第6話 神の手のひら?
「えりちゃん?」
色黒で、縦も横も大きくてまん丸い熊みたいな今日のお客様は、目もまん丸くして絵里姉をじっと見た。
別室にいる妹の麻美と私は、モニターを見て固まった。
絵里姉はもっと固まっている。
「えりちゃんだよね?ほら、ここの近所に住んでいた僕だよ。えりちゃんの家庭教師していた熊田健吾。あ、そっか、両親が離婚して名前変わったんだよね…。前は苗字は細井だった」
「…健吾兄さん」
絵里姉が声を絞り出すように言った。
私と麻美は顔を見合わせた。
「知ってる?」
麻美は首をひねり、考え込むように答えた。
「私は3歳の時までしかここに住んでいませんでしたから、わかりません。理真お姉さまこそ覚えてないのですか?」
私が小学生になってすぐに両親は交通事故に遭って他界し、私たち三姉妹は祖母に引き取られた。その祖母が亡くなり、私たちはこの街に戻ってきたのだ。私が6歳の頃、絵里姉は12歳だったはず。
「調べてなかったの?」
「調べようがありません。彼の両親ともにここには住んでいないようですし、彼も別の場所に住んでいますから」
モニターの中の熊田さんはまん丸の顔を満面の笑みに変えた。
「嬉しいなぁ〜。あのえりちゃんにまた会えるなんて。しかも別嬪さんになったなぁ〜」
32歳の熊田さんは親戚のおじさんみたいに懐かしそうに絵里姉を眺めている。
「…えっと。ごほん」
わざとらしい咳ばらいをして、絵里姉は熊田さんを正面から見た。
「えっと、本日はお仕事の事ですよね?」
熊田さんは大学病院の医者である。将来を有望された脳外科医だ。
『神の手』
そう呼ばれるようになるのも遠い将来ではないそうだ。
彼の未来は輝かしいものだった。
「はぁ〜。何かさ〜。職場環境悪くて…。大学病院って、ほら、あれ、最後に死ぬやつ。白いなんとかって小説あるじゃない?そんな感じで、性に合わないんだよね〜。だからさ、熊本の過疎地の病院…診療所に転職しようかなぁ〜なんてさ、思ってさ〜」
遠い過疎地には、医者も弁護士も若者も少ない。
過疎地こそ、職場環境が悪いのだ。
「迷っているなら、行かない方がいいと…曾お爺様が言っていらっしゃいます」
絵里姉は当初の予定通りに曾爺さんを出した。
過疎地には確かに医者は必要である。
だが、わざわざ『神の手』を持つ熊田さんが行く必要はない。
彼の助けを必要とする人、彼でなければ救えない人が近い将来大勢出てくるはずだ。
彼が行かなくてもいいはず。
迷っているってことは、本人もわかっているのだ。
自分の使命を。
たとえ、熊田さんにとっては悪い職場環境でも、そこで必要としている患者がいる限りは手を尽くすべきだ。
「曾爺さんか…」
彼は信じているのかいないのか、片手で頬杖をついた。態度の悪いお客様だ。
「おばあちゃんじゃないんだよね。…僕が医者になろうと思ったのは、大好きだった田舎のおばあちゃんが死んだ時だった。すっごい田舎で、軽い病気だったけど、その村には医者がいなくて、結局、間に合わなかったんだ。だから、医者になろうって思ったんだよね」
「…そうでしたね」
絵里姉が少しだけうつむいた。
もしかして何かを思い出したのだろうか。
「健吾兄さんは、いつも言っていたね。だから、医者になるって…、私の両親が事故に遭った時も…」
あの頃のことを、私はあまり覚えていない。
敢えて思い出そうとしないようにしているのかもしれない。
絵里姉はぽつぽつと話を続けた。
「父は即死だったけど、母は救急車の中で死んだって聞いた。なかなか受け入れをしてくれる病院がなくて、間に合わなくなったって聞いて…、健吾兄さんが、絶対、医者になって、もう二度とそんなことがないようにしたいって言ってくれたね」
「あの頃は、まだ単なる医学生で必死に勉強していたころだったな。純粋に一人でも多くの患者を救いたいって思ってたな。でも、その後、たまたま手先が器用だったこともあって、恩師の勧めで何となく脳外科医になって、まわりからチヤホヤされているうちに、そんなことも忘れてしまったことに、最近気づいてしまったんだよ…」
「ここでも人を助けることはできるわ」
「そうだよ。ここでもいいし、熊本でもいいんだ」
「神の手は、その診療所じゃあ、宝の持ち腐れだわ」
「…よく知っているね」
私たちがリサーチしていることは内緒である。
「曾お爺様がおっしゃっているの」
「あ。そっか」
またまた間の抜けた返事をして、でも、困ったように言った。
「でも、僕の手は『神の手』なんかじゃないよ。小さい頃、田舎のおばあちゃんちに遊びに行ったときに、お腹壊すと、いつもおばあちゃんがお腹をさすってくれたんだよね。なんか不思議に治った気がしたよ。僕の『神の手』は、そのおばあちゃんの手の平なんだよね」
「健吾兄さんがわざわざ過疎地に行って、お腹をさする必要はないでしょう?」
「魔法だと思わない?本当におばあちゃんがさすると治ったんだよ。ほら、キャンディを子供に渡して薬だよって言うのとおなじかもしれないけど…、そんな『手当て』って、医者がした方が効果あると思わない?」
「だから、健吾兄さんが行くことはないでしょう?」
「でもさ、僕が行かないとそこには医者がいないんだよ」
「そんな場所は他にもたくさんあります」
「だけどさ、そんな場所を一つでも減らせればいいと思わない?」
「それは、行政の仕事です。医者の仕事ではありません」
「でも、でもさぁ〜」
その時、何かが切れた音がした。
「行きたいなら、行けばいいでしょ!要するに行きたいんでしょ?気持ちは決まっているんでしょ?ぐだぐだ言わずに行ってしまえばいいわ」
絵里姉が脳の血管が切れた音だった。
脳外科医が脳の血管を切ってどうするのだ。
私と麻美は再び顔を見合わせた。
麻美は気を取り直して、マイクで絵里姉をたしなめる。
『絵里お姉さま。何を言っているんですか?彼を止めるのが私たちのお仕事です』
その声で、我に返った絵里姉は、自分が言ってしまったことに固まった。
熊田さんもまん丸い目をまん丸くした。
「…それも、曾爺さんが言っているの?」
「これは、えりが言っているの…」
熊田さんはくすくすと笑いだした。
「じゃあ、えりちゃん。一緒に行かない?熊本」
「は?」
フリーズ。
これで何度目だろうか。
麻美は落ち着いて、マイクで絵里姉に言った。
『絵里お姉さま。彼には、婚約者がいますよ』
私はその後ろから遠巻きに言った。
『そ〜よ〜。絵里姉が行ったら、話が終わる〜』
「行かないわよ!」
隠しマイクの忠告に思わず絵里姉が怒鳴る。
「やっぱ、無理だよね〜」
熊田さんががっくり肩を落とす。
「あ。いや。そうじゃなくて…」
「行ってくれる?」
「あ。いや。そうでもなくて…、ちょっと今日は曾お爺様がうるさくて…おほほ…」
実は今日の仕事は、彼の婚約者である瑞穂さんがここに来たことから始まったのだ。
瑞穂さんは同じく医者であり産婦人科医である。産婦人科医は特にこのご時世、天然記念動物並の扱いである。そんな希少価値のある産婦人科医を過疎地の子供のいない田舎に行かせるわけにはいかないのだ。
ましてや過疎地に2人も医者は必要ない。
瑞穂さんがどんなに説得しても、熊田さんは煮え切らず、もともと霊的なものに興味のあった瑞穂さんが相談のためここを訪れたのだった。
絵里姉は、瑞穂さんに曾爺さんの口を借りて、瑞穂さんがここに来たことを臥せたうえで、彼をここによこすように薦めたのだ。
「えっと、ですね。健吾兄さん…の曾お爺様は、大学病院に残って脳外科医として多くの、健吾兄さんしか助けることのできない患者さんを助けることは素晴らしいと言ってます」
「…そっか」
「でも、私は、…えりは、健吾兄さんは行きたいところに行けって言ってます」
『絵里お姉さま?何を言っているんですか?』
絵里姉は、とおとお故障したか?
「えりちゃん。本当は僕は熊本に行きたいんだ」
「行ったらいいです」
「でも、婚約者が反対していて…」
「だったら、その彼女に言ってください。別の女性と、自分に付いてきてくれる人と行くと」
「…えりちゃんがついてきてくれるの?」
「ええ。行きます」
『絵里姉?』
『絵里お姉さま?』
*
そうして、絵里姉はいなくなり、このお話は最終回になった…
「どこにも行かないわよ!」
絵里姉はいつもの黒いコスプレで私を睨んだ。
結局、熊田さんは絵里姉の言うとおりに瑞穂さんに言った。
その結果、瑞穂さんの方が折れたのだ。
熊田さんは大学病院を辞め、瑞穂さんと共に過疎地に引越し、瑞穂さんはその過疎地から車で2時間の熊本県内の市民病院で勤務することになったそうだ。
「絵里姉は、最初からこうなることをわかって、あんな風に言ったの?」
「当たり前でしょう?私は熊には興味がないの」
しかし、私は思い出していた。
絵里姉の初恋は、間違いなくあの熊田さんだ。
昔、絵里姉の机の引出しに、写真があったのを思い出したのだ。
もっともその頃は、痩せていて色白の青年だった。
私が思い出せなかったのも仕方のない話だ。
「でも、あれでは霊視じゃなくて、本当にお悩み相談室です。インチキ以前の問題です」
麻美が言うのももっともだ。
曾爺さんではなく、絵里姉自身の意見が通ったのだから。
「もしかして、そのほうが儲かるのかな?」
絵里姉。
そんなことを言ったら、本当にお話が終わっちゃうよ…
それにしても、絵里姉は金を儲けたいのか、何をしたいのか、謎である。
それは、神のみぞ知る。
最後までお読みくださり、誠にありがとうございました。
これは、「月の裏であいましょう。」の番外編的な作品です。
お時間があれば、そちらもよろしくお願いします(*^_^*)