第75話:佐野文具店
気が付くと、私の顔の真横に女性の顔があった。その視線は私が試し書きコーナーに描いた落書きを見ていた。彼女は「あなた、漫画家さん?」と人懐っこい声で言った。
「い、いえ。ちゃんとした画材を揃えるのも初めてなレベルでして」
聞くところによると、彼女はここ『佐野文具店』の店主の奥さんなんだそうだ。
「あなたならプロでやっていけるわよ。なんてったって、私のお墨付きなんだから」
って私は一体誰なのよ、おほほ、と奥さんは上品に笑った。
「漫画を描くなら、アシスタントさんも雇われているの? 一人じゃ大変ですものね」
「い、いえいえ。自分なんて、まだそんな。駆け出しも駆け出しですし」
それはいけないわねえ、と言った奥さんは、私の遠慮もお構いなしに、レジ奥の扉を開けて、上方向に叫んだ。誰かの名前を呼んだようだった。二階は自宅なのだろうか。
現れたのは、中学生ぐらいの男の子。おそらくは、このお店の息子さんなのだろう。
「あんた、漫画とか好きでしょ。この先生のお手伝いをしなさい」
私の遠慮も彼の意思も無視した軽過ぎる提案をした奥さんに、私は慌てて、自分の家が隣町にあることを伝える。決して徒歩圏内ではないことも、きちんと付け加えた。
「この前買ってあげたマウンテンバイクもあるし余裕でしょ! やるわよね、九一郎?」
奥さんの理不尽な提案に、しかし彼は──九一郎くんは嫌な顔一つせず、頷いた。




