15「聖なる胎動」
「……侵入者か?」
骸の教団の下級信徒は、倉庫内に立ち込める冷たい霧の中で耳を澄ませた。微かに響く靴音、影で蠢く何かの気配――通常ならば気にするほどのことではない。だが、今夜は違った。
「報告しろ。上層部は『生誕祭』の最終段階に入っている」
低く囁かれる声。この夜の儀式は、決して外部に知られてはならない。失敗は許されない――それが、骸の教団の絶対的な掟だった。
彼の背後に、影が忍び寄る――だが、それを察知するよりも早く、冷たい刃が喉元に突きつけられた。
「……騒ぐな」
低く冷たい声が男の終わりを告げた。凍るような殺気が背筋を這い上がる。次の瞬間、信徒の視界が反転し、闇が訪れた。生臭い血の匂いが、倉庫の湿った空気に溶け込む。
ノアは冷たい刃を静かに引き抜き、崩れ落ちる信徒の身体を静かに受け止めた。義手の指先に伝わる肉の感触が、かつての戦場を思い出させる。けれど、今の彼女に迷いはない。
背後から近づくエイダが、慎重に倉庫内を見渡しながら呟く。
「……容赦ないですね」
ノアは短く息を吐き、血の付いたナイフを布で拭いながら冷静に答える。
「時間がないのよ。躊躇ってる暇なんてない……」
倉庫内の湿った空気が、皮膚を冷たく撫でる。金属の軋みが微かに聞こえ、奥へと続く廊下は影が深かった。二人は音を殺しながら倉庫の奥へと進む。
埃っぽい空気が喉に絡みつく。積み上げられた木箱の隙間から、薄暗いランプの灯りが漏れ、その下で教団の信徒たちが詠唱を続けていた。
ノアは壁際に身を潜め、エイダに手で合図を送る。
(あそこに……)
彼女の視線の先には、鎖に繋がれた椅子に座らされているセラの姿があった。顔色は青白く、虚ろな瞳が宙を彷徨う。彼女の腹部は僅かに膨らんでおり、黄金の光が揺れ、その周囲の空気が微かに波打っている。
ノアは息を呑んだ。その姿を見た瞬間、彼女の脳裏に強烈な映像がフラッシュバックする――。
暗く冷たい海の底。その静寂の中でセラが漂う。水泡が彼女の周囲を取り囲み、その黄金の瞳は恐怖に染まっていた。
(……ダルク?)
手を伸ばそうとした瞬間、セラの表情が引きつり、怯えの色を濃くする。水中の光が揺れ、彼女の唇が震えながら微かに動いた。
『……壅遏』
鋭い声が脳内にこだまする。
ノアの身体が水に溶け、背後に巨大な影が伸びる。セラは恐怖に駆られたように遠ざかり、彼女の必死の呼びかけも意味を成さなかった。
その意識が現実に戻ると、変わり果てた彼女の姿が目に映る。
(……今の私は、彼女を救えるの?)
ふと、隣のエイダが小さく息を呑むのが聞こえた。
「……あれが先輩?」
エイダの声が震えを帯びる。ノアは胸の奥が締め付けられるのを感じながらも、冷静さを保つために深く息を吐いた。その瞬間、倉庫の奥から不穏なざわめきが広がった。低い囁き声が飛び交い、信徒たちが慌ただしく動き出す。
「生誕祭の儀式が……!」
結界が脈動し、まるで胎児が鼓動するように倉庫全体に異様な圧が満ちる。
「間に合わない……!」
ノアが走り出そうとした瞬間、倉庫の入り口が勢いよく開かれた。
「セラ君‼︎」
ヴァイオレットの叫びが、倉庫内の静寂を打ち砕いた。
彼女の背後には、魔力で具現化したハルバードを構えるクラウディア、鋭い視線で辺りを見渡すアネモネの姿がある。彼女たちの突入と同時に、骸の教団の信徒たちが一斉に動き出した。
金属の擦れる音、靴音、警戒のざわめき――戦闘が始まる。
「儀式の進行を止めさせるな!」
戦場と化した倉庫の中央で、セラの瞳が微かに動いた。
(……来ないで)
けれど、その声は誰にも届かない。
光の胎動が、ゆっくりと脈打ち始める。
(私は……このまま……)
◇◆◇
信徒たちは杖を構え、一斉に詠唱を開始する。空気が魔力の波動で震え、黄金に輝く倉庫内に異様な圧が満ちていく。儀式の妨害を阻止するため、彼らは躊躇なく攻撃の準備を進めていた。
ヴァイオレットはセラへ向かおうと駆けた。しかし、床に刻まれた魔法陣が突如として脈動し、結界が周囲を覆う。
「……っ、弾かれる⁉︎」
彼女の前に不可視の障壁が出現し、進行を阻む。床に広がる光の線が絡み合い、異形の紋様が浮かび上がった。
「クソッ……厄介な仕掛けね」
ヴァイオレットが忌々しげに呟いた。その隣でクラウディアが一歩前へ進み、ゆっくりと目を閉じる。黄金染料による未来視を展開し、戦況の先を読む――しかし、突如視界が歪み、像が二重三重にぶれる。
「……っ、ダメ……未来が……歪んでる……!」
クラウディアは激しい頭痛に襲われ、膝をついた。意識を引き裂かれるような感覚が彼女を苛む。
「クラウディア!」
ヴァイオレットの叫びも届かず、倉庫の奥から骸の教団の信徒たちが一斉に詠唱を加速させる。魔力の波動が更に強まり、空間そのものが揺らいだ。
「そんな隙だらけの詠唱、のんびり聞いてる暇なんてないよね?」
アネモネが冷静に呟く。その指先が軽く弾かれると、空間が歪み、瞬時に呪力障壁が展開された。骸の教団の一人が放った魔弾が障壁に衝突し、霧散する。
「はぁ、弱すぎない? あんたたち、本当に教団の戦闘員?」
アネモネは軽く嘆息しながら槍を構えた。呪力が螺旋を描き、彼女の腕の中で槍の形を成す。それは王黒蠍セルケトを討つために用いられた、呪力を圧縮し生み出した龍槍バイデント――彼女自身の異能の象徴だった。
「さぁ、全員サンドバッグにしてやるからな!」
アネモネが槍を振り抜いた瞬間、鋭い斬撃が倉庫内の空気を裂く。
「ぐぁっ……!」
骸の教団の信徒たちは防御の暇もなく吹き飛ばされ、壁に叩きつけられた。
「次は誰にしようかな?」
アネモネは悠然と槍を構えたまま、骸の教団の残存兵に視線を向ける。その余裕が、彼女の圧倒的な力を物語っていた。
「ふざけるな……!」
信徒の一人が叫び両手を掲げる。次の瞬間、魔法陣が輝き、彼の周囲に黒い影が蠢く。
「おお……おお……ルミエル様の……力を……!」
黒い霧が凝縮し、影の触手が地面を這うように広がる。
「へぇ、召喚術? ちょっとはマシな芸ができるのね」
アネモネは冷静に呟く。その表情には焦りの色はない。槍を軽く回転させ、再び指を弾く。影の触手が形を成すよりも速く、呪力障壁が展開された。
「こんな低級な呪い、通用するわけないよね?」
影の触手がアネモネを襲うが、障壁に阻まれ、弾かれる。
「返してやるよ」
アネモネは一瞬のうちに槍を振り上げる。放たれた呪力の刃が、召喚された影の魔物と信徒を一閃し、空間ごと切り裂くように消し去った。
「さ、次は誰?」
アネモネは槍をくるりと回しながら問いかける。その声は軽やかでありながら、冷酷だった。
金属の擦れる音と魔術の光が入り乱れる倉庫の中、ヴァイオレットとアネモネが骸の教団の信徒たちと激突していた。魔導弾が飛び交い、魔術の詠唱が響く。そんな中、ノアはエイダと共に倉庫の奥へと向かっていた。
しかし、二人の前に現れたのは――。
「まさか……こんな形で再会するとはね」
黒の修道服を纏った長身の女性。銀色の義手が鈍く光る。骸の教団「衝動保持者」の上級管理者という立場にある女。彼女の名はイザベラ・マクシムス・コンスタン――かつては「便利屋ハンドマン」のオーナーであり、五番街を統治していた元掌握者だった。
エイダが低く息を呑む。
「……ジャックオー先生」
「もうその呼び方はよしてくれない? 今の私は教団の一員なのよ」
イザベラは冷めた笑みを浮かべながら、義手を軽く回す。その動作に合わせ、金属の軋む音が響いた。
ノアは無言のまま構えた。目の前のイザベラの姿に、一瞬、過去の記憶がフラッシュバックする。しかし、今はそれに浸っている場合ではなかった。
「……ダルクの師か。邪魔をしないでくれるかな?」
イザベラは肩をすくめた。
「それはできない相談ね。だって私の仕事は、お前たちを止めることだから」
「本気で戦う気か?」
「……さあね。どう思う?」
そう言った次の瞬間、イザベラの義手が変形した。機械音を響かせながら、骨格装甲が展開し、内部の人工筋肉が剥き出しになる。それはまさに、かつてアクセルが設計した「究極の改造機関義手」だった。
「……お前も義手なのか」
ノアが僅かに目を細める。
「ああ、アクセルが作ってくれた最高傑作だよ。私が自分の力を使うのに、いちいち言い訳が必要かな?」
イザベラは挑発するように微笑んだ。そして、次の瞬間、地を蹴る。
空間が歪むほどの速度で接近し、ノアの眼前に拳が迫る。その刹那、ノアは未来を視た。
(くる――!)
直感よりも先に身体が動く。ギリギリのタイミングで回避し、イザベラの拳が床を抉った。その衝撃で床が裂け、瓦礫が舞い上がる。
エイダがすかさず動く。
「……魔導撃!」
エイダの魔導核が脈動し、周囲の魔力場が急激に圧縮される。掌から放たれるエネルギー弾は、聖赤結晶238と235の変換によって生成された高密度の魔導弾。その威力は、かつて魔導王が送り出した人型魔導骸『アーカム』を含む一個部隊を壊滅させたほどだ。
イザベラは実験を楽しむかのように微笑み、迷いなくその光の奔流へと踏み込んだ。
「避けないの⁉︎」
エイダの目が驚愕に見開かれる。放たれた魔導弾は一直線にイザベラの胸元を貫くかに見えた。
しかし、その瞬間にイザベラの身体が、まるで幻のように歪む。魔導弾が彼女の背後の壁を抉ったが、イザベラ本人には傷ひとつついていない。
「空間転移か……!」
エイダは即座に魔力を集中し、再び魔導弾を生成する。しかし、次の瞬間にはイザベラの姿が視界の端に現れた。彼女はエイダの死角から現れ、余裕の笑みを浮かべていた。
「遅いわね、反応が」
イザベラの機関義手が唸りを上げ、エイダの側頭部を狙う。しかし、エイダはギリギリで姿勢を低くして回避。すぐさま反撃の貫手を繰り出すが、イザベラは再び空間の歪みとともに姿を消す。
(ただの空間転移じゃない。移動のタイミングが完璧すぎる……)
エイダは冷静に分析する。イザベラの転移には、何らかの予測不能な要素が組み込まれている。単なる瞬間移動ではなく、敵の心理を読み取るかのような精度で移動しているのだ。
「……なるほど。読み合いってわけか」
エイダは一歩下がり、呼吸を整える。魔導核の輝きがさらに強くなり、彼女の周囲に淡い赤い光が揺らめく。魔力の密度が跳ね上がり、空気がピリピリと震えた。
イザベラはその様子を見て、楽しげに口角を上げる。
「やっと本気を出す気になった? いいわ、その顔を待ってたのよ!」
再び、二人の距離が縮まる。
エイダはフェイントを織り交ぜながら魔導弾を放つ。しかし、イザベラは再び空間転移で回避。しかし今度は、エイダがその移動先を読んでいた。
「読めた!」
イザベラが現れる瞬間を狙い、エイダは即座に二発目の魔導弾を放つ。イザベラは驚愕する暇もなく、今度は真正面から魔導弾を迎え撃たれることになった。
「甘いわ」
機関義手を前に突き出し、イザベラは魔導弾の直撃を真正面から受け止めた。衝撃が弾け、轟音と閃光が倉庫内を満たす。しかし、イザベラは倒れない。彼女の義手は、魔導弾のエネルギーを吸収し、逆に圧縮していく。
(……エネルギーの変換機構? こんな無茶なことが……!)
エイダの脳内に警告が鳴り響く。次の瞬間、イザベラは吸収した魔力を逆流させ、強烈な魔力弾としてエイダに向けて放った。
咄嗟に防御の魔力障壁を展開するエイダ。しかし、圧縮されたエネルギー弾は障壁ごと彼女を吹き飛ばし、重い衝撃音と共に倉庫の壁に叩きつけられた。
埃と煙が舞い上がり、イザベラは肩で息をしながら、ゆっくりと歩み寄る。
「終わりかしら?」
だが、埃の中から再び立ち上がるエイダの姿があった。彼女の顔には傷が付き、口元から僅かに血が滲んでいる。しかし、その瞳には消えない光が宿っていた。
「……終わりませんよ。私は、ここで負けるわけにはいかない」
イザベラがもう一歩踏み出そうとした、その瞬間――。
「させるか!」
鋭い声と共に、イザベラの義手と交差するように淡い青白い光が疾走する。それはノアの放った斬撃だった。光の刃がイザベラの前に立ちはだかり、彼女の足を止めさせる。
イザベラは僅かに眉をひそめ、視線を横へと向ける。
「……忘れてたわ。まだ一人いたのね」
ノアは静かにエイダの隣へ歩み寄る。その瞳は冷静そのもので、イザベラを鋭く見据えていた。
「エイダ、一人で背負い込む必要はないわ」
ノアの言葉にエイダは一瞬だけ驚いた表情を浮かべるが、すぐに小さく頷いた。
「……ありがとうございます、ノアさん」
イザベラは小さくため息をつき、皮肉げに笑う。
「二人がかり? それでも勝てると思うなら、かかってきなさい」
その挑発的な言葉に対して、倉庫の入り口付近から別の声が響いた。
「二人だけだと思わないことね、イザベラ」
その声と共に現れたのは、ヴァイオレットだった。彼女は冷ややかな視線で戦場を見渡し、ゆっくりとエイダたちの元へと歩み寄る。
エイダの目が驚愕に見開かれる。
「ヴァイオレットさん……⁉︎ どうしてここに?」
ヴァイオレットは肩をすくめ、冷静に答える。
「クラウディアとアネモネがセラ……アクセルを救い出そうと向こう側で戦っているわ。私がここに来たのは、あなたたちの援護をするため」
イザベラは興味深そうにヴァイオレットを見つめた。
「ふーん、増援ってわけね。でも、数が増えたところで――」
ノアが一歩前に出て、淡々と殺意を告げる。
「これ以上、構ってる暇はない。相手がダルクの師であったとしてもだ」
イザベラは小さく笑い、義手を再び構える。
「いいわ、三人まとめて相手してあげる」
エイダとノア、ヴァイオレットの三人は呼吸を整え、戦闘態勢を整える。倉庫の空気は一層緊張感を増し、再び激しい戦いが幕を開けた。
ノアは無駄な言葉は発さず、再び短剣を構える。エイダも魔導核の光をさらに強め、再度立ち上がる。そして、二人は息を合わせて動き出した。




