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たそがれ磁石 総集編

作者: 巻坂こう

たそがれ磁石 第1部 摩擦



姫野結衣はまたバックレた。

今回で八回目である。

俺は呆れていた。

椅子に座っていた俺はベッドに身を倒し枕に顔を埋めた。

スマホを取り出し、ロックを解き、メッセージアプリを開き、結衣宛てにバックレた理由を訊く。

腹立たしいことにメッセージの送信ボタンを押した瞬間に結衣の既読がつく。

その数秒後返ってきたメッセージはこうだ。


『こわい。むり』


俺は舌打ちしてスマホをスウェットのポケットに突っ込んだ。

「ならもっと早く連絡してくれよ……」天井にボソッと言い放った。


昨日、俺と結衣は、結衣の左耳たぶにピアス穴を開ける約束をした。

開けるくらいピアッサーを買って一人でやればいい。

不器用な俺でも昨年ピアッサー買ってから三分と経たずに左耳たぶに一つ開けたのだ。

もしそれが嫌なら医者にでもかかればいい。

そう言うと結衣は決まって「一人は論外、医者も無理。あの慣れた手つきは優しさのカケラもないのよ!」と言う。

友達もだめ、あの人もこの人もだめだめ。

結局最後には長い付き合いである男友達である俺に「最後の頼みの綱はあなたよ!」と頼みこんできたというわけだ。

で、最後の頼みの綱であった俺ですらこの通りだ。

耳に穴が開くのが怖いらしく俺の家から逃げ出したのが一回目のこと。

いや、正確には俺の家にすら来なかったのである。

つまりバックレたのだ。

そんな出来事がもう八回も続いた。

信じた俺がバカだと皆は思うだろう。

それが結衣の頼み方に問題がある。

幼気があるというか可憐というか、とにかく甘やかされた愛らしい少女のような、引っ掛かりのない美しさが結衣にはある。

そんな女に懇願されたら俺だって、いや、誰だって首を横に振れないだろう。

はっきり言うが、俺は結衣が好きだ。

結衣は「姫野総合製作所」という言わずと知れた大手製作所の社長令嬢だ。

たまたま親同士が昔からの仲という事で、十歳の頃結衣と出会った。

そして現在大学生に至るまで俺はずっと結衣が好きだった。

何度も告白を試みた。

けれど、お嬢様という所からなのか。

結衣の可愛さという皮の中に、秘められた凛々しさがあり、それに圧倒されて、いつも俺の気持ちをくじけさせた。

約束を破るという欠点を除いては才色兼備の結衣である。

なにより俺は失うのが怖かった。

生活レベルが違うとか、幸いそんなの眼中になかった。

恋仲になりたい気持ちはあるが、親しい友という間柄から一歩踏み出すことが、今日までどうしても出来なかった。

それにもし一度フラれてしまえば、もう二度と元に戻れない気もした。

このズルズルと引きずって九年の恋にけじめをつけたいという気持ちに悶えていた。


この「ピアス八回目バックレ事件」には流石にうんざりさせられるが、俺にできる結衣の希望は叶えてやりたい。


次の日俺は大学で早速結衣を見つけて尋問した。

結衣は購買で昼食のパンを選んでいる最中だった。

お嬢様という割には結衣の食事は庶民的である。

早速なぜ来なかったのかと問えば、結衣は「怖いんだから仕方ないじゃない」の一点張りだった。

相変わらずツンツンしてるな。

長い黒髪がサラサラとふれる頬がお餅のごとく膨らんでいたから、約束を守る大切さを優しく、且つ懇々と説明してあげた。結局結衣の頬は元に戻らなかった。

「別に無理して開けなくても良いんじゃないか?」

「いやよ。次こそ開けてちょうだい。週末空いてるでしょ。ユウくん」

「空いてるけどよ。またバックレるだろう。結衣ならフェイクピアスとかでも良いんじゃないか?」

「いやよ。大学生になってもそんな挟むやつなんて」

結衣はキッと怒りを孕めて俺を睨んだ。

それに怯んだ俺は結衣の手に持っているパン見て話題を転じた。

「メロンパン好きだね」

「ああこれ?うん。パン全般好きだけどメロンパンは格別なの」

「昼パンなら朝何食べるんだ?」

結衣は即答し、

「パン」

「夜は?」

「パン」また即答。

「間食は?」

「パン。ずっとパン」

「白と黒色の動物は?」

「シマウマ」

「ワザとボケてるよね? 最初から。ねぇ?」

思わず吹き出した。

そこはパンダだろ。

それに結衣は出るところは出て、へこむところはへこんでいる、そんなスタイルの持ち主だから、三食全てパンをかじってるなんてあり得ない。

「変なこと聞かないで。授業始まるからまたね」そう言い、スッと俺の左側を抜けて行ったその時だった。

「痛っ…!」

突如左耳を引っ張られるような痛みがじわりと走った。

なんだ今のは。

結衣の仕業か? いや、結衣は今俺の横を通り去っただけで何もしていない。

そもそも人に耳を触れられるような感覚は一切なかった。

ピアス穴痛めたのかな。俺はそう思った。

自分の耳たぶを優しくさすった。

空気中をふわりと漂っていた結衣の石けんの香りと共に、いつの間にか耳の痛みも消えていた。


※ ※ ※

「うまーい!美味しいね」

「あのーお嬢さん、昼間に言った結衣の三食パン説が一日でかき消された件について一言どうぞ」

いや、分かってたけどね。

それだけスタイル良い身体が三食全てパンで構成されているワケがない。


「三食パンよ。これ二.五食目。あとお嬢様って呼ばないで」

「まだ言い張るつもり?一日何食食べんのよ?あと『様』はつけてねえ」


結衣と再び会ったのは今日の昼間に大学で会った日の晩だった。

『今日19時半に日吉駅の改札出て左側に集合。時間厳守よ。』

と放課後に結衣からのメッセージが来ていたのが始まりだった。

結衣より先に授業が終わって帰宅してのんびり部屋でゲームやっていた俺だったが、自由が丘に住んでいるため、待ち合わせの時間には余裕で間に合った。

結衣からの誘いはこの上なく嬉しかったが、メッセージに「時間厳守」書かれていて何か大事な用があるのではないかと少し不安な気持ちも混じっていた。

そして日吉で結衣と落ち合ってすぐに、この焼肉屋に連れて行かれた。


肉を網の上に置くと即座に「ジュッ」という音がした。

俺は、肉が泡を表面にちりちりと浮かべながら徐々に縮んでいく様子を観察して、一枚一枚裏返していった。

ピンク色で少し血混じりだった肉が次第に両面うすだいだいになってきたのを見ると、トングで肉を押してみた。肉の弾力がしっかり伝わってきた。

中もしっかり焼けているようだ。

「もう食べられるよ、結衣」そう言って肉を一枚掴み上げると、結衣は自分の取り皿をちょこんと持ち上げた。

そこに肉を置いてやると「ありがとう」と子供っぽく笑った。


「結衣って飯の時だと丸くなるのな」学校じゃあんなにツンツンしてたのに。今はまるで純粋無垢な少女のようだ。

「別に態度とか変えてないし……んー!美味しい!さすが焼肉奉行のユウくん」

「そんなんじゃないよ。ここよく来るの?」

「結構来るよ。誕生日もここでお祝いしてもらったことあるし」

「へぇ、焼肉好きなんだ?」

「うん……大好き」

結衣はほんの少し間を空けてから頬を少し赤め頷いた。

女の子は焼肉が好みと言うには少し抵抗があるのだろう。

思えば、結衣と長い付き合いなのに、結衣の好物なんてろくに知らなかった。

当たり障りのない話をしながら肉を焼き、腹も少しずつ満たされたところで俺はだんだん焦れてきた。

ついに先程から気になっていたことを結衣に訊いた。

「なぁ、なんで今日飯に誘ったんだ?」

「なんでって?」

結衣は首を傾げた。

「だって一緒に晩飯行くなんて滅多にないじゃん。何か俺に用があるのかなって思って」

結衣と飯に行ったのは大学の入学祝いをファミレスで済ました四月以来だ。

「んー……」

結衣は何か考えてる様な素振りを見せて、肉のかけらを1つ口に入れ、ゆっくりと咀嚼してからこくりと飲み込んだ。

「特に意味ないよ」

「なんだよ。今絶対何か考えてたろう」

「そうだなぁ……強いていうなら、バックレた事に対してのお詫び?」

「何を今更……」

俺は苦笑してグラスに入った緑茶に口を付けた。

結衣はお詫びと言っていて今回の焼肉代を全額負担すると言ったが、さすがに申し訳なく感じたので、割り勘することにした。

結衣は割り勘をお会計の直前まで全く納得しなかった。

不満げにぶうぶう言い出し、終いには俺の財布を奪い俺が出した金を再びしまい込もうとしたが、隙を見て財布を取り返してお会計を済ませた。

「私がせっかく奢ってあげようと思ったのに」

結衣は店を出ても不機嫌なままだった。

「お嬢様にたからないよ。反省の意があるなら週末は必ず来いよ」

「行くわよ。行く。絶対に開けてもらうんだから」

「はいはい、じゃ家まで送るよ」

結衣の家は、この焼肉屋のある、放射線状に広がる賑やかな商店街のさらに奥にある。

街灯が多いため夜でも比較的明るいが、怪しい店のキャッチやナンパがいるから結衣1人で歩かせたくはなかった。

腕時計を見るともう夜九時をまわっていた。

結衣の家に歩を進めた瞬間、「待って」と結衣から発せられた声がかかった。

「食後の運動としてさ、ちょっと学内散歩しようよ」

「散歩?いいけど、こんな時間じゃ教室とか閉まってるぞ」

「いいのよ。ちょっとふらっと行って帰ろ」

散歩へ行くと決まると俺たちは、日吉駅を挟んで向こう側にある、俺たちが通う大学へ足を運んだ。

「うう…寒ぅ……」

「もう12月だしな。ここん所すっかり冷えてきた」

「見て。銀杏の葉も殆ど散ってる」

「本当だ。この景色にも見慣れちゃったせいか登校の時もあまり意識して見てなかった」

そう、普段はこの景色にも見慣れて落葉なんてあまり意識してない。

視覚的に落葉に気づきはするものの大して気にも留めない。

不思議だ。

もう長いこと結衣といるのに、同じ景色を何度も共有しているのに、結衣と見る景色は、どんなものでも、たとえ見慣れた景色でさえも新鮮味があり、美しく感じる。

なんで? なんでってそんなこと分かりきってる。何を今更。

星が音もなくまたたき、月は冴えに冴え切っている。

今しかない。ここで結衣に思いを伝える。

九年溜め込んできたこの気持ちを全て結衣に。

「結衣」

星空を見上げながら歩いていた結衣は振り向いた。

「あのさ、話があるんだ――」

「ねえユウくん、そのピアス、人にもらったやつでしょ?」

こっちを振り向いた結衣は俺のシルバーのフープピアスに目を向けた。


――身体からだの力が抜けた。胸に手を添えなくてもドッドッと鳴る鼓動が感じ取れるくらい緊張していた。

そんなどうでもいい事なぜ今聞くんだ。

「忘れた」

「……え?」

俺は渋々答えた。

「人にもらったかどうか憶えてない。ただこれ、気がついたら家にあって、付けてるんだけどもうボロいよな。サビかかってるし。近々新しいの買うから、それまでつけてるんだ」

「憶えて……ない……?」

「ああ。何か知ってるのか?まぁそれはさておき、伝えたいことがあるんだ」

そう、今度こそ。

「ユウくん」

俺の名前を呼ばれた瞬間、俺は凍りついたように固まってしまった。

焼肉屋で見せた明るくて可愛い結衣の笑顔が嘘のように変わっていた。


結衣は続けて小さな声でなにか言ったようだが、同時に車が通ったため音は掻き消された。

けど、唇の動きで何を言ったのかは分かったんだ。

結衣は最後に涙を浮かべ、確かにこう言ったのだ。



――かなしい。


結衣はそう言うと俺の左を抜け去っていった。

その瞬間、再び左耳が引っ張られたような痛みが走った。

痛みの原因は分からない。

そんな痛みより今は。

ただひたすらに胸が痛かった。

今日は約束していた週末。ピアスを開けるのを試みる日。

しかし、やっぱり。


姫野結衣はまたバックレた。

今回で九回目である。



第1部 摩擦 ――完―― 第2部に続く。



第2部 曖昧模糊


「おう、結衣。おはよう」

俺は月曜の朝、大学で結衣を探し出し、挨拶した。

「おはよ」と挨拶が返ってきたのはよかったが、案の定なんの親切気もない調子だった。

素っ気なく挨拶を返して、結衣は俺から歩いて去っていった。

いつも肉感的で温かい結衣の瞳が昏くなっていた。

その昏い瞳は怒気を孕んでいるようにも感じた。

先週の晩、俺はやらかした。

その日は俺と結衣は珍しく一緒に夕飯を食べに焼肉屋に行った。

少なくとも焼肉屋では結衣に異変はなかった。

いつも通りのツンツン、時に丸い結衣が目の前で焼肉を食べていた。

事は結衣からの提案である、食後の運動と称した散歩で起こった。

さらに俺と結衣との間の会話の内容まで記憶を辿ってみた。

やっぱり原因は俺がこのピアスがなんなのか憶えてなかったからだろう。

それ以外に考えられなかった。

結衣は俺がこのピアスを憶えてることを前提としていたから、俺はこのピアスがどんなピアスなのか答えなくてはならなかった。

なのに俺は。

「はぁ……失言だった」

肺の底から重たい息を吐いた。

俺は自分の左耳たぶについているピアスを外し、四方八方から観察して見た。

しかしシルバー色のフープピアスはどの角度から見ても、なんの変哲も無い普通のピアスにしか見えない。

強いて言えば、少し年季が入っていてサビがかってるくらいだが、それ以外は何も異変など見当たらない。

このピアス自体何もないが、昔結衣とこのピアスの事で何かがあったのは間違いない。

結衣のみぞ知る真相が気になり、居ても立っても居られない俺は帰宅後すぐに結衣の携帯に電話をかけた。

コール三回目で結衣が電話に出た。


「……ユウくん?」女性の濁った声。でもその声の持ち主は間違いなく結衣だった。

「いきなり悪い。その声…寝起きだよな?ごめん。今大丈夫か?」

結衣は昼寝をしていて、俺の電話で起こされたらしく不機嫌そうだった。

「いいよ、ごめんね。どうしたの?」

「こないだのごめん」

「……」

結衣は黙り込んだ。そしてしばらく沈黙が時間を支配した。

やがて結衣は口を開いた。

「別に怒ったりしてないよ。でも……忘れてしまってたのね」

「ピアスの事か?」

「そうよ……もしかして思い出したの?」

ウッと胸が打たれたような感じがした。ここは正直に言うしかないと悟った。真実を訊き出すために。

「ごめん、憶えてないんだ。なぁ、このピアスはいったい何だ?俺と結衣は昔何があったん——」


「……くそっ!なんでこんな時に……」

会話が途切れた。スマホの画面が暗くなってボタンを押しても反応しない。

スマホのバッテリーが切れたようだ。

俺は急いで充電コードをコンセントに挿し、スマホが再起動するのを待った。

スマホが起動して操作が可能になると、俺は急いで結衣に電話をかけた。

しかし結衣は電話に出なかった。

何度か掛け直したがやはり結衣の応答はなく、考えた末、メッセージを残すことにした。

『傷つけてたらごめん。けど訊きたいことある。明日授業終わったら日吉駅に来て。』

普段学内にいる時は俺が結衣を見つけ出して話すのだが、今回は確実に結衣と話したくて半ば強制的に呼び出すようなメッセージを送った。

結衣は堅気で几帳面で約束事はきっちり守る女だ。

それを理解した上での手段だった。

ピアスに関する約束は依然として破るけれど。

かつて結衣ともっと学内で会えるように、結衣と被るように履修を組もうとしたが、結衣に「自分の興味ある授業を取らなきゃ大学行く意味がないじゃない」とキッパリ言われてしまった。

俺も関心のない授業を「関心ある」と誤魔化せるような器用さは持ち合わせてなくて、結局おのおの本当に関心のある授業を選択したのだ。

夜はどうしようもなく焦燥感に駆られ、なかなか眠りにつけなかった。

俺が駅に着いてから三十分経った後に結衣が来た。

一日の授業を終えて大学から学生達がぞろぞろと来てごった返していた駅の中で後ろから結衣に「ユウくん」と呼ばれた時は正直安堵した。

約束事を守る女と分かってたけれど、今回ばかりは来ないのではないかと思っていた。

まず結衣に訊きたい事は。

「昨日電話に出なかったけど何かあったのか?」

「ごめんね、寝落ちしたの。起きた時は夜中でかけ直すのは迷惑かなって思っただけ」

結衣は俺が思ったよりも明るかった。寝起きだったとはいえ、昨日の結衣の声はとても重く感じた。

これから恐る恐る質問していこうとしていた俺は少し肩の力が抜けた。

「で、どうしたの?」

「昨日の話の続きだ。そこらのカフェ行かないか?」

せっかく来てもらったのに、こんな雑踏しているところで立ち話というのも酷だと思った。

「いいわ。ここで話して」と俺はあっさり断られた。

結衣はさっさと本題に触れてほしいのだろう。

「このピアスについて教えてくれ。忘れたのは本当に申し訳ないと思ってる。でも改めて知りたいんだ」

俺は結衣に懇願した。

「別に大したことじゃない。気負わないで。無理に思い出さなくてもいい」

冷たく言いはなされた気がした。けれどここで下がるわけにはいかない。俺はどうしても。

「大した事ないのなら、なんであの時泣いてたんだ?」

「え……」結衣の表情が曇った。

結衣は、泣いてたの分かってたの?と言ってきそうな、少し驚いた様子を見せた。

そう。あの日の晩、結衣はとても悲しそうな顔をして、目に涙を浮かべていた。

あれは見間違いなんかじゃない。

「……」結衣はまた黙り込んでしまった。

俺はだんだん苛立ち始めてきた。

「黙ってちゃ分からない。いい加減教えてくれたって——」

「いいの!」と、突然結衣は声を荒げ、俺は一瞬固まってしまった。近くを歩いていた人たちの視線を浴びた。

「……ごめんなさい。本当にもういいから。私からこれ以上訊き出さないで」

俺は「ごめん」と謝るしか出来なかった。

結衣は続けて「あと本当に今更だけれど……九回もバックレてごめんなさい。ピアスの件はもう忘れて」

結衣はそう言うとやはり俺の左側を抜け去っていった。

「……え?おい……」と呼び止めようとしたが、かける言葉が見つからなかった。

遠く離れ小さくなっていく結衣の後ろ姿を、ただ見ているだけしか出来なかった。

冷静さを欠いていて熱くなっていた俺がハッと正気に戻ると、すぐさま結衣を追いかけようとした。

しかし走り出した瞬間に足がもつれ、派手に転んだ。

再び周囲の注目を浴び、クスクスと笑う声が耳に入ってきた。

起き上がった時には結衣の姿はもう何処にもなかった。

「やっちまった……」後悔と不安の波が俺に押し寄せてきた。


目の前が真っ暗になり、残ったものはやっぱり。

左耳の痛みだけだった。


俺は一刻も早く枕に顔を埋めたいが為に、急ぎ足で帰路についた。

俺は結衣が好きなだけなのに、事態はもはや結衣に告白どころではなくなっていた。

あんなに開けたがっていたピアスも、もういいなんて。

さっきまでは真っ暗な闇の中で、必死に踠き、手探りで何かを掴もうとしている。

そんな自分がいた。

でも今は、もう疲れた。

早とちりも甚だしいと思われても仕方ないが、もう結衣に振られたような気もした。

睡眠をとるためにシルバー色のフープピアスを外すと、ピアスに何か付着していたことに気づいた。

角ばった黒い粒みたいな物が付いていて、一瞬不気味に思い焦ったが、心当たりはあった。

さっき転んだ時に汚れてしまったのだろう。

ティッシュで拭き取ろうとしたが拭いてもなかなか落ちない。

黒い粒に触れたその瞬間だった。

「まさか……嘘だろ……?」と、思わずそんな声が漏れ、緊張で手に汗を感じた。


まさかこれは――


よく観察してみると、コレは、ただの汚れではなくて。

俺の記憶を取り戻す、最重要の物質であって。

今までずっと身につけていたピアスは、強力な磁力を帯びていて。


――ピアスに付着していたものの正体は、ピアスによって集められた、砂鉄だった。


その時、全て繋がった。

結衣との思い出が脳の隅々まで広がった。

どうして俺は忘れてしまったのだろう。

俺と結衣はあの時――


次の日、結衣は大学に来なかった。

どんなことがあろうとも無遅刻無欠席で授業に臨む結衣が休むなんて珍しかった。

欠席した理由が知りたくて、メッセージで送ると、思いのほか五分と経たずに返信がきた。


『ごめんなさい。家で色々あって今日はバックレる!』

直接昨日思い出した全てを結衣に伝えたかったのに。

昨日ゆっくりと記憶の全てを咀嚼し、飲み込んだのに。


姫野結衣はまたバックレた。

今回で十回目である。



第2部 曖昧模糊 ――完―― 第3部に続く。




第3部 たそがれ磁石 過去篇


20XX年。

十歳だった私は恋をしていた。

相手は近くに住んでいる同い年のすめらぎ悠くん。

二文字の名前の上に、『皇』という苗字が珍しくて印象的だった。

そんなユウくんは、今思えばとりたてて目立つ所はなかった。

けれど大手企業の社長令嬢だからといって周囲に畏敬の念を抱かれていた私にも、近所の子たちと同じように遊びに連れ出してくれた。

幼い頃から彼は誰とでも分け隔てなく接してくれた。

私はそんな彼の中にある素朴な優しさがすごく嬉しかったし、好きだった。


私はこの頃からずっと普通が良いと思っていた。

社長令嬢だからって何? 凄いのはパパで私は特に取り柄のない普通の子なのに。

家が大きいからって何? 寝る部屋とご飯を食べる場所があれば、それで充分じゃない。

ご飯が凄く豪華? ううん。食べ物ならお腹に入ればなんだっていいじゃない。

贅沢な悩みだとか言われそうだから、ずっと溜め込んできたけれど、それでも近くに住む子たちは私を見かけるたびにぺこぺこ頭を下げた。同い年であるはずなのに。

私から遊ぼうって声を掛けにいっても、相手はまるで針の間に坐っているように振舞っていて、なんだかこっちが申し訳なくなってきた。

そんなある日、ピアノのレッスンが終わって帰宅途中に、「ねえ」と背後から声がした。

別に私に話しかけてるのではないだろうと思って、振り返りもせず真っ直ぐ道を歩いた。

すると今度は「ねえ! 待てよ」とさっきより大きな声で声がしたから、ビクッと肩が跳ね、歩を止めて振り向いた。

振り向いた先には私と同い年ぐらいの男の子が立っていた。

「私……?」まさか道端でいきなりこんなラフに声をかけられると思わなかったから、たじろいだ。

「うん。お前。姫野総合制作所の娘だろ? 俺は皇悠。父さんがその会社の社長と知り合いでさ。で、その娘が俺と同い年って言っててね」

「え、パパと知り合いなの?」私は一瞬驚いた。近くにパパの同級生がいるなんて今日まで聞いたことがなかったからだ。

その疑問は彼の次の言葉で解消された。

「一昨日、甘楽町から引っ越してきたんだ。こっちでまだ友達いなくてさ。よろしくな」

「かんらく……? どこ?」

「群馬だよ。知らないの?まず群馬県ってのは――」と彼は群馬県について懇々と説明しだした。

解説が日が暮れるまで続きそうだったので、ストップをかけた。

彼はゴメンと謝ると、手に提げていた袋を私に差し出してきた。

「これ。親父さんに渡して」

「なにこれ?」

受け取って袋の底に手をやると、ひやっとした感覚があった。

「こんにゃくだよ。いい? こんにゃくはね…」

「分かった分かった! 群馬の特産品ね! ありがとう。パパに渡しておくわ」

会話を半ば強引に終わらせて私は帰路についた。

いきなり声を掛けられて少し怖かったけれど、嬉しかった。

なにより、私を社長の娘だと分かっていてあんなふうに接してくれた。

彼となら仲良くなれるかもしれないと思った。

翌朝、姫野邸に私にお客様が来ていると使用人に起こされた。

玄関に出ると、昨日の彼が壁に掛けてある絵画をもの珍しげに眺めていた。

彼が私に気づくと、口角を上げ微笑んだ。

「おう、おはよう令嬢さん」

「ええと……ひらめきくん」

「すめらぎだ。クイズみたいな名前つけるんじゃねえ。皇帝の皇と書いて『すめらぎ』と読むんだ」

忘れてた、あまりにも珍しくて。

「ごめんなさい。よくうちが分かったね」

「これだけ目立てば誰だって分かるよ」

それもそうか。都内のこんな丘上に建ってるんだし。

「どうしたの?こんな朝早くに」

「遊ぼうよ」

「……へ?」遊ぶ? 私と?

「だめ?」

「いいよ! すぐ着替えてくるから座って待ってて!」

私は満面に笑みを浮かべて皇くんにそう言った。

初めて遊びに誘われて本当に嬉しかった。

いったい何して遊ぶのだろうと心を躍らせていた。

玄関を出て、庭の門をくぐった先には、男の子二人と女の子一人待っていた。

「誰……?」

私は小声で皇くんに問いかけた。

「友達。右からマサくん、みっちゃん、ゆみちゃん」

と、それぞれ坊主頭のマサ君と肩にかかる程髪が長くて一見女の子かと思わせるような男の子のみっちゃんと、少し男勝りな雰囲気のゆみちゃんを順に指差して紹介していった。

「こっちに越してきたばかりで友達いなかったんじゃないの?」

「できた。昨日」と皇くんはサラッと言った。

「はっや」なんという手腕だろうと素直に感心した。

「でも私を誘っていいの?」

皇くんが良くても、他の三人が私がいていいのか不安だった。

三人とも、まさか私が一緒に混ざって遊ぶなんて思っていなかったのだろう。

「ユウくん、この子誰か分かってるの? お嬢様だよ? ナントカ制作所の」

「生きてる世界が違うんだって」

「なんか悪いから帰ろうよ」

と、私に聞こえないように小声で話してるつもりなのか。

でも私は屈指の地獄耳なので彼らのやりとりがハッキリ聞こえた。

やっぱり申し訳ないから適当に理由つけて今日は帰ろうかな。

私はやっぱり生きている世界が違うんだと実感した。

皇くんにはせっかく来てくれたのに。

なんでそんなにお高く見えちゃうの。

「あの、私やっぱり――」

今日は帰るねと言いかけた瞬間だった。

「お嬢様だけどいいヤツなんだよこいつ。みんなが思ってるほど気取ってないし仲良くなれるさ本当に」

皇くんがそう言うと、さっきまで訝しげに私を見ていた三人の表情が明るくなった。

「そうなんだ! よろしくね!」

彼らの飲み込みもまた、早かった。

「お名前なんていうの?」とゆみちゃん。

「そういや俺も下の名前訊いてなかった。姫野…なんだっけ?」

この時私はきっと目に涙を浮かべていたと思う。

嬉しくて嬉しくて。

私は答えた。

「ゆい! 私は姫野結衣。ただの結衣よ」

そして皇くんの耳元に囁いた。

「ありがとう」

皇くんの耳と頬が紅くなってた事に気づいた。


それからは私たちはよく遊ぶ仲になった。

平日はパパが勧めた私立の小学校に通っていて、地元の公立の小学校に通ってる彼らには中々会えなかった けれど、土日はほとんどずっと一緒にいた。

色々な遊びをしたけど、中でも楽しかったのは人生ゲームだった。

ゲーム機などは教育上の問題で両親に制限されてきたけど、ボードゲームは辛うじて許してもらっていた。


ある日、私達は自分達のお小遣いでどこか外食に行こうという話が挙がった。

結衣は何を食べたいと皆に訊かれ、私はもじもじしながら、

「焼肉が食べたい」と言った。

私の希望が通り、近所の焼肉屋に行くことになった。

店に入ると店員さんに子供だけできたのかと少し驚かれたけど、すぐ笑顔になって席に案内してくれた。

注文した肉がくると皆んな慣れない手つきで各々自由に肉を焼き始めた。

「んー! おいし」

「へぇ、焼肉すきなんだ ?」皇くんは美味しそうに焼肉を食べる私の顔を見て言った。

「うん! 大好き」と私は答えた。

「それよかさぁ、ユイユイのパパの会社っていったい何制作してるの?」

私に『ユイユイ』と渾名をつけたゆみちゃんが話題を転じた。

「うーん、仕事の事はよく分からないけど、機械とかシステムとか化学製品とか本当に色々だよ」

「大変そうだよねー」

『だよねー』が口癖のみっちゃんが言った。



五人で過ごした日々はあっという間に過ぎて、私達は中学生になった。

中学からは五人同じ学校だから、不安なんて一つも無かった。

そんな入学して間もない日のことだった。

「引っ越し……?」

パパから信じ難い事を聞いた。

「ああ。突然決まってしまってすまない。来週から三年、アメリカの支店で働く事になった。お前もくるんだ。まだお前を日本に置いていけないし、これはお前の留学も兼ねてる」

「嘘でしょ?せっかくこっちも馴染んできたのに。いきなり過ぎる! イヤ! 私は残る」

「ダメだ。もう向こうの学校の入学手続きも済ませてある」

目の前が真っ暗になった。

アメリカになんて行ってしまったらもう三年はずっと会えない。

ゆみちゃん、マサくん、みっちゃんは。

皇くんは。

三年も経ったらみんな高校生になってしまうじゃない。

私も同じように高校生になるのに、こんなの私だけおいてかれるみたいじゃない。

涙が溢れた。

「嫌だよう……うう……行きたくない。寂しいよ……」

私は悲しくて声を立てて泣いた。

パパは私の頭を撫でた。

「ここ数年、お前は本当に楽しそうだった。彼らのおかげだろう。仲を引き裂くようで本当にすまないな」

「いい……明日ちゃんと皇くん達に伝えてくる」

身が劈かれるような気持ちになったけれど、不思議とパパへの怒りはなかった。

パパは元々、出張に視察にと枚挙にいとまがなかった。

だから、今回の事があっても別に不思議ではなかった。

こうなる事は心の中で覚悟できていたのかもしれない。

それよりも今すぐ、皆んなに会いたかった。

落ち着きを取り戻し、気づけば泣き止んでいてしゃっくりも止まっていた。


引っ越しの件を伝えると皇くん達に大変驚かれた。

ゆみちゃんは泣き出してしまった。

「みんなで送別会をやろうよ」

マサくんが提案すると賛成の声が挙がった。

「それなんだけど……」

私は一つ考えていた事があった。

「このまま普通にお別れしましょ。サラッと見送って欲しいの」

そう。このまま自然に。

「なんでよ? 寂しいじゃない」と、ずびっと鼻をすすってゆみちゃんが言った。

「だって、私、そっちの方が寂しくないんだもん。盛大に見送られると余計悲しくて日本から離れられなくなってしまうわ」

本心だった。また明日も会えるような、会うのが当たり前かのように感じてしまうような、そんな軽い気持ちで見送って欲しかった。

「ね?お願い……」

「ユイユイがそう言うなら……」

「ありがとう。また会えるわ」私はそう言って、ゆみちゃんをぎゅっと抱きしめた。

「次会うときは高校生だよねー」

「ふふっ。そうね。私、英語ペラペラになって帰ってくるわ」

この後私たちは少し話して、皆んな家に帰った。

空港まで見送りに来る約束をしてくれた。

私はしばらくその場に立ち尽くしていた。

あたりはもう薄暗く、西の空はほんのり紅く染まっていた。

「これでいいのよ……これで……」自分にそう言い聞かせた。

視界がおぼろけになり、空がぼやけていく。

頬に伝う涙。

ああ、私は今泣いているんだ。

今は黄昏時。

言い伝え通り人ならざるものに出逢いそうで少し怖いけれど、今が黄昏時でよかった。

だって、泣いている私の顔を隠してくれるから。

「結衣……」

いきなり背後から自分の名前が呼ばれ、びくっと心臓が踊った。

「す、皇くん……?」

そこには帰っていったはずの皇くんが立っていた。

「突然引っ越すなんて本当に寂しいな。せめて連絡するために携帯でもあればいいのに……」

「私も寂しい。大丈夫よ……住所が分かり次第手紙出すから……」

「うん……ありがとう」皇くんはお礼をした。

でもお礼を言うのはこっちよ。

皇くんは、私とゆみちゃん、みっちゃん、マサくんを繋げてくれた。

そして私に恋を教えてくれた。

ねぇ? 知ってた? 皇くん。

私はあなたに惹かれていたの。

ゆくゆくは告白だって考えていたけれど、今はしないわ。

帰ってきて、その時も依然として皇くんが好きだったら、どうか私の気持ちに応えて。

今付き合ってしまったら、もう余計に寂しくなって仕方なくなるよね。

最も、皇くんは私をどう思っているか分からないいけれど。


「俺、結衣が好き」

「……え?」

一瞬皇くんが今なんて言ったのか、把握できなかった。

「ずっと言おうとしてた。でも三年間溜め込むくらいなら今言う。俺は結衣が好きだ」

私はようやく皇くんが言った事を理解した。

皇くんは私のことが好きなんだ。

ああ、私はバカだったなぁ。

皇くんは私と三年間も会えないと分かっていて、それでも私が好きだと、勇気を出して言ってくれたんだ。

今は黄昏時。

だから皇くんの顔はハッキリと見えないけれど、それでも彼の真剣な表情は痛いほど伝わってきた。


私も応えるよ。あなたの勇気に。


「皇くん、ちょっと来て」

その瞬間私は皇くんの腕を引っ張って私の家、姫野邸へ向かった。

家に着いて皇くんを門で五分ほど待たせ、私は自室へ向かって走っていった。

あるものを取りに行くために。

皇くんの元へ戻ると彼は「どうしたんだよ? 俺の一世一代の告白は?」と困惑した表情で言った。

「ユウくん、これ」

「なにこれ? ピアス開けるやつ?」

私が手に持っていたものはピアッサーだった。

それを左耳たぶに当て、一切躊躇うことなく思い切りレバーを押した。

カシャンという音が響いた。

「お、おい! なにやってるんだよ!」

「痛てて……」

耳がじんじん痛み、違和感を感じた。

ピアッサーを外すとチタン製のファーストピアスが左耳たぶを貫通していた。

「バカ! 家に連れてきて早々何してるんだ」

ユウくんは動揺していたけど私は続けた。

「ユウくん、見て」

私は自室から持ってきて、もう片方の手に握っていた、二つのシルバー色のフープピアスをユウくんに見せた。

「これは?」

「これパパに作ってもらった特別なピアス! これを一つずつ持っていよう! ユウくんはまだ開けなくていい。ここの中学、校則厳しいし。でも、いつか……!」

「これから私達の記憶は……この空みたいに少しずつ昏くなっていくけれど……それでもいつか! また会えたらさ……このピアスを一つにしよう! そしたらユウくんと私、ずっと一緒にいましょ……!」

「結衣……」

ユウくんも私も、もう涙を堪えることはできなかった。

三人の前で押し殺していた気持ちもここで一気に放出された。

私たちはとにかく泣いた。

やがて私は落ち着きを取り戻し、目をごしごしと擦って涙を拭いた。


「このピアスの名前は『たそがれピアス』」

「たそがれ?」

「そうよ。今は黄昏時。そしてあなたが誰そ彼と問えば必ず私の名が出てくることを心から祈ってる! だからこのピアスの名前は、たそがれピアス!」

「たそがれピアス……良い名前だ!」

「また会いましょ……」

私は、これ以上は悲しい顔をせずに、笑顔で振る舞った。

「おう。でも、いきなりピアスなんて開けるなんて思い切ったなぁ。これから新しい学校に転入するってのに」

「アメリカは自由なのよ」

「行ったことないくせに」とユウくんと私はふふっと笑った。


空港では本当にびっくりするくらいサラッと見送られた。

皆、私の気持ちを汲んでくれたのだろう。

私はまた必ず皆の元に。


***


しかし三年後、日本に戻ると、皆の私との記憶はウソのように消えてしまっていた。

マサ君、みっちゃん、ゆみちゃんとはすっかり疎遠になった。

私などはなからいなかったかのように、あの黄昏の空と共に、思い出は薄れて消えてしまっていた。

もちろんユウくんだって——



そして現在。

父の転勤によって私は二度目の引越しを強いられた。

ユウくんには「バックレた」と嘘をついてしまった。

大学生になった今でも、私のこの左耳の『たそがれピアス』は一つにならないまま。


いいえ。


今はもう『たそがれピアス』じゃないわ。

これはただの、ただのシルバー色でリング状の。



「たそがれ磁石」



第3部 たそがれ磁石 過去編 ――完―― 第3部 たそがれ磁石 エンディングに続く




第3部 たそがれ磁石 エンディング



空港の展望デッキから見た空は、なにもかも吸い込んでしまいそうな青さで、そんな空から旅客機が一機、また一機と次々姿を現し、同じ数だけ旅客機がまた空へと吸い込まれていった。

日本を発ち、今日から私はまたアメリカで暮らす。

アメリカでの暮らしはもう慣れているから、以前のような虚しさはなく、少し楽しみでもあった。

大学は一時休学して短期の留学に行くと銘打ったけれど、本当はいつ日本に戻れるのか全く検討がつかなかった。

全ては父の長期の海外勤務次第だし、なにより私も向こうで父に紹介された学校に通わなくてはならない。


「ユウくん……」


私はユウくんに嘘ばっかりついた。

本当は既に開いているピアスを開いていないと言い、ずっとこの黒髪に隠していたり、行くと約束してもバックレたり。

そしてユウくんに何でもないと告げ、今、日本を発とうとしている。

私は本当はずっとユウくんから思い出して欲しかったんだ。

私だけ昔の世界に閉じ込められたかのようで、辛かった。

でもこんなトゲトゲした性格だから。

ここぞというところで素直になれない自分だから。

ワザとピアスに関する約束をしたり、ワザとユウくんの左側を抜け去っていったりしてユウくんに思い出させるよう仕向けていった。

そして結局私ばかりが損をする。

「バカだなぁ…私は」

後悔と自責の念に飲まれている。

こんな事になるのなら、あの時ピアスなんて渡さず、思い切って告白して付き合ってしまえば良かったのかなぁ。

あんなに楽しかったユウくんとの思い出も、結局昏いまま。

私は左耳たぶについている、この『たそがれ磁石』を外そうと、そっと触れた。


「結衣!」

瞬間、背後から声がした。

私は驚いたが、振り向きはしなかった。

その声は私を何度も泣かせ、惑わし、ときめかせた、大好きな声だったからだ。

その人は私を何度も導き、いつも一緒にいてくれた、大好きな人だったからだ。

名前を呼ばれてから数秒、沈黙が空間を支配した。

ようやく私は口を開いた。

「……何しに来たの?」

「またアメリカへ行くって聞いて来た。黙って行くなよ」

「……いいじゃない」

ああ、だめだ、彼を目の前にすると、どうしても素直になれない。

本当は嬉しくて今にも泣きそうなのに。

「よくない。ふざけんな。どうしても行っくなら、これだけ聞いて」

瞬間、彼は、私に聞いて欲しい事を言ったのではなく、私の肩をぐいっと掴み、私を強引に彼の方向へ振り向かせた。

「な、なによ……? ユウくん……」

あまりにも唐突だったので、心臓が飛び出しそうになった。

そしてユウくんは何も言わずに、私をぎゅっと抱きしめた。

「え? ちょっと……!」

バクバクと鼓動する心音は間違いなくユウくんに伝わっていただろう。

心臓が壊れそうで恐怖すら覚えた。

お互い抱き合ったままユウくんはようやく口を開いた。


「これが答えだ結衣」

ユウくんが左耳を、私の左耳に近づけた途端に耳がぐいっと引っ張られて瞬間、「バチン」と大きな音がした。

「痛っ……!」ユウくんと私は同時に呻き声を上げた。

「これが答えだ。結衣。俺とお前の『たそがれピアス』、やっと一つになったぞ。それにしてもこれ、磁力の強さが異常じゃないか?」

二つのピアスは、二人の耳元で反応し合いピタッとくっついていた。

「言ったでしょ? 父の会社で作った特別なもの。『ネオジウム磁石』をもとにして作った超強力磁石、それが『たそがれピアス』よ。それにしても……思い出したのね……」

いったいどうやって思い出したんだろう。

「ああ、ピアスに砂鉄が付いててビックリした」

「砂鉄? 私の今までの『思い出してちょうだいアピール』は何だったのよ」

「なんだそれは」

「九回に渡るピアスバックレ事件とか、焼肉が好きな事をわざわざ九年前と同じセリフで伝えたり!」

自分で何を言ってるのだろうと思って少し恥ずかしくなった。

「九回全部お前の策略だったのかよ。焼肉が好物なのは忘れてた。そう言えば昔焼肉屋行ったっけなぁ……うーん……」

「もういいわ。砂鉄ふりまけば良かったかしら。私とたそがれピアス、放してちょうだい」

ユウくんは腕を解いて私を放し、ピアスを手こずりながらも再び耳に痛みが伴わないよう丁寧に磁界の外へやった。

「まさか、毎度わざわざ磁界に入るために俺の左側を抜けてったのか?自らの痛みと共に」

「さぁ……どうかしらね」

「おいおい……俺は耳鼻科にあたろうかと思ったぞ。まさかこれが磁力を帯びて結衣のピアスに反応してるなんて思わなかったしな」

ユウくんは苦笑した。

全部思い出したというわけじゃなさそうだけど、それでも――

「ふふっ、少しはあなたの意表を突けたみたいね」


――それでもユウくんは来てくれたから。

もう私は同じ轍を踏まない。

今度こそ、ユウくんと一緒にいたいから。

「ユウくん、ありがとう」

「私、ユウくんが好きだよ」

ピアスを渡すことよりも、この一言を言うことが正しかったなんてもう思わない。

過去がたとえどんなものでも、私たちは今ここにいるのだから。

「俺はもう九年前に伝えてあるはずだ。今も変わらない」

「気をつけて行ってこいよ。今度こそ、思い出と一緒に待ってるからさ」

「うん……! ありがとう」

ユウくんが、こつんと私の額に、ユウくんの額をくっつけた。

私は、そのスキンシップを正面から受け止め、でも、ぎゅっと目を閉じた。



瞬間、ぽろぽろっと零れた涙。



「行ってきます!」



* * *


「ママ! 私、かんじテスト百点だったよ!」

家の玄関が開いた途端、高い少女の声が廊下に響き渡った。

「あら、結香! ……へぇ! すごいじゃない」

娘の結香が胸に飛び込んできた。

私は結香の髪を優しく撫でてあげると、結香は気持ちよさそうに目を細めた。

「ねぇ、パパにも見せてあげたい」

「分かったわ。じゃあ、忘れないように冷蔵庫に貼っておきましょ」

「うん! 貼ってくる!」

結香はバタバタと台所へ駆けていった。

「ママ!」

台所から結香がまた私を呼んだ。

「はいはい、どうしたの?」

冷蔵庫の前に立っていた結香は真剣に、あるものを眺めていた。

「ねぇママ、冷蔵庫にくっついてるその磁石はなに? 指輪?」

「ああ、それはね――」


それはね、私と大切な人を結んだ




「たそがれ磁石」



――END――
















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[一言] 面白かったです。 Twitterのフォローに気付いて、フォロバとともに読みに来ましたが、予想以上に面白かったです。 ジャンルは 現実世界〔恋愛〕でも良かったのでは? 各話は連載設定にした方が…
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