第21話:牛丼
嫌なことばかりの世の中だと、今までは本気で思っていた。そしてこれからもきっと、そう思う出来事は俺のもとにたくさんやってくるだろう。嫌なことばかりが、嫌になるほど。でも、今日は──今日ばかりは。そんな気持ちを、忘れてもいいと思うんだ。
卓上に常備された箸を一膳手に取り、手を合わせてから「いただきます」と呟く。目の前に置かれた牛丼のサイズは並盛り。箸入れの隣に設置されたケースから、少量の紅生姜を器によそう。牛肉、米、紅生姜をほどよい分量で乗せた箸を、口の中に運んだ。咀嚼と同時に、俺はどうしても、考えてしまう。普段なら朝礼が終わった時間だな、とか。普段なら今から最低十二時間は拘束されるな、とか。それも、昨日までの話だ。後のことを何も決めずに退職してしまったことに、後悔が無いとは言えない。だけど今は、ゆっくりと朝ごはんが食べられることが嬉しかった。涙が出そうになるほど。
涙が出そうになるどころか、食べ進める内に、いつしか本当に涙が出てしまっていた。朝の牛丼チェーン店で。他の客もそれなりにいるのに。俺が牛丼を前に一人で涙していると、隣席に座る若い男女のうちの男性の方が、大丈夫ですか、と声を掛けてきた。
「大丈夫です……、すみません……、すみません……」
恥ずかしさと解放感で、頭の中がぐちゃぐちゃだった。俺は構わず、牛丼をかき込む。
一杯三百五十円の牛丼の味だけが、俺の舌に、確かに染み込んでゆく。




