何も垂れてはこない。視界の端で天井の染みが微かに脈動し、形を変えているように見えた。耳に届く祝詞の声が、ふたつ、みっつと重なって聞こえる。長老の響く声が幾重にも折り重なり、背後から“誰か別のもの”が囁いているようだった。
「……これは、神の声……だよね……?」
思考が温度のある現実からずれはじめる。灯火の揺らぎは舌のように蠢き、床下から這い上がる冷気が背筋を撫でた。
「次の者よ、前に出なさい」
長老の声が座敷に響いた――はずだった。だがセラの……私の耳には言葉の裏に、ざわりと舌を這わせるような異音が重なっていく。祝詞が現実の言葉であるかのように座敷に響くが、その鳴りと同時に彼女の目には近づく村人の顔が――蛇の鱗のように、細かくひび割れて見えた。
一瞬の幻覚。そう思って瞬きを繰り返し、セラは微笑みながら奉納を続けた。
(ダメだよね。儀式はまだ終わっていない。彼らのために穢れを祓わねばならない。それが――それこそが自分の務めだから)
彼女の手が次の男の首にそっと回された瞬間――座敷の空気が僅かに変わる。湿り気を帯びたそれは、人の体温とは別種の重さと濁りを孕んでいた。
響く祝詞が、どこか違う。
耳に届くはずの文句が、ほんの僅かに捻れている。
「……罪を祓え」ではなく、「……命を差し出せ」と。
「……神の光に戻せ」ではなく、「……蛇の咽を潤わせよ」と。
セラの耳はそれを異変とは捉えず、ただ祈りとして受け取る。けれど私の背には、這い上がるような冷気がまとわりつき、畳の奥から濃密な穢れがじわじわと滲み出していた。
「神よ、この器を通じ、我らの穢れをお召し上がりください」
長老の声に重なる祝詞の響きは、いつも通りに聞こえる。だがその言葉には、どこか生温く湿った違和が混じっていた。
男たちは再び順にセラへと手を伸ばす。その触れ方が、どこか変わっていた。かつては神の意志を慎重に扱うような、神聖な儀式としての動きだったのだが今は違う。彼女を“生きたもの”としてではなく、何かの胃袋に滑り込ませる“供物”として扱う――そんな重く、荒々しい手つき。
それでも、セラの唇からは祈りが漏れた。
「この身を通して……どうか穢れを祓ってください……」
だがその声は、彼女のものだけではなかった。祈りの響きに、もうひとつの“何か”が重なる――湿って低く、背後から這うように忍び寄る他者の声。誰のものでもない。けれど、確かに彼女の内側にいる“何か”の声。
下腹に宿る熱が、じわじわと拡がっていく。
それは奉納によるものなのか、それとも――。
祝詞はなおも続いていた。けれど、もはやその響きは彼女の耳に「言葉」として届いてはいなかった。壁の隙間から染み出すように聞こえる何かの笑い声が、座敷の温度をほんの少し下げていく。私はただ微笑み、次の奉納者の穢れを受け入れる姿勢を崩さずにいた――なのに祝詞がふっと途切れたその瞬間――沈殿していた空気が、ゆっくりと裏返るように一変した。
長老が静かに立ち上がり、灰皿のような器に乾いた麻の束を置く。火が焚べられた次の瞬間、「しゅう……」という低い音と共に、甘く、そして苦い煙が立ちのぼった。
「巫女を……神のもとへ」
その声が普段より、どこか遠く――けれど確かに、私を育てたあの長老の声として届いた。いつも聞いてきた穏やかな祝詞の声。なのに、今だけは少し濁って響いていた。麻の煙が座敷全体へと広がっていく。最初に痺れたのは指先だった。それから足先、喉、そしてまぶたへと鈍い重さが伝わる。それはまるで、身体の輪郭を溶かし、祠へと運ぶための“霧”のようだった。
この香りは……いつもと違う。いや、知っている。これは清めだ――穢れを深くまで受けてしまった私に、神のもとへ近づくための処理だと、そう教えられてきた。
長老がそう言っていた。
祝詞にも、そう書かれていた。
何度も、何度も聞かされてきた。
だから、私は信じていた。
これが正しい。
きっと、正しい。
疑う理由なんて――どこにも、ない。
布がふわりと降りて、私の身体を覆った。男たちの腕にそっと抱えられ、畳の温もりから引き剥がされていく。揺れが全身を包み込むが、私は身を任せたまま、何ひとつ抗おうとは思わなかった。まるで眠る赤子のように静かに、ただ従順に――そうすれば、また朝が来ると信じて。
渡り廊下を進む足音。軋む古木の響きが遠くに反響し、通路の灯火がぽつり、ぽつりと続いている。その灯りが蛇の目のように見えたのは気のせいに決まっている――この時の私には、それさえも清らかな“神意”のように映っていたのだから。
「神が見ていてくれるのなら……きっと、大丈夫」
そう心の内で呟いたとき、私は祠の前へと辿り着いていた。そして無言のまま、セラの胎に穢れを注いだ彼らは私を台座の上にそっと横たえる。誰も言葉を発しない――ただ、最後の一人が私に掛けられた布の端を丁寧に整え、何かを言いかけるように口を歪ませ――だが結局、何も言わぬまま背を向けた。
その背中が扉の向こうへと消えると、木戸が音もなく閉じられた。
残されたのは、麻の煙が満ちた匂いと、ゆらめく灯火の淡い光。そして、横たわる半裸の私――ひとりだった。
息が浅い。
胸の奥がじわじわと焼けるように熱を帯びていく。
けれど、それは“神のもとに捧げられた者”だけが与えられる証なのだと、私は信じていた。
「これは……正しい。きっと、正しい。ずっと、そう教えられてきたのだから……それ以外を私は知らない」
台座の上で身じろぎを試みるが、白布の内側で汗ばんだ肌が軋んだだけだった。身体は思うように動かない――麻の煙が、まだ身体の奥に残っているのだろう。あたりは静まり返っていた。祠の空気は外の座敷よりも一段と冷たく、乾いている。けれどその底には、微かに生臭さを含んだ“濁り”が沈殿していた。まるで、それ自体が何かの体温のように。
どれほどの時間が経ったのだろう。
灯火はまだ揺れている。最初はただの炎に見えたその光が、瞬きを重ねるたびに微かに形を変えていく。輪郭が揺らぎ、まるで“何かの眼”のようにも見えた。
「……見られてる?」
誰もいないはずなのに、視線だけが確かにあった。
台座の木目が、脈を打つように僅かに震えている。それは私の鼓動か――それとも。
そのとき、祠の奥で軋む音が響いた。
闇の奥で誰かが動いた?
私は喉を潤すように呼吸を整え、かすれる声を漏らした。
「……神さま……?」
返答はない。
だが代わりに、ぬるり、と床を這う音が耳を撫でる――ぬるり、ぬるり――と視界の端で黒い何かが動いた。それは影のようでありながら、影ではなかった。命を宿し、意志を持った――長く、うねる明らかな何か。
「ちがう……これは……神じゃない」
喉の奥に詰まったような違和感が、言葉にならない。
胸が熱い。息が苦しい。
麻の煙がまだ体内に残っているせいか、それとも――恐怖のせいか。
私は台座の上で身体を起こし、足を下ろそうとするが――ガンッ――祠の中に、乾いた金属音が響いた。足首に冷たい感触が走り、そのまま崩れ落ちる。額が床にぶつかり視界がぶれる。ぼやけた灯りの向こうに――鉄の鎖が見えた。
「なに、これ……?」
腕を動かすと、手首にも金属の重みを感じる――ガチャリ、と鎖が引きずられる音。立ち上がろうとするたび、膝が折れて思うように体が動かせない。
「いや……なんで……?」
逃げなきゃ。ここは神のもとなんかじゃない――けれど、扉の向こうには誰もいない。叫び声は分厚い木戸に吸われ、音のない空間に消えていった。
『彼らは穢れを奉納した』
祠の奥から、低く湿った声が響いた。静かで、それでいて――胸の奥を握り潰すような重みを滲ませる声色。
「……ちがう、これは……神様の声じゃない……」
それは“人”の声ではなかった。祠の闇のさらに奥――見えない深淵から、這い出してくる気配。私の足首に絡んだ鎖が、ぬるりと音を立てて引かれる。身体が台座からずり落ち、床を這うようにして引き摺られていく。
「やめて……! 誰か……!」
声が震え、喉が焼ける。けれど、誰も来ない。清らかに思えた灯火が一本、また一本と遠ざかっていく。今はそれが、蛇の舌のように思えた。
引きずられるまま辿り着いた先――そこにはもう、光が届かない。濡れた床。腐った油のような臭気。そして、ぬるりとした気配が私のすぐ前に蛇が現れた。巨大な胴体がうねり、皮膚は粘膜と鱗の中間のような質感。それは人の顔を引き伸ばしたような、壊れかけの仮面を顔として飾っているようにも見える。
「……逃げないと」
怪物が私に近づく。口元がひくりと歪み、裂けた唇から声が漏れた。
「……また彼らが、穢れを奉納したのね」
女の声だった。
それは悲しみを湛えた、どこか懐かしい響き――血と泥に濡れた空洞から搾り出されたような声音。
「貴女も……そう教えられたでしょう? 赦しを与える者だと。でも――それは嘘よ」
その影が緩やかに揺れる。腹部なのだろうか――いや、胸元から光が漏れる。そしてそこから現れたのは、ひとりの女だった。私と同じような白装束と、私にはない手首に巻かれた血の布。けれどその瞳は、私によく似ていた。
「私も……かつては巫女だった。この村で神の声を聞く者として選ばれ、育てられた。でも、奉納を終えた夜――私は“蛇螺”へ差し出されたの」
その悲しみでは表せない声色は、空間全体に響いていた。
「赦されたいと願っていただけなのに……気づけば私も蛇螺という怪異の一部になっていた。だからセラ、貴女も……そうなる」
女の姿は蛇螺の肉の中に、音もなく溶けていった。それは誰かの夢のようで、あるいは――未来の私の姿そのもののように見えてしまう。
私はその場に膝をつき、どうにか喉を震わせた。
「……嘘だよ……そんなの……こんなのって……」
指が震えていた。手足の枷と鎖が肉の上をずるりと引きずられ、どこかに引き込まれる感触。でもそれよりも先に、私の足が、腿が、ぬめる感触に包まれていく。祠の床――いや、これまで巫女だった全ての“蛇螺の肉”が、私の体を受け入れようとしていたのだろう。
逃げなきゃ――と思った。でも、逃げる理由を思い出せなかった。
「私は……巫女……だよね? 神に……選ばれた……んだよね……?」
そう口にすると、喉が熱くなった。
涙ではない。それはまるで、心の奥で何かが焼かれていくような痛みだった。でも、それを“痛み”だと認識することが、もう今の私にはできない。
足の感覚が消える。
指先から、ぬるぬるとした膜のようなものが絡まり、皮膚が少しずつ剥がされるでもなく“組み替えられて”いく。
「やだ……いや……」
声は震えず、ただ音として口から滑り出た。
誰も助けには来ない。
来るはずがない。
だって、これは“儀式”なのだから。
みんな、知っていたのだから。
私の肌が――私ではない何かに変わっていく。セラという胴体の奥、男らの吐き出した白濁が注がれた胎の底に――何か別の心臓が生まれていくのがわかる。それはゆっくりと脈を打ち、私の内側に“異物”としてではなく、それが“当然のもの”として根を張っていく。
セラと私の目が見ている光景が赤く、蠢いて、崩れていく。
「これは……神の……意志だよね……」
最後の確認のように口にしたその言葉が音にならず、息だけに変わった。
頬が濡れている。
汗かもしれない。
涙かもしれない。
けれどそんなのはもう、どうでもよかった。
彼女はずっと信じてきたのだ。
これが正しくて、これが救いで、これが“赦し”なのだと。
疑ったことなど、一度もなかった。
だから、どうか。
赦してください。
この身を通して――この心を通して――どうか――どうか――と。
祠の奥から、ぬるりと音がした。
最後の灯火が音もなく消え、闇がすべてを包み込んだ。
そこに、残されたのは人の姿はない――ただ、ひとつの巨大な影がいた。
それは女の声で、笑っていた。
とても静かに。
とても、哀しげに。
「ねえ、セラ。まだ“神”を信じているの?」
答える者はいない。
もうその名前を名乗る者は、この世界にはいなかった。
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