エピローグ第3/5話:夢を見るよりも
「僕が『はたち』のままでいられないのも、君が僕のことを変わらず好きでいてくれる気持ちも、人間だからだよ」
そう言って、九一郎にーちゃんは笑った──悲しそうに、笑った。
「人間だから期待して、人間だから突っ走って、人間だから失望して──そして」
人間だから叶わぬ恋を願うんだ、と九一郎にーちゃんは自嘲した。私に向けられたはずのその言葉の矛先は、しかしどこか別の方を向いている気がした。
「……ともかく。何度会いに来られても、僕は君の想いに応えられない。君だから駄目、ってわけじゃない。僕の問題なんだ。僕はもう、いいんだ。君はまだ若いし、いい出会いも、この先たくさんあるだろう。だから停滞した僕のことなんてすぐに忘れたらいい」
私が『はたち』になったあの日、にーちゃんはそう言った。口調こそ私を慮るようないつもの感じだが、それは明確な拒絶だった。あれからもう短くない月日が流れている。
ガヤガヤとした店内の中、私は座敷の一番隅の席に座り、スマホを眺めていた。【にーちゃん】のフォルダに最後に写真が保存されたのは、五年も前か。最後に会った、『はたち』のあの日。私は虚ろな目で、意味もなくカメラロールを遡る。にーちゃんを好きになった日のことは、今も鮮明に覚えている。
『九一郎にーちゃん、ブルーに似てる』
幼少期の私は、まだ成人したばかりのにーちゃんに、自分が好んで観ていた特撮ドラマの俳優に似ていることを指摘した。和室でくつろいでいたにーちゃんは数秒驚いた顔をした後、にやりと微笑んでその場に立ち上がった。そしてブルーの名乗り口上と変身ポーズを真似した。にーちゃんも同じドラマを観ていたらしい。普段、幼稚園の男の子たちにからかわれてばかりだった私に、初めて優しく接してくれた男の人。好きになるには、それで十分だった。それからにーちゃんは、私とたくさん遊んでくれた。チェスや将棋、オセロやトランプ、ボードゲーム──私はそれらの類いで一度もにーちゃんに勝てなかった。それが悔しくて、たくさん練習した。少しでもにーちゃんに近付きたかった。高校時代に所属していたボドゲ研究部では、部内最強とも呼ばれていたっけ。
初めてロードバイクで佐野文具店を訪れた時のこと、デジタル機器に疎いにーちゃんにスマホの使い方を教えたことーーそんな思い出の一つ一つが、頭の中を駆け巡る。
「はーい、スマホは置いとこうなー。せっかくの再会だし、会話に花を咲かそうぜぇ」
誰かが私のスマホをひょいと取り上げて、机の上に裏向きに置いた。それと同時にスマホから通知音が鳴ったけど、確認出来なかった。見ると、そこにいたのはかつての同級生。彼は自分のグラスを乱暴に置いて、私の隣に座った。パーソナルスペースをこじ開けてくるようなその距離感に、私は少しムッとした。貸切の居酒屋で行われた中学校の同窓会は退屈なものだった。だからこそ私は一人で、スマホを見ていたのだけど。
「いやー。にしてもまた一段と可愛くなったよな、お前。今だから言うけど、おれ昔、東應寺のこと好きだったんだよね。好きな奴ほどいじめたくなっちゃうってやつ? 当時は結構酷いことしちゃってたよなー。今思うと、おれウザかったよなぁ?」
アルコールが入りご機嫌な様子の彼に「別にそんなことないよ」と定型文を返す。続け様に「今付き合ってる奴、いんの?」と聞いてきた彼に、いないよ、と端的に答えた。
「確か東應寺って、歳の離れた何とかにーちゃんのことが好きとか公言してたもんなぁ? まだそいつのこと、好きなわけ?」
九一郎にーちゃんだよ、と心の中で呟いてから「んー、内緒」とぼかした。この人に全てを話す必要はないだろう。そして何より──完全に否定して全てを終わらせてしまうことを、未練がましくも恐れている。九一郎にーちゃんのことが好きであるということに誇りを持っていて、そのことを公言していた中学時代。当時の自分を、本当に愚かに思う。中学時代はそのことで特にからかわれていた時期で、高校と比べて良い思い出は少ない。なのにこの場に出席したのは、それほどまでに何かに縋りたかったのだろう。
「まあ俺たちもいい歳だし、現実見ようぜ? 俺なんてどう? お前のこといいなって思ってるし、自分で言うのもなんだけど、男としてけっこー優良物件だと思うぜ?」
そう言って彼は、自分が勤める企業の自慢話を、しばらくの間続けた。誰もが知っているような企業名だった。そのことで彼への好感度が上がったわけではないけれど、私は『もう、いいのかな』と思い始めていた。彼のことが気に入ったわけではない。しかし私の想い人は、振り向いてくれないのだ。叶わぬ恋に身をやつすことは、十代で終わらせるべきだったのだろう。夢を見るよりも、現実を生きた方がいいのかもしれない。
「なあ、今から一緒に抜け出さねーか?」
彼はその台詞の後に、私の下の名前を呼び捨てで口にした。他の参加者は自由に席替えをしていて、私たちの会話が聞こえる距離に人はいなかった。着信に揺れるスマホは見れない。彼は立ち上がり、行こうぜ、と私の手を引っ張った。私は慌てて机上のスマホと脇に置いた鞄を持ち、言われるがままに立ち上がる。
『九一郎にーちゃん、おてて繋いで!』
同級生の彼の手を伝って全身を駆け巡ったのは、寒気だった。幼い頃、九一郎にーちゃんに握ってもらった手の温かさとは、全然違う。単なる年上への憧れなんかじゃない。他の男の人を見ても、こんな気持ちにはならない。私は九一郎にーちゃんが、九一郎にーちゃんだから……今まで封じていた切ない想いが、胸の内で一気に溢れ出した。
どうしよう、私──まだこんなにも、九一郎にーちゃんのことが好きだよ。




