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第98話:駆ける栗原

「やっぱり無理無理無理無理無理ですって明美先生、私は帰ります私は帰りますゥゥゥ」

 寒空の下で駄々をこねているのは五歳児ではなく、二十歳を超えた大学生だった。その絵面は周囲の通行人をドン引きさせるには十分だった。つーか私も、少し引いている。

「ひ、人一倍頑張り屋のお前なら、大丈夫だよ。私を信じろ。そして私と一緒にやってきたお前自身を何よりも信じろ。今まで私が嘘ついたこと、あったか? ないだろ?」

「嘘というか、わりと冗談はおっしゃ、おっしゃらるる、仰るじゃないですかァァァ」

 完全にテンパっている栗原の頬を、私は両手で挟む。よく伸びるほっぺたをぶにぶにすると、栗原は「ぶ、ぶ、ぶ」と素っ頓狂な声を出した。そのままの姿勢でいたら、栗原は落ち着きを取り戻していった。また暴れ出す前に、私はある物を彼女に手渡す。

「私のお守りは、効果抜群だぞ? 中学生の教え子は、これでモテモテになったそうだ」

 それは怪し過ぎますぅ、と情けない声を漏らし、またも栗原は泣きそうな顔になった。

「私の弟を始め、ノリのいい連中も集めたからさ、盛り上げてくれるよ。それにお前、ここで歌えたらスゲエかっこいいぞ? 安心しろ。お前の歌は、きっと誰かに届くから」

「……この路上ライブ、ちゃんとやり切れたら、焼肉奢ってくださいね」

 いいから歌って腹空かしてこい、と言って、私は栗原を送り出す。栗原は一時の逡巡の後、胸の辺りで私のお守りをギュッと握ってから、ステージへと駆けて行った。

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