08「夜の帳の下で」
セラはグラスをそっとテーブルに置き、身なりを整えて彼の正面に腰を下ろした。
「待たせて悪かったわね、小龍」
「いや、別に待たされてなんかねえよ」
小龍が肩を竦めて軽く笑うが、その声はいつもより少し硬い。周囲の喧騒が遠く感じる中、柱の影に隠れたこの席は妙に静かだった。
二人だけの空間が切り取られたような不思議な感覚に、彼は小さく息を漏らす。自身の前に置かれたグラスは、ほとんど手付かずのまま。それをセラは気になりつつも、小龍の言葉を待つように髪を指先で弄る。
「なあ……アクセル」
ふと、彼が視線を落としながら名前を読んだ。その声には迷いが混じっている。
「俺が二番街の掌握者になってから、もう半年になるだろ?」
「あら、もうそんなに経ったのね。目立った騒ぎも耳にしないから、よくやってる方じゃあないのかしら」
セラがグラスを持ち上げて柔らかく答える。その意外な言葉に小龍は一瞬だけ気が緩んで微笑むが、すぐに眉をひそめて真剣な表情に戻った。
「でも正直なところ、どう動けばいいのか分からない。それに、地上の奴らときたら俺たちを地底人扱いだぜ? ムカつかねえのか?」
「別に私は気にしてないわよ、そんなつまらないこと気にしてたの? 地の底に住んでいる以上、それが正しい認識じゃない?」
彼は悔しさのあまり拳を握り締め、テーブルに目を落とす。
「まあ、そうだけどさ。でも、俺たち掌握者からしてみれば、例の教団や水上都市メッシーナの帝国錬金術師、それに――」
「他はベアリング王都とパラデア帝都だったかしら? あの混乱の日に駆け付けてきたのって……そう、蘆屋道満との戦いの時よね?」
セラは静かに彼を見つめて壁に寄りかかる。その目には、どこか母性すら感じさせる優しさがあった。
「色んな組織がアンクルシティに集まったわね。どの組織も優秀な人材を引き抜こうと躍起になってる。だけど、私たちの大統領サマは独りじゃあロクに意見も主張できないから、側近の女性補佐官に頼りっぱなしって噂なのよ?」
彼女が語った『大統領サマ』という言い方には、どこか揶揄の混じった響きがあった。それでもセラの目はどこか楽しげで、ほんの少しだけグラスを傾ける余裕すら残されている。
小龍はその様子を横目で見ながら、彼女の言葉を反芻した。
アンクルシティに集まった『色んな組織』というフレーズが脳内で繰り返されるたび、ここ最近の自身の不安定な立場を象徴するかのように、彼に不安をもたらす。
「ああ、ダストのことか……」
小さく笑いながら呟く。
「文句も言わず、いきなり我が物顔で……いや、あのオッサンの調子なら、むしろ気にしてなんかいねえのかもな」
彼の声には、どこか憧れと呆れが入り混じった色が感じられた。ダストという存在をどう評価すべきか、彼自身もまだ答えを見つけられていないかのように――。
セラはそんな彼の様子をじっと見つめていたが、やがて軽く肩を竦めて再び語りかける。
「小龍、何が心配なのか理解できないけど、それでも貴方はよくやってるわ。劉家の権力が崩壊しても、二番街での犯罪率が横ばいなのがその証拠だとは思わないの?」
「……そうか?」
まるで自分の手柄を信じきれないようなその表情に、彼女はほんの少しだけ、いつも以上に優しい笑みを浮かべた。
しかし、セラは小龍の視線が再びテーブルに落ちるのを目にした瞬間、微笑みながら席を立ち上がり、草臥れた彼の真横へ移る。
「人間は全てを一人で抱え込めるほど優秀な生き物じゃないの。貴方にだって信頼できる仲間がいるはずなんだから、もっと頼ってみてもいいんじゃない?」
「……頼れる仲間か。ここに峻強様がいれば、もっと上手くやれてたのにな」
彼は苦笑したものの、グラスに向けた目には一瞬、遠い過去に消えた懐かしさが宿る。
「それにしても、最近は会談だのなんだのって、やたら上層部との対話ばかりでさ。正直、疲れるんだよな……」
グラスを一口飲みながら、小龍がボヤくように言った。
「一番キツいのはさ、あいつらが俺のことをまだ子供扱いしてくることだよ。掌握者になった俺の前で、『若いのに大したもんだ』とか言いながら、内心では舐めてるのが見え見えなんだ……」
彼の話を聞きながら、セラは口元に笑みを浮かべる。
「それは……思い悩むだけ無駄じゃあないかしら。こんなにも近くに高身長で魔性の掌握者が居て、その女は二番街の新たな掌握者と幼馴染なんだから。誰だってつい比べたくなるものよ――」
「うっせえよ! さっきからやけに距離詰めてくるし……お前、いつからそんなキャラになったんだよ!?」
軽口を交え始めた小龍は、ふとセラの顔を見た。その視線は一瞬だけ、胸元や臀部を経由しながら意図せず彷徨う。その動きに気付いたのか、彼女はふいに身を乗り出し、彼の顔を覗き込むようにして微笑んだ。
「ねえ、どこ見てるの? まさか……今の私にそんな魅力があると思ってくれてるわけ?」
「なっ……!? そ、そんなんじゃねえよ!」
慌てて視線を逸らし、無理やり話題を変えようとする小龍。しかしその態度が、逆にセラの加虐心を刺激したらしい。
「ふふっ、冗談よ。けど……最近の余裕のない貴方を見ていると、他の女が尻尾を振って寄り付いてくるのも納得できるわ」
その一言に、小龍の顔からさっと熱が引いた。
「余裕がない……そうかもな。自分じゃ気付かなかったけど……」
「別にサゲてる意味で言ってないわよ。それだけ真面目に取り組んでるってことを言いたかったの。少なくとも私は、貴方のそういうところが好きだから、こうやって一緒にいてあげてるわけ」
どこかふざけた口調が和らぎ、彼女の目が僅かに真剣さを帯びる。その一瞬の変化に、彼は戸惑いを覚えながらも妙な安心感を覚えた。
セラの言葉に胸がざわつくのを感じながらも、小龍は目の前の彼女にどう反応すべきかわからず、グラスの中身を空けることで気持ちを誤魔化す。
アルコールの熱が喉を通り過ぎる間に、彼は自分の中で感情を整理しようとしたが、気持ちはどうにも収まらない。
「そういうこと、あんまり真面目に言うなよ。なんか照れるだろ」
思わず呟いた言葉に、自分で驚く。こんなに素直に出てくるなんて、自分らしくない。
セラが口元に手を当てて笑う気配がする。
「意外だったわ、随分と素直ね。ほら、いつも貴方って感情を隠してばかりだから、そういうギャップが女を寄り付かせるんじゃないの?」
「いや、隠してるつもりはねえけどよ……」
等と言いながら、視線は自然と彼女から逸れる。正面から向き合うには、なんだか気恥ずかしかった。
けれど、セラの言葉に嘘はない。今の彼女には、いつもの軽口ではなく、ほんの少しだけ本音が滲んでいるように思えた。
それを感じた途端、小龍の胸には微かな決意が芽生える。
「俺……もうちょっと頑張るわ。二番街のことも、自分のこともな」
力強く宣言するような口調ではなかったが、それでもその言葉には確かな意思が宿っていた。しかし、勢いに任せて席を立とうとした瞬間、テーブルの脚に足を引っかけ、手にしていたグラスが揺れる。
赤い酒がゆっくりとセラの服に染み広がった。
「……マジかよ!」
小龍は慌ててセラに近づき、タオルを手に取る。
「悪い、わざとじゃないんだ……!」
セラは酒の染みを見下ろし、軽く息をついて目を細めた。
「本当に気持ちに余裕がないのね。別にこれくらいで怒りはしないけど、拭くのなら力加減くらい考えなさいよ」
「わ、悪い……」
小龍が不器用にタオルで拭き取ろうとするが、近づいた距離感と彼女の柔らかな香りに気付いた瞬間、手が止まる。
染みが広がらないよう丁寧にタオルを押し付けるが、彼は布を数枚挟んだ先にセラの胸があることに気づいて、酷く動揺した。
その一瞬の揺らぎを見逃さず、セラがちらりと顔を上げる。その目は、どこか楽しそうな光を宿している。
「ふふっ、何をそんなに緊張してるの? 早くしないと、このお気に入りのパーカー、染みが取れなくなるかもしれないわよ?」
「緊張なんかしてねえ!」
そう言って反射的に声を荒げる小龍だが、その声色には動揺が滲んでいた。
セラがゆっくりと笑みを深める。
「落ち着いて拭いてちょうだい。そうやって気を使ってくれるところは悪くないけど、もっとちゃんとやってよ――手抜きされると私が困るんだから」
耳元まで響いてくるようなその言葉が、思いのほか胸の高鳴りを速める。小龍は照れを隠しながら胸元の染みを拭き取るが、次の瞬間、セラが彼の手にそっと自分の手を重ねた。
その感触に彼は思わず動きを止めた。
「ねえ、そんなに意識するほどのことじゃあないでしょ? 私たちって、ただの親友なのよ?」
彼女の声は冗談めいていたが、どこか柔らかさも感じられる。その一言に、小龍は妙な焦りと安心感が入り混じった感覚を覚えた。
制御の効かなくなった魔眼で彼を見つめるセラ。意を決してさらに距離を詰めると、柱で死角になった奥の席で彼の耳元に唇を寄せて囁く。
「お互いに立派な文化人なんだから、私が何を求めて貴方を誘ったのか理解できるわよね? 女に恥をかかせるような真似だけはしないことを願うわ……」
その甘い囁きに一瞬息を呑んだ。彼女の言葉が何を意味するのか、頭では理解しているはずなのに、心だけが追いつかない。
視線を外すように僅かに身を引こうとした瞬間、セラの手が素早く彼の手首を掴んだ。
「熱が冷める前に済ませましょう。ここじゃあ雰囲気が台無しだもの」
有無を言わさない口調で、彼女は軽く力を込めて彼を立ち上がらせた。周囲の視線を気にする暇もなく、小龍は引っ張られるようにして店の出口へと歩き出す。
「おい、ちょっと待て! まだ話の途中だし、会計だって――」
「そんなの、後で私が済ませるから心配しないで。今は、もっと大事なことを優先させてよ」
セラの浮ついた声は、明らかに高揚感を伴っていた。
まるで彼の反応を楽しんでいるかのように――。
「クラウディア! 彼と大事な話をしないといけないから、ちょっとだけ汗をかいてきても構わない?」
彼女は小龍を店の外で待たせると、客の相手に勤しんでいた義姉に声をかける。クラウディアはすぐにこちらを見て、彼女の言葉に呆れ返りつつも笑みを溢した。
「あら、二人で出掛けちゃうのね。あまりハメを外しすぎないようにしなさい」
その目はどこかお節介なものが混じっていたが、セラはそのまま肩を竦めて微笑み返す。
「そんなこと分かってる。だけど、この姿に戻ってから男との初めての情事なのよ?」
クラウディアは僅かに間を置いて、小さな溜息をつきながら言った。
「相手は年頃の青年なのに、ヒナちゃんは本当に節操がない雑食なのね。この後どうなるのか想像がつくけど……念のため忠告しておくわ。避妊だけは忘れないでよね? 無駄な命が増えると困るのは私たちなんだから」
その言葉に、セラはにやりとした笑顔を浮かべながら答える。
「ヴェロニカ姉様って、本当にお節介ばかり。心配しなくても、私って雑草並みに生命力があるけど無害な女ですから!」
彼女の心配を一蹴するように言い放ったが、その口調には冗談交じりの軽さがあった。クラウディアは半ば呆れたように目を細め、皮肉を交えて聞き返す。
「で、どれぐらいで戻るつもり? さっきヴァイオレットとアネモネから連絡があったんだけど、二人とも貴女に伝えたいことがあるらしいわよ。引き留めておけって言われてるんだけど?」
「もう、私のセックスライフの邪魔ばかりしないでよ! 二、三時間……いや、早くても朝には戻れるように努力するから!」
その瞬間、彼女は無意識に左眼の網膜へ黄金染料を注ぎ込ませていた。網膜をじわりと焼くような痛みが走ると、未来の断片が視界に浮かび上がる。
彼女の義姉ヴァイオレットとアネモネが店に到着するのは、明日の朝という事実。それまで、思う存分自由でいられるという確信が彼女の胸を満たした。
深々と溜息をつきながら、セラはつまらなそうに肩を揺らし、軽く言葉を続ける。
「どうせ姉さんたちが店に着くのは明日の朝だって分かってるんだから。それまで、私は好きにしてても構わないでしょ?」
そう言い残して店の外に出た瞬間、夜の冷たい風が吹き抜け、彼女の体温を奪い去るように感じた。
「待たせてごめんね。この先は貴方次第よ。逃げたければ今のうちに言いなさい。まあ、こんなチャンスを逃すほど馬鹿じゃないわよね?」
彼女は振り返り、唇の端を僅かに上げて、誘うように目を細めながら腕を絡める。
その笑顔を見た瞬間、小龍の胸に引っかかっていた不安が、じわりと溶けていくように感じた。逃げ出す言葉を口にしようとしたが、胸の奥が締めつけられ、言葉にならない。
「……もうどうにでもなれだ。何処へだって着いてってやるよ」
代わりに彼は短く息をついて、彼女の隣を歩いた。




