01「鏡界の入り口」
時刻は早朝を迎えた頃。窓辺に配置された一人掛けソファに身を置き、私は外の景色に目を向けることもなく、手に取った卒業アルバムを眺めて追憶にふける。アルバムには幼い頃の自分や軍服を着た厳格な父と母の姿、そしてクラスのカースト最下位の友人と学生生活を謳歌していた時の写真が僅かに残っていた。
「あれから十年以上も経つのね。ダメだわ、絶対にこれだけはアクセルに見せられない。こんな黒歴史はさっさと燃やして灰にしなきゃ――」
等と呟き、無様な唸り声をあげて項垂れる。それから暫くして迷った挙げ句、私は忸怩たる思いを抱きながら、当時の自分が書き上げた文集に目を通してみた。
『Welcome_to_MirrorWorld〜約束〜』
鏡の前に立つと、そこにはいつももう一人の自分がいる。全てが反転した鏡の世界は常に私の隣にあり、自身の内面を映し出すだけでなく、憧れた未来を切り拓く手助けをしてくれた。そして鏡の中の自分は目指すべき未来を実現するために、いつだって己の弱さを包み隠さず明かしてくれる。
鏡界という次元はどんな時も私の心の拠り所であり続けた。そう思えたのは十四歳を迎えた誕生日に起きた出来事がキッカケだった――。
「ふむふむ……」
突然のことで驚いただろうが、以上の卒業文集は私が学生時代に書き上げた『Welcome_to_MirrorWorld〜約束〜』というテーマの文集の一部分である。
この卒業文集についてはこれ以上、何も語るつもりはない。これは今すぐにでも焼却して除霊を行い、聖水を振り掛けて封印すべき暗黒物質だ。
「ひゃーっ……あーっら! もうあり得ないほど恥ずかしっ! 何なの鏡の世界の存在って! 完全に痛い娘なんですけどっ! どうやったら卒業文集で架空の世界について語り尽くせるのかしら!?」
生への渇望からなのか断末魔の叫び声が部屋中に木霊してしまった。
とにもかくにも十数年前の自分は何を思って、学生生活の集大成と呼んでも過言ではない卒業文集で『鏡界の存在』について熱心に語っていたのだろう。
読めば読むほど見えない何かから強烈なボディーブローを叩き込まれている気分だ。好奇心は猫をも殺すという言葉が存在するが、こんなテーマに探究心を削ぐぐらいなら少しでも充実した学生生活を送る努力をしろと当時の自分に言いたい。
「学生時代の私は間違いなく病気だった。こんな過去がアクセルに知られてしまえば、確実に私の尊厳が破壊される……」
その後、私は手に取った文集入りの卒業アルバムをそっと閉じて、寝室の隅に積み上げられた段ボール箱へと放り込む。が、空中で弧を描いた卒業アルバムは、引っ越し用の段ボール箱へ落ちず宙に浮かび続けた。
「随分と分厚い本ですね。これもロータスさんの大切な思い出のひとつなんですか?」
部屋の片隅から聞こえた声の主の存在に驚き、私はテーブルに置かれた自動拳銃をホルスターから引き抜き声のする方へと咄嗟に銃を構えた。しかし、私の目に映るのは引っ越し用の段ボール箱が敷き詰められた寝室と空中に浮かび続ける一冊の卒業アルバムだけ。
「あのね……幾ら相手が婚約者だからって不法侵入は許さないわよ!」
何者かによって持ち上げられたように空中で浮かび続ける私の卒業アルバム。そして、そのアルバムを持った者の声が女性の肉体に変化しつつあるアクセルのものだと確信した直後、私は自動拳銃の銃口を空中に浮かんだ卒業アルバムの周辺に狙いを定めて、弾倉が空になるまで彼に銃弾を浴びせ続けた。
「はあ、僕には自動拳銃なんて効きませんよ」
等と呟き、アクセルは姿を消す術式を解除して部屋に現れた。どうやら卒業アルバムが部屋の中央で浮かび続けていたのも、私が自動拳銃から放った弾丸が空中で静止したままでいたのも、ベルやチャイムも鳴らさずに不法侵入してきた馬鹿が用いた『磁力操作』とやらの強力な効果によるものと考えて良いのかもしれない。
本当に腹の立つ婚約者だ。そして、私の自慢の婚約者でもある。
いつから家に侵入して部屋の中で隠れていたのかは知らないが、自分が婚約者という立場を理解しているのなら姿を消す『光学迷彩』と呼ばれる術式を使わず家を訪ねてきてほしかった。
「いらっしゃい、アクセル。あなたのせいで部屋中に薬莢が散らばっちゃったじゃないの!」
「え!? どうして僕のせいなんですか!? ロータスさんがバカスカぶっ放したのが原因じゃないですか!」
「あのね。ここは五番街じゃなくて壱番街なのよ? この区画に住む人々には銃の携帯所持が認められているの。そして、あなたはベルやチャイムも鳴らさずに他人の部屋に勝手に入った。以上の状況証拠が揃っていれば、私には相手が誰であろうと不法侵入してきた人物に鉛玉を浴びせる許可が降りるの」
「はぁ……はいはい。僕が貴女を驚かそうとして勝手に部屋に入ったのが悪かったです」
「うん。謝れて偉いわ。でも、それだけじゃあ許してあげない。私を後ろから抱き締めてちょうだい」
「抱き締めるって……まあ、別に構いませんけど。今日は貴女のために時間を作ってあげたんですよ? 引っ越しの準備は終わったんですか?」
仕事で忙しい私のために引っ越しの手伝いを引き受けてくれた愛すべき馬鹿……否、頼りなさそうな少年の姿をした非力な便利屋の従業員から、一ヶ月弱で五番街の掌握者にして高嶺の花の存在となってしまったアクセル・ダルク・ハンドマン。
彼は臨界操術と呼ばれる霊術と錬金術を組み合わせた術式を解くと、腰まで伸びた黒髪を一本にまとめ黄色いジャンプスーツを着て部屋に現れた。ジャンプスーツの背中に『巨大な手のひら』の刺繍が施されているのを察すると、アクセルの全身を包みこんだ黄色い衣服は真理の霊眼に宿ったパンプキンという怪異が作り上げたものなのだろう。
「引っ越しの準備ならとっくに終わってるわよ。あとは要らない家具の処分とかをどうするか考えてたぐらいだから」
「流石はロータスさんですね。それじゃあ、家の外で待たせている部下の機甲骸たちに荷物を積ませるので、僕たちは荷物の積み込みが終わるまで待ってますか」
「部下の機甲骸たちって……もしかしてアクセル、あなたってあれからも沢山の機甲骸を造り続けてるの? 本当に体力馬鹿ね……」
「体力馬鹿で悪うございました。僕って皆さんも知っての通り、体内の化学物質を異常操作している間は全くと言っていいほど疲れませんし眠くならないんですよ」
「エイダさんやリベットさんから話は聞いたわ。だけど、人間が不眠状態を続けていられるのは最高でも十日ぐらいなのよ? 今のあなたは二次性徴を利用したことで『女性化』しつつあるし、一ヶ月前に二番街で起きた大規模なテロでも大切な右腕を失った。私はあなたが無理をしてないか心配だわ」
「大丈夫ですよ。そういえば、あれから一ヶ月も時間が経ったんですね。五番街の復興や地下水道都市の調査依頼、オブリビオン神学校の校長ノクターンとの打ち合わせやイザベラ師匠を間に置いた骸の教団との今後の活動方針、新規の義手製作依頼や事務所の拡張やらなんやらあって時間なんて全く考えてませんでした」
どうやら私が思っていたよりも仕事に追われているらしく、彼は少しだけ荷物が散らかったベッドを見るや否や躊躇せずに飛び込んだ。
義手の右腕を天井に向けたアクセル。するとその直後、彼の何らかの操作によって人間の素肌に擬態した義手が展開していき、チューブや筋繊維を模した人工組織が姿を現した。
「ねえ、アクセル。あなたの右腕のこと……凄く残念ね」
「え? あーっ……確かにちょっと残念かもしれませんね」
私が世界で一番愛するアクセル・ダルク・ハンドマンという存在。彼は一ヶ月前に起きた闘技大会という場で右腕を失ったというのに、成人女性に変化してからは何事もなかったように振る舞っている。
たったの一ヶ月という時間だ。ただでさえ右腕を失って生活が不便になったというのに、アクセルは文句も言わず以前のように生活を送るどころか五番街やシティ全体の事を思って仕事に励み続けていた。
そして、自分自身が少年の身体から成人女性の肉体に変化しつつあるのに、彼は精神の崩壊やトラブルも起こさず女性の身体に順応している。恐怖さえ抱いてしまう程にだ。
闘技大会という死線をくぐり抜ける前の彼であれば、女性の身体に成長して混乱していただろうし、間違いなく助けを求めて私の腕にすがり付いていたはず。
「何よその反応。親から貰った大切な右腕を失っちゃったのよ? 私だったら絶対に立ち直れないわ」
「あなたがそう思うのは、ロータスさんの両親が娘思いで素晴らしい方だったからですよ」
「ふーん。まあ、そうかも知れないけど……」
「そういえば、ロータスさんには僕の家族について教えてませんでしたよね? 気になるんでしたら教えてあげても構いませんよ?」
ジャンプスーツのジッパーを腰まで下げてタンクトップに包まれた胸を開放したアクセル。彼はベッドから飛び上がるや否や荷造りを終えた段ボールに近づき、それらに指先を押し付けて呟いた。
「まずは引っ越しの準備を終わらせましょうか。【雷の閃光】【深く揺らめけ】」
アクセルがそれらの言葉を口にした直後、彼の指先から僅かな電気が段ボールへと放電していき、各々は磁力操作によって浮かび始める。その後、アクセルは玄関口で待機していたプロトタイプの機甲骸に荷物を渡すと、彼らに荷物を車に積むよう指示を送った。
「はぁ……こんなの見ちゃうと本当に人間の力って非力だと思っちゃうわ」
「あれ? もしかしてロータスさんって、機甲骸や人工知能に対して反対派なんですか?」
「んー反対派って訳ではないけど……ちょっとだけ悔しいっていうか、寂しいっていうか。とにかく、アンクルシティに機甲骸の存在が不可欠なのは頭で理解してるんだけど、彼らに頼ってばかりだと自分の存在が機械の部品に思えてくるのよね」
「なるほど、なるほど。それは興味深い考え方ですね。確かに今のシティに機甲骸という存在は不可欠です。彼らの存在がなければ今以上に治安維持部隊の兵士が犠牲になっているはずですからね」
等と個人的見解を述べ始めたアクセル。彼はベッドに倒れ込むと、こちらに手を伸ばして一緒に寝転がるよう誘ってきた。それから間を置くこと無く、私は彼の誘いに乗っかりベッドに飛び込む。その後、彼は私が眠りに就くベッドに敷かれた毛布に潜り込むと、近づいた私を無理やり毛布の中に引き込んだ。
「ねえ、アクセル……」
「どうしたんですか、ロータスさん。そんなにジロジロと魔眼を見ても『魅了』の効果は発動しませんよ」
「別にそんなの期待してないわ。あなたに魔眼があろうがなかろうが、私の想いは魔眼が宿る前から感じてるでしょ?」
「そういえばそうでしたね」
空気の読めない馬鹿がおちょくり始めそうだったので、彼が着ていたジャンプスーツのジッパーを一番下まで下げた後、開放された大きな胸に顔をうずめる。それから暫くの間、アクセルをからかうために胸を弄ったり耳元で淫語を囁き続けたが、頬が赤くなりはじめたのを見計らって全てを中断した。
「続きは引っ越しが終わってからね。それと私たちの結婚式のことも考えたいから、引っ越しが終わったら何処かに出掛けない?」
「寸止めって本当に酷いですよ。それに、僕だけが服を脱がされるっておかしくないですか?」
「はいはい、残念だったわね。内緒にしてたのは悪かったと思うけど、私は元々バイセクシャルなの。こんなにも魅力的な女が実は童貞を奪った相手で、ワンチャン処女さえ奪えるかも知れないのよ? 絶対に痛くしないし、最高の思い出にしてあげるから、あなたの処女は私が貰ってもいい?」
「え、えーっと。今は遠慮しておきます……」
頬を赤らめた彼と身体を重ねながら指先を下着に潜り込ませてみたが、私の腕を掴んだ手のひらが震えていたことに気づいて腕を引き抜いた。
「あの、ロータスさん。本当にごめんなさい。コッチの方は本当に覚悟が出来てからにしたいです」
「ううん、謝るのは私の方よ。少し急ぎすきちゃった私が悪いんだもの。私はこうしてあなたと一緒に横になれるだけで幸せだから安心しなさい」
「一緒に横になる……それって本当ですか? だって今の僕の身体ってもう……」
「何度も言うけど本当よ。ちょっと触れただけだから少ししか分からなかったけど、本当に男性器が消えるとは思わなかったわ。二次性徴を利用した解離者への成長って凄い変化ね……」
「……僕もここまで肉体が変化するとは思いませんでした。ロータスさんにも申し訳ないですが、これからはエイダさんやリベットさん、ノアとの夜の営みも苦労するかもしれません。それで一つ提案があるんですが――」
「私、あなたと一緒にいられて物凄く幸せなの。そんな馬鹿なあなたが何を言いたいのかも理解できてるわ。男性としての役割をこなせなくなったことを恐れて、私たちに他の男で性処理しても構わないって言いたいんでしょ?」
彼の脂肪が詰まった分厚い胸に耳を押し当て、アクセルの心の底を覗き込むように心臓の高鳴りに耳を傾ける。するとその直後、私以上の厚さと重さを誇る乳房でも簡単に聞き取れるような胸の鼓動が鼓膜を震わせた。
「安心しなさい。誰もあなたを見捨てたりしないわ」
それから彼の透き通るような白い肌に頬を擦り付けた後、私は上目遣いな眼差しでアクセルの瞳を見つめる。暫く互いに目を見つめ合っていると、自然と彼が瞳を閉じたので唇を奪ってやった。
「ねえ、アクセル。お願いがあるんだけど聞いてもらえない?」
「お願いですか、仕事の話以外なら何でも答えてあげますよ」
「ありがと。別に仕事のことを聞くつもりはないから安心しなさい。まあ、あなたから仕事の話をされたら相談に乗ってあげるけど……」
「はいはい、それでお願いってのは何なんですか?」
彼の首に腕を回して耳に唇を当てる。その後、私は顔を真赤にさせながら耳元で「これからは私の名前を呼ぶ時、さん付けじゃなくてロータスちゃんと呼んでほしいの。それと、これからは夫婦なんだから、なるべく敬語もしないこと」と囁き、そのまま彼の返答がくるまでアクセルの胸に顔をうずめ続けた。
本当に情けないアラサー女子だ。
彼と身体が密着すればするほど自分が今までロクな恋愛をしてこなかった素人ビッチだと実感してしまう。いや、女性の相手を含めた一夜限りのセックスフレンドの数なら私の方が多いに決まっている。
それなのに、今の私はどうしてこんなにも、たったひとりの相手に嫌われるかもしれないという懸念を抱いているのだろう。もしかして、私が今までちゃんとした相手と巡り合ってこなかったからなのか? それとも、彼という存在が自分とは不釣り合いだと己の心が認識しているからなのか?
考えに考え込んでいると、いつの間にか彼の胸の中で塞ぎ込んでいたらしい。
「こっちを向いてください……」
気づくと義手を元の形に戻したアクセルが、私のおでこに張り付いた髪を解いて耳に掛けていた。それから、彼は一ヶ月ほど前に見せた少年らしさを感じさせる笑顔ではなく、色気を感じさせる艶やかな笑みを浮かべる。
「もう一度だけ訊くけど、ロータスちゃんって呼んで欲しいんだよね?」
「えーっと。まあ、私たちって夫婦とそんなに変わらないじゃん? だから、これからは私もあなたを『アー君』とかって呼びたいと思ったの。勿論、人が大勢いる場所では気をつけるわ。でもあれよ!? あなたが嫌だったらこれまで通りで構わないし、敬語に慣れてるのなら――」
こちらをジッと見つめる彼に対して私は慌てふためくことしかできなかった。
自分から提案しておいて何てことを言っているんだろう。
私は本当に彼に恋をして変わってしまったのかもしれない。でなければ、一ヶ月前まで少年と然程変わらない相手にこんなにも緊張してしまう訳がない。
「いいよ、ロータスちゃん。僕たちは夫婦だからね。僕のことは好きに呼んでも構わないよ」
「え、ええ、え! 本当に!?」
「うん。僕には貴女の他にも三人の大切な人がいるけど、ロータスちゃんは僕の初恋の人だからね。これからも一緒に人生を歩んでいこう、ロータスちゃん」
「は、はい!」
い、意外だった。まさか、アクセルが年上の私をちゃん付けしてくれるとは。
恥ずかしい……けど、やっぱり女の子として扱われているような気がして嬉しかった。
それから小一時間、私とアクセルは必要最低限の家具や思い出の品を段ボール箱に詰め込み、彼が配備してくれたボットに運ばせる作業を続ける。その後、ある程度の家具は処分することが決まったが、亡き母から授かった鏡付きの化粧台の処分についてアクセルと一悶着あった。
「え? この高そうなドレッサーって捨てちゃうんですか?」
「捨てるわよ。別に化粧台なんて新しいのを買えばいいんだから」
「木製で素材もしっかりしてそうですし、お母さんから譲り受けた家具なんですよね?」
「母から貰ったものなら化粧台以外にも沢山あるわよ。確かにこれまで大事にしてきた家具だけど、私って数ヶ月前までは顔に火傷の痕があったじゃない? だから、鏡はなるべく見ないようにしてたの」
「ああ、なるほど。そりゃあ確かに鏡が嫌いになりそうですね。でも、捨てるのは勿体ないので屋敷の地下に保管しておきますよ。あの部屋なら十分なスペースがありますから」
「えー本当に持って行くの? この際だから新生活のために過去の思い出は全部捨てたい気分なんだけど。そこまで言うのなら仕方ないか……」
正直な話、彼にも言った通り私は鏡が大嫌いだ。
過去の自分は鏡界と呼ばれる鏡の世界を信じていたそうだが、今の私からしてみれば鏡なんて物は過去の嫌な記憶を思い出すキッカケでしかない。




