第89話:あの日のために
人生で起こる良い事と悪い事の総量はプラマイゼロ、なんて無責任なことは誰が言い始めたのだろう。俺みたいな失敗ばかりの奴には、唾を吐き捨てたくなるような理論だ。
中途半端な正義感でここに駆けつけたことを、正直俺は後悔した。そこにいたのは、不審な男。自身の腕で拘束した若い女性に刃物を突きつけていて、一触即発だった。しかし、涙を流す女性を放っておくことも出来ない。刃物をこちらに向けて怒鳴り散らす男との膠着状態が続いたその時──俺の人生にも、起こった。『良い事』というやつが。
それは帽子だった。小学生が被るような、黄色い通学帽。それが風に吹かれて飛んできて、通り魔の顔に覆い被さった。男の注意が逸れ、腕の拘束が緩んだことを確認する。
「う……うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
無我夢中だった。俺は突っ込み、男の手から刃物を弾いた後、全体重を利用して男を組み伏せた。タイミング良く通りすがりの警官が駆けつけたのも、本当に幸運だった。
事件後、とある場所を訪れた俺の手には、あの帽子が握られていた。黒い油性ペンで『四年一組 ほりぐちあきお』と書かれた、黄色い通学帽。信じられないような幸運に見舞われた今では、『プラマイゼロ理論』も、少しは信じてみたくなってしまう。
「こんな俺にも、出来ることがあった──俺はあの日のために、ぶら下がってきたんだ」
初めて経験する多幸感の中で、俺はようやく自分を認めることが出来た気がした。




