13「朝の柔らかな誤解」
「変態さん、変態さん」
「僕はただの変態じゃない……変態紳士だ」
「アクセルさん、起きてください」
「……どうしたんですか、エイダさん。って、あれ?」
エイダさんの声で目を覚ます。
機械式腕時計に目をやると、針は朝の七時を指していた。随分と眠っていたらしい。
僕は夢の中で、ロータスさんやナオミさん、女性型の蒸気機甲骸たちに弄ばれるという夢を見ていた。
随分と疲れがたまっているのかもしれない。
膝枕から起き上がろうとして手を伸ばすと、何か柔らかいものに触れた。
それは指が沈み込むほど、何ともいえない柔らかさで――まるで、何かの穴に手を吸い込まれるような。
「変態さん。貴方が性欲に飢えた狼だということは、よーく理解できました」
「ごめん、そういうつもりじゃなくて!」
慌てて手を引き抜き、僕はベッドから飛び起きる。エイダさんの方を見ると、彼女は腕を組んで胸を隠しながら、恥じらいのこもった眼差しを向けていた。
「いくら命の恩人だからって、やっていいこととダメなことくらい分別をつけてください」
「ものすごく反省してます……」
もちろん、わざとじゃない。たまたま手が変なところに行っただけだ。
下着越しだったのが幸いだが、素肌だったら完全にアウトだっただろう。
そんな僕を尻目に、エイダさんはベッドから立ち上がり、作業台に置かれた衣服を手に取り、着替え始めた。
「変態さん。首輪を外してくれて、ありがとうございます」
「気にしないでいいよ」
「それより……私が上の階層から来たことには興味がないんですか?」
「気にならないって言うと嘘になるかな」
正直なところ、上階層のことは気になっていた。どうしてエイダさんがわざわざこの階層まで降りてきたのか――それに、ある人物の言葉が頭をよぎる。
『上の階層には絶対に行くな。絶望したくないなら、アンクルシティに居続けることだ』
上階層で何が起きているのか、確かめる術はない。
以前、僕と同じこの階層に住んでいた男がホバーバイクレースで優勝し、上階層に招かれたという話を聞いたことがあるが、それ以来その男は戻ってこなかった。
「変態さん?」
「……まあ、上階層のことは気になるよ」
僕はエイダさんの名前を呼びながら、作業台のクランクを回す。棚が音を立てて回転し、必要なものが見えたところでロックをかけた。
取り出したのは、色見本帳。
「エイダさん。この色を空と同じだと思える?」
「いいえ。空の色はもっと澄んだ青色のはずです。私の髪の色に近い感じで、黒い雲の向こうには太陽がありました」
太陽……か。そんな言葉を耳にしたのは久しぶりだ。
僕たちのいるアンクルシティは、この巨大な天井に覆われた階層だ。天井には住人たちのために設置された巨大な照明があり、それを頼りに朝か夜かを判断している。
「正解だよ。これは信号機の青緑色だ」
「常識ですよ、そんなこと」
エイダさんはそう言いながら背中を向けてきた。どうやらコルセットの紐を引っ張ってほしいらしい。
「じゃあ、引っ張るよ」
「お願いします……ウッ!」
紐を引くたびに驚きの声が漏れるが、気にせず引き締め続ける。
その途中、ふと思い出した。
「そういえば、どうして僕を起こしたの?」
「あっ! そうでした! お客さんが来ているようなんです!」
それ、早く言ってよ……。
◆◆◆
一階に降りると、来客用の丸椅子に女性が座っていた。
軍服姿の彼女は、カウンターに突っ伏しながら呼び鈴を鳴らしている。
「遅いわよ、アクセル。こんなに待たせるなんて信じられないんだけど」
「ああ、ロータスさん。昨日ぶりですね」
彼女――ロータスは筒型の投影機を取り出し、ボタンを押した。
ホログラムが投影され、赤ずきんのような少女の姿が映し出される。
「この子に見覚えはある?」
「……ただの女の子に見えますけど」
「そうね。見た目は普通。でも捜索対象になるってことは、何かあるはず」
「どうして僕に聞くんですか?」
「だって、この子、年齢の割に立派な胸をしてるでしょ。貴方なら放っておかないと思ったの」
「失礼なこと言わないでください。おっぱいはデカけりゃあいいってもんじゃないんです!」
投影機のボタンを押してホログラムを消すと、僕はそれをロータスさんに返した。
彼女は受け取ると同時に、深い溜め息を吐き出す。
その背後に控えるのは、女性型の蒸気機甲骸。
スチームボットはロータスさんに付き従いながら、同時に監視役も担っている。
最近、ダストさんから聞いた話によると、『蒸気機甲骸のパーツが闇市場に横流しされているらしい。
恐らくその対策として、彼女にも複数の機体が配備されたのだろう。
「ねえ、アクセル。私、転職しようかな」
「え?」
突然の言葉に思わず顔を上げる。
ロータスさんは桃色の髪を指先でいじりながら、ぽつりと呟いた。
「……私、この仕事向いてないのかも」
彼女は肩を落とし、さらに弱音を吐き続ける。
「他の犯罪者は捕まえられるのに、どうして十五歳の青年には逃げられるのかしら。情けないわよね、私……」
不貞腐れた様子で、カウンターに腕を置く彼女。仕事中だというのに、腰のポーチから携帯用酒瓶を取り出すと、口に運んで飲み始めた。
「仕事中に酒飲むとか、色々とダメな気がしますけど」
「いいのよ、別に。これくらい誰も気にしないわ」
軽く肩をすくめる彼女の目は、少し赤くなっている。たぶん、昨日の疲れが抜けていないのだろう。
「でもさ、アクセル……」
そう言いながら、彼女は再び携帯用酒瓶に口をつける。
「……犯罪者を捕まえるのって、どんどん虚しくなってくるのよ。たとえ捕まえたって、また新しい犯罪者が湧いてくるだけだし……」
「それはまあ、世の中ってそういうものですよね」
ロータスさんは視線を机に落としながら、ぼそりと呟いた。
「転職したら、もっと平和な仕事ができるかな……」
「平和な仕事って、たとえば?」
「え、そうね……」
彼女は考え込むように天井を見上げたあと、小さく笑った。
「アクセル、便利屋の助手とかどう?」
「……それ、平和な仕事って言います?」
「何よ! 便利屋ってけっこう平和そうじゃない?」
僕は苦笑しながら彼女を見た。
確かにロータスさんが便利屋をやる姿を想像すると、ちょっと面白そうではある。
彼女の背後で待機しているスチームボットが静かに動き出した。
その光る瞳がこちらを向いた瞬間、僕は何となく背筋が寒くなるのを感じた。




