水槽に浮かんだ脳
「ねぇ、ユカ」
「なに、タマ」
長机を挟んで二人の女子高生が座っていた。
ここは放課後の文芸部。黄色味を帯びた午後の日差しが気だるい。
「あたし、小説の主人公かもしれない」
唐突に黒髪おかっぱメガネ少女――土間珠美が呟いた。
「大丈夫? いろいろ心配な発言だわ」
黒髪ロングの清楚な少女――三島由香利の反応はそっけない。視線を手元の本に向けたまま静かにページをめくる。
「ふと思ったの。世界には今、あたしとユカだけなのかもしれないって」
「怖いこと言わないで。嫌よ、神様の頭がイカレてるとしか思えないわ」
「そんでもって、あたしは主人公なわけ」
「タマが主人公って、そんなの面白い?」
ユカのつっ込みに、タマは一瞬黙り込んだが、会話のキャッチボールが嬉しいのか調子にのりはじめた。
「このあと、秘められた力が覚醒するわけ」
「超能力や魔法を使えるのは美少女だけよ」
地味子な珠美は「ぐぅ」の音も出ない。
けれど、メガネの鼻緒をくいっと指先で持ち上げて食らいつく。
「世界の真実に気づいたの」
「聞いてあげるからどうぞ」
由香利はため息混じりに手元の本から視線を外し、本を閉じた。
それは相対主義を唱えたプロタゴラスの著書。哲学者が『人間は万物の尺度である』とかなんとか言った偉人の本らしい。が、難解すぎて由香利の頭には入っていない。
「文芸部の部室の外には何もない。あたしたち二人だけ」
「まぁ……文芸部は廃部寸前、ふたりきりなのは確かね」
由香利はため息交じりに部屋を見回した。
黄昏の光に照らされた室内は、珠美と由香利の二人きり。
文芸部員はこの春、先輩たちがいなくなり、二人だけとなった。
壁には6月のカレンダー、室内には古びた長机とパイプ椅子がふたつ。
入り口脇のスチール棚には先輩たちの偉大なる活動の軌跡。文化祭で配った文芸誌の残りがミルフィーユのように積み重なっている。
部室は図書館わきの物置が割りの小部屋、入り口には『文芸部』プレートがぶら下げてある。
「扉を開くと、世界が生成されてゆくの!」
珠美が部室の古びた扉を指差す。
「『世界五分前仮説』は厨二病の定番よね」
珠美のキメ顔が崩れた。由香利の言う『世界五分前仮説』は「世界は五分前に作られた」という仮説。イギリスの哲学者が考えた「証明のしようがない」仮説にすぎない。
「じゃぁ、実はあたしたちの脳は培養液の水槽に浮かんでいて、夢を見ている!」
「それは『水槽の脳』と呼ばれる思考実験。マトリックスの元ネタでもあるわね」
『水槽の脳』は「実は自分は脳味噌だけの存在で水槽に浮かんで夢を見ているのではないか……?」という思考実験のこと。
「ユカのばか! インテリぶって知ったかマウントとるなし!」
「そんな安易な思いつきじゃ『出落ち』小説しか書けないわよ」
「悪かったわね、どうせ出落ち作家ですよー」
珠美は手元のノートパソコンのエンターキーを苛立たしげに叩いた。
「作家? 『ノベルアップ』の書き手でしょ」
「くっ」
「ふっ」
にらみ合いも一瞬だった。
がくりとタマが肩をおとす。
窓からは心地よい風が吹き込んでくる。
カーン! と打球を打つ金属音と野球部員の声援、管楽器の奏でる音が聞こえてきた。
放課後の学校にはまだ沢山の生徒が残っている。
黒蜜のような髪を指先でかきあげながら、由香利がほらね、という表情をする。
今も大勢の人間がいて、世界は無限に広がっている。けれど部室は二人きり。そこはまるで小さな箱庭のよう。
「新作のアイデア考えるの協力してよ」
「いやよ、読書の邪魔をしないで頂戴」
タマは不満げにほほを膨らませた。いろいろアイデアを考えたのに、ユカは聞いてくれない。
もうすこしノリノリで話題を掘り下げてくれてもいいのに……。すぐに話の腰を折る。知ったかぶりのマウント女め。対面に座る黒髪ロングの似非文学少女をにらみつける。
「読書って、さっきから読んでないじゃん」
「難しくて読めないの。字が多すぎて無理」
そこで互いに顔を見合わせて、思わずぷっ……と噴き出してしまう。
けらけらと笑い声が漂う。
小説を書けない珠美と、読書が苦手な由香利。
ふたりきりの、終焉の約束された文芸部。
「お腹すいた」
「帰りましょ」
「鯛焼き食べたいなー」
「私はクレープがいい」
部活は本日もさしたる進展も成果もなく、おひらきの時間となった。
<つづく>
◇
タマ「ブックマークと評価をくださいね!」
ユカ「もうすこしオブラートに包みなさい」
タマ「下の★マークをぽちぽちっとしてぇ」
ユカ「いいわね、もっと笑顔で媚びなさい」