14「甘い誓いと奇妙な縁」
独立式ボイラーの上で湯気を立てるポットを手に取る。店内にはまだ薄暗さが残り、外の蒸気灯が霞んで見えていた。壁掛け時計の秒針が静かに時を刻み、五番街の朝はじわりと目を覚ましつつある。
カウンター越しに座るロータスさんは、指先でスキットルを弄びながら無言だった。レザー調の黒い軍服は朝の光を僅かに反射し、腰に下げた変形機構銃や電流警棒が、彼女の立場を如実に物語っている。
――治安維持の最前線に立つ精鋭部隊長。けれど、その背中にはどこか疲れが滲んでいた。
僕はティーカップを並べ、ポットから紅茶を注ぐ。琥珀色の液体がゆらりと揺れ、ほのかな香りが店内に広がる。
「ロータスさん。紅茶でいいですよね?」
「うん。ありがとう」
「砂糖とミルクは?」
「角砂糖を1つだけ。ミルクは要らないわ。味付けは私に任せてちょうだい」
彼女はスキットルを唇に運び、一口。朝の八時とは思えない、アルコールの匂いが微かに漂う。
「そんなに仕事を辞めたいんですか?」
カップを彼女の前に滑らせながら、ふと聞いてみる。
「うーん……分からないわね」
ロータスさんが曖昧に笑う。
彼女が愚痴をこぼすことは滅多にない。いつも気丈で、部下にも隙を見せない彼女が、ふと気を緩めたように見える瞬間がある。
「意外でした。ロータスさんも悩むんですね」
「意外って、何よ。私だって普通の人間なの。文句のひとつくらい言わせてほしいわ」
肩をすくめる僕に、ロータスさんはカップを持ち上げ、紅茶の香りを楽しむようにゆっくりと飲む。
――ロータス・キャンベル。今年で二十九歳。独裁者ダスト直属の精鋭部隊の部隊長。
その肩書きは、彼女の生活から自由を奪った。
プライベートな時間はほとんどない。街の秩序を守るため、犯罪者を追い続ける日々。求められるのは強さ、冷徹さ、そして規律。けれど、たまに彼女の瞳の奥に、ふと寂しさが滲むことがある。
きっと彼女は気づいていない。
「そうだ、ちょうどケーキを作ったんですよ」
「ケーキ?」
「はい。チョコレート味です。食べますか?」
「私のために作ったの?」
冷蔵庫を開け、中からチョコレートケーキを取り出す。皿の上に乗せ、添えるように生クリームをのせた。
本当はリベット用だったけれど、今はそんなことを言う気分じゃない。
「はい、どうぞ」
差し出すと、ロータスさんは少し驚いたように目を瞬かせ、すぐにフォークを手に取った。
一口。
その表情が僅かに和らぐ。
「美味しい……甘さ控えめで、ちょうどいいわ」
「気に入ってもらえたなら良かったです」
ケーキを口に運びながら、彼女はふと僕に目を向ける。
「ねえ、アクセル。どうしてあんたはこんなに優しいのに、いつもからかってくるの?」
「さて、どうしてでしょうね」
彼女は苦笑し、残ったケーキを食べ終えると、紅茶を一口。
「そうだ、この前の話なんだけど」
「この前の話?」
「デートのことよ!」
突然、彼女がカウンターを叩いた。
ああ、あれか。確か冗談で誘っただけのはずなんだけど。
「冗談ですよ。ロータスさんの反応が面白かったから言っただけです」
「……酷いわね」
フォークを置いた彼女は、ふと目を伏せる。
「本当に私のこと、好きじゃないの?」
冗談のような問い。でも、その声にはどこか寂しさが滲んでいた。
「ロータスさん」
彼女の名前を呼び、ポーチから髪クシを取り出す。
「……目を閉じてください」
「え?」
「いいから、目を閉じて」
彼女が少しだけ戸惑いながらも素直に従うのを確認し、絡まった前髪を丁寧に梳いていく。指先でそっと梳かすたび、彼女の緊張が少しずつ解けるのを感じた。
「ロータスさんは、とても魅力的な女性です。自分に自信を持ってください」
「……本当に?」
「最速の男、アクセル・ダルク・ハンドマンが保証します」
彼女は頬を染めながら、ぽつりと呟いた。
「……じゃあさ、来年の誕生日までに運命の人と出会えなかったら、責任取ってくれる?」
「えっ……」
予想していなかったわけじゃないが、いざ言われると戸惑う。カウンター越しに、ロータスさんは真っ直ぐ僕を見つめていた。
「……はい。その時は僕が迎えに行きます」
「約束?」
「……約束です」
彼女は微笑み、小指を差し出した。僕は仕方なく応じる。
「指切りげんまん――」
小指を絡めると、彼女の瞳が僅かに潤んだように見えた。
「ふふ、今のうちに覚悟しておきなさい」
彼女は最後の紅茶を飲み干し、穏やかに息を吐いた。
――こうして、奇妙な約束が交わされた。




