第5話 HAPPY?
「幸せになりたいです」
顔に痣をつくり、真っ青な顔でその女性はうつむいた。
滴が紫のテーブルクロスに丸い染みを次々に作り出す。
麻美が呟いた。
「幸さんに連絡をします」
今日のお客様の悩みはネットの申し込みからはわかりづらかったが、なんとなく察しはついた。
DV、家庭内暴力である。
幸さんというのは、ほんの半年前、私たちが一見さんのお客様も見るようになって間もない頃、ちょうど今の女性と同じように顔に痣を作って、絵里姉の前に座った女性である。
今の女性とちょっと違うのは、幸さんは小さな子供を連れてきていた。
*
半年前。
「どうしていいのか、わからないんです」
まだ4歳ぐらいの男の子を抱きよせて吐き出すように、幸さんは言った。
「暴力はこの子が生まれて間もないころから始まりました」
もともと派遣の工場勤めで安定した仕事がないところに子供ができたのだ。将来の不安だか何だかで、旦那は幸さんを殴るようなったらしい。子供のためと必死に我慢したが、ついに限界が来て、実家に戻った。その時、旦那は土下座をして幸さんを連れ戻した。しかし、その後、もっと暴力は酷くなった。何度となく実家に帰っては戻る、を繰り返し、終いには幸さんの両親にも暴力をふるい、幸さんは実家に帰るのを止めた。友人の家を転々とするが子供がいるので迷惑をかけられず、家に戻っては、前よりも過激な暴力を振るわれるという悪循環ができたのだ。
「このままでは殺されます」
幸さんが泣きながら言った。
「逃げてください、…と霊が言っています」
絵里姉が唐突に言った。
その頃は、リサーチも特にしておらず、行き当たりばったりだった。
もっとも今でも大差はない。
「え?でも、これ以上、逃げられません。子供もいるし…」
「遠くに逃げればいいのです。どうせなら海外がいいですね。…霊が言っています」
絵里姉はこともなげに言った。
「そう。そう。私の知り合いにツアコンしている友人がいるので彼を紹介しましょう」
『絵里お姉さま?それでは何の解決にもなりません』
麻美のもっともな忠告がイヤホンから聞こえているはずだが、絵里姉はそれを無視して話を進める。
「激安で紹介します。とりあえず、チケットを手配しましょう。早い方がいいですね。パスポートは持ってますか?ちょっと待ってください。彼にいつが空いているか聞いてきますから」
そういうと、絵里姉は、私たちがいる別室に戻ってきた。
「絵里姉。どうするつもり?」
問いただす私を無視して、携帯電話のメモリをチェックし始める。
「…えぇっと、確か、あった。あった」
そう言う間もなく、電話しだす。
「もし、もし〜、電話、とおいなぁ〜、猿ぅ〜?アタシ。今、どこ?…ベトナム?ハノイ?ちょうどいいわね。チケット取ってよ」
麻美が呆然と絵里姉を見上げている。
「おっけ。おっけ。じゃあ、まったね」
「絵里姉!いいの?そんなの勝手に!」
「大丈夫よ。猿は人間だから。猿みたいだから、猿。田中って名前だけど、覚えづらくて、猿って呼んでいるの」
「そんなことを聞いているわけではなくて…」
「大丈夫よ。元彼よ。安全でしょ?」
「そうではなくて…、逃げるだけでは、何の解決にもならないって言っているのです」
麻美が言った。
「まぁ、まぁ、環境を変えるのもいいものよ。特にここの環境をね」
そう言って、絵里姉は自分の胸を叩いてウインクした。
そうして幸さん親子は強制国外追放されてしまった。
ここからは、幸さんから聞いた話だ。
幸さんはハノイについて、猿…田中に格安ホテルを紹介してもらった。
そこで、猿田中は、籠りがちになる幸さんにどうせなら旅行をしたほうがいいと勧めたらしい。
「幸さんは、どこに行きたいですか?」
猿田中がそう聞くと、幸さんは、
「幸せになれる所に行きたい…」
と答えた。すると猿田中は、にやり…幸さんいわく、と笑って、
「ちょうどいいところがありますよ。ただ、僕は仕事があるので一緒には行けませんが、行き方を教えますよ」
そう言って猿田中は幸さんに場所と行き方を教えたそうだ。
「幸せになれる場所…」
幸さんはぼんやりと夢のような世界を思い描いた。
そうして、『幸せになれる場所』を目指し、子供をつれ旅立った。
が、最初は苦労の連続だった。
まわりの全てが怪しくて敵に思えたそうだ。
とにかくわけもなからない人々に声をかけられる。
連れて行かれそうになる。
子供の手を必死に握り締める。
汚いバスに詰めこまれ、降ろされた場所がどこかわからない。
とにかく、目的地の名前を連呼する。
通じたかと思えば、やっぱり違うところに連れて行かれる。
食事もなかなか思うようにとれない。
取れたかと思えば、子供は腹を下して泣きじゃくる。
自分もおなかが痛い。
英語とも日本語ともつかないやり取りで、とにかく目的地を目指す。
ある時は、山道は崖崩れで、一日立ち往生。
「あの、インチキ霊媒師」
何度も『絵里姉』を恨んだそうだ。
ひどい雨の中、来るか来ないかわからないバスを待ちながら、
「ごめんね」
幸さんが子供にそう言うと、さっきまで腹を壊して泣いていた子供が、
「大丈夫だよ。僕が付いているよ」
と慰めてくれたそうだ。
なんだかんだと山を越え、ボーダーを越え、そして、また山を越え、猿田中が言っていた『幸せになれる場所』についたそうだ。
そこは、もちろん、天竺ではない。
外国人の目立つちいさな村だった。
村のメインストリートと思われる場所にレストランが立ち並び、
それらのお店には、
「WE HAVE HAPPY!」
と壁や看板のいたるところに書かれている。
だが、それらは怪しいお店ではなく、リゾート地によくある明るいお店だ。
看板に書かれたメニューには、『ハッピーピザ』『ハッピーシェイク』などの文字が並んでいる。
そして、それらに立ち並ぶ一軒の小さなホテルに足を踏み入れると、小さなお子さんを抱いた若いお母さんが出てきた。
幸さんは、恐る恐るきいた。
「DO YOU HAVE HAPPY?」
「YES. DO YOU WANT HAPPY?」
*
そして、現在。
「よ!インチキ霊媒師」
そんな有り難くない挨拶をしながら、幸さんはオフィスに入ってきた。
DVに悩む女性が帰った後、私たちは幸さんに連絡を取り、幸さんを呼んだのだ。
幸さんは、1か月の逃避行の末、親子ともども真黒に日焼けをして帰ってきたのだ。
そして、真っ先に旦那の待つ家に帰り、離婚届を叩きつけ、警察やら裁判所やら近所の人やらを巻き込むだけまきこんで、離婚にこぎつけたのだ。
「人間。なるようになる」
が幸さんの口癖になり、母子家庭でギリギリの生活を送りながらも、DVに悩める女性を救うべくNPOを立ち上げ、活動中である。
「でも、私は、何も知らない親子をアジアに送り込むような真似はしないから、安心しな」
そう言って、幸さんは豪快に笑った。そして、
「私は、HAPPYになりたいけど、HAPPYはいらないな」
逃避行の話の続きだが、HAPPYとは、マリファナの隠語である。
東南アジアでは、公然とそれらを売るお店が少なくない。
そして、ホテルで出会った若いお母さんも、いわゆるバイヤーである。
子供を育てるため、生活のための手段である。
それらは簡単にHAPPYにしてくれるが、本当に欲しいHAPPYはそこにはなかった。
だから、幸さんは帰ってきたのだ。
でも、そこで出会った人も同じ人間だった。
そんな当り前のことにも気付けたから、開き直れたのだ。
「なるようになる?なるようにさせるじゃなくて?ならぬなら、ならしてみせよう。ホトトギス」
絵里姉がくすくす笑いながら聞いた。
幸さんのやり方は、かなり強引らしい。
相手を怒らして、幸さん自身も危ない目に遭っている。
「インチキ霊媒師には言われたくない」
真っ黒な笑顔の口元に光る白い歯は、幸さんをさらに健康的に見せた。
「で、インチキ霊媒師さん。私の役目は何でしょう?」
「ある女性をHAPPYへご案内してください。もちろん偶然を装ってね」
絵里姉がいうHAPPYとは、NPOの名前である。
幸さんが本当に幸せを手に入れたかどうかはわからない。
ただ、幸さんの笑顔は少しだけ私をHAPPYにしてくれる。
インチキ霊媒師に幸あれ!
お話に出てくる『幸せになれる場所』は実在の場所をモデルにしています。
地名は出しておりませんが、もちろん、そこでも「HAPPY」は違法です。